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川端康成「山の音」

2009-07-03 13:07:28 | 読書

           
 この「山の音」は、名作だとか傑作だとか言われている。そう言われているからと言って、同調することもない。読み手の感性がそれを判断すればいいだけのこと。 とはいっても川端康成は、ノーベル賞を受賞するほどのスーパー・スターだ。このレベルになると、決して読者を裏切ることはない。古臭い陰気な物語も、途中で放り出すこともなかった。
 この本も60歳を超えた男の心情を、細やかな襞を重ねるように個性を表現した語り口が印象に残る。もっと砕いて言えば、性的な匂いに包まれたきれいな日本語で表現してあるとでも言えばいいか。
 尾形信吾は61歳になる。妻保子は、一つ年上の62歳。鎌倉に住んでいて、東京の会社に出勤している(現在でも一時間近くかかる。当時は冷房がなかったので、夏の通勤は大変だっただろう)。息子の修一も同じ会社に勤めている。息子の嫁菊子ともども同居していて、四人家族で住んでいる。
 最近まで女中を使っていたというからかなりの資産家なのだろう。当時、昭和24年ごろ(1949年)といえばどこにでもある日本の家庭風景だろう(家族構成に限れば)。修一はかなりハンサムで、妻の菊子も美人だった。そんな妻を持ちながら、修一は別に女を持っていた。不憫を思う信吾が、徐々に菊子に一方ならず思いやりを示すのも自然なものに思われた。
 しかし、信吾には人には言えない、ましてや妻の保子には言えない秘密があった。それは保子の人妻の姉に恋焦がれたことだった。いまだに早く他界した義姉の面影が菊子に重なるようにまとわりつく。どうしても菊子が気がかりになる。気がかりになると挙動の観察が細かくなる。
 修一の相手というのは、戦争未亡人だった。信吾は修一がほかの女と関係を持ち始めてから、菊子の体つきに変化を見ていた。川端康成は次のように表現する。“菊子のからだつきが変わった。さざえの壺焼の夜、信吾が目を覚ますと、前にはない菊子の声が聞こえた”これは修一が未亡人から受けた技巧で、菊子が愉悦の声を上げたということだろう。川端康成は絶対に直截的な表現はしない。
 直截的でないだけに、非常にエロティックに感じられる。ある人が「川端康成は、性作家と言ったか性表現の巧みな作家」と言ったかはっきりしないが、そんな記事をどこかで読んだ記憶がある。まさにそういう作家で間違いないだろう。
 花のひまわりを見て“さかんな自然力の量感に、信吾はふと巨大な男性のしるしを思った。この蕊(しべ)の円盤で雄しべと雌しべとが、どうなっているのか知らないが、信吾は男を感じた”
 “ワイシャツを脱ぎ、シャツを着替えるとき、修一の乳の上や腕の付け根が赤くなっているのを、信吾は見て、嵐の中で(台風が来た夜があった)菊子がつけたのかと思った”というような記述が随所に出てきて、信吾もまだまだあちらのほうは元気なのだろうと想像するが、戦中からずっと女の肌に触れていないという。
 それはあきらめたわけではなく習い性になっただけという説明だ。妻と同じ部屋で寝ているが“保子はいびきの癖があったが結婚で止まっていたのが、五十を過ぎて再発した。信吾は保子の鼻をつまんで振るようにする。それでもとまらない時は喉をつかまえてゆすぶる。それは機嫌のいいときで、機嫌の悪い時は、長年つれ添ってきた肉体に老醜を感じる。今夜も機嫌の悪いほうで、信吾は電灯をつけると、保子の顔を横目で見ていた。喉をつかまえてゆすぶった。少し汗ばんでいた。はっきり手を出して妻の体に手を触れるのは、もういびきをとめる時くらいかと、信吾は思うと、底の抜けたような哀れみを感じた”とある。
 これは男の傲慢さを感じるが、信吾が菊子を性的に見つめる伏線となっているように思う。菊子のうなじの美しさや、体につけた香水の匂いに心が乱れる様は、信吾の内奥を表している。
 信吾が老醜を嫌うのであれば、若い肉体に傾斜していくはずが、若い芸者と小部屋に入っても何もしなかった。まるでのちの作品「眠れる美女」ではないか。「眠れる美女」は高齢の男が、眠っている若い女と横臥しながら肌に触れないという、なんともわたしには理解しがたい精神世界を描写してあった。
 この「山の音」は、信吾と菊子の濃密な関係が目を引くが、妻の保子や出戻り娘の房子と二人の子供、それに信吾の会社の秘書谷崎英子、修一の女絹子といったバイ・プレイヤーの存在が、一小市民の日常に欠かせないものになっている。
 言ってみればこれは一人称の小説で、信吾の視点だけで人物を浮かび上がらせ描写している。一人称は、平板になりやすいともいわれるが、「山の音」はそれを感じさせない。
 この小説は読者が限定される。60歳以上で若い女性に視線を這わせチョットした妄想を楽しめる人なら、信吾の気持ちが痛いほどわかるだろう。若い男やましてや女が読むのは、時間の無駄というものだ。ただし、川端康成の文体を楽しみたいと思うなら、それはそれで意味のあることだろう。
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