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ロバート・ゴダード「一瞬の光のなかで」

2008-08-24 11:46:56 | 読書

              
 五年前の交通事故が近因で、愛娘を失いすべての破滅につながるとは思ってもいなかった。
 ウィーンの街の広場で構図を決めて今まさにシャッターを切ろうとした瞬間、赤いコートを着た女がレンズに入ってきた。全体にくすんだ街の色彩に赤い点は格好のアクセントになるはずだ。急いでシャッターを切ったとき、女が近づいてきて「わたしは写真を撮られるのが嫌いなの」と言った。
 これがほんのきっかけで、二人は急速に接近して行った。プロのカメラマンのイアン・ジャレットと人妻のマリアン・エスガードは、お互いに惹かれあい五日間のウィーン滞在中、熱情にとらわれたように愛を交わし続けた。イアンもマリアンも家庭を捨てることを誓い、再会を約してそれぞれのロンドンの住処に帰っていった。
 約束の日にそのホテルで待ったイアンの前にはマリアンは現れず一本の電話が別れを告げた。しかも住所も電話番号も聞いていなかった。イアンはそれらを聞いたが、彼女は巧妙に言質を避けていた。それ以上に驚くべきことは、持ち帰ったフィルムを友人のティムが現像したが、感光して何も写っていなかった。いったい誰が? 疑う余地はなかった。マリアン以外に誰がいるというのか。
 ここから謎解きが始まり、雨の夜一人の女性をはねた交通事故に起因する巧妙な罠が、現像液に浸した印画紙のように徐々に浮かび上がってくる。文体は気品があって言い回しにも好ましいセンスとユーモアで織り交ぜたタペストリーといった趣だ。
 このイアンという三十九歳にもなる男は、夫のある女性に一目ぼれをして衝動的にベッドを共にする軽薄さや家族を捨てるというおおよそ常識とかけ離れた行動をとる。(ニコルという報道記者との不倫で夫婦の不和が続いているという事情もあるが)
 イアンの人間性を疑うのは、交通事故の被害者の葬儀にも参列せずまた被害者の両親に対して手紙の一本も届けていないという身勝手な男だ。男の身勝手というのはイアンに限ったことではない。この本にも紹介されているが、19世紀の男性優位主義が重要な要因となって現在もその残滓が男の心の片隅でくすぶっているのは確かだ。そのよってくるところに悲劇があると言いたいのかもしれない。
 ある人は著者の最高傑作だという人もいるが、わたしには今のところわからない。これが一冊目だから。著者は、英国ハンプシャー州生まれ。ケンブリッジ大学卒。1986年の処女作『千尋の闇』以後、『リオノーラの肖像』『さよならを言わないで』などがある。
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