天さんのイノコマツリをしていると聞いていた明日香村の越(こし)。
氏神さんは許世都比古命(こせつひこのみこと)神社。
通称は「五郎(老)宮(ごろうぐ)」である。境内社に厳島神社こと弁財天社がある。
弁財天と刻まれた燈籠は「享和五年」。
享和年代は4年(1804)しかない。
なにかの見間違いであろうか。
月初めの亥の日に行われるイノコマツリ。
充てる漢字は亥の子祭りであろう。
夜6時ともなれば村の氏子(28戸)が集まる場だ。
それに先立って幕を張るトヤ(頭家)家。
神饌や御幣も供えて村人を待つ。
御幣は木でもなく、竹でもなく、「ヨシ」である。
「ヨシ」が生えている地も少なくなり、「遠くまで採りにいかなあかんようになった」と云う。
弁天さんのマツリでは1本の御幣であるが、秋のマツリでは24本も作るそうだ。
弁天社の境内に手伝いさんが用意していた湯釜がある。
穴を掘ってそこに雑木を燃やす。
釜床は穴なのである。
イノコマツリが始まる前に拝見した羽根付き湯釜に刻印があった。
「大和 高市郡越村 五師大明神 御湯釜 明和三年(1766)七月吉日 五位堂村鑄物元祖 津田五郎平 鑄之」である。
凡そ250年前に鑄造された湯釜である。
刻印にある鑄物師の名は「津田五郎平」。
津田家は、湯釜が製作される28年前の元文三年(1738)に高市郡の鑄物大工職許状を授かった五位堂鋳造名家のひとつ。
家祖は、慶長十九年、「国家安康」で名高い京都方広寺大佛殿梵鐘を鋳造した脇棟梁の一人で、享保十五年(1730)に「大工津田大和藤原家次」の名を拝領したそうだ。
御所市の蛇穴(さらぎ)で拝見した湯釜は同じく津田家の鋳造。
「和葛上郡三室村御湯釜頭主米田磯七 文化十四年(1817)九月吉日 津田大和大掾藤原定次」であった。
越の湯釜のよりも新しい200年余のもの。
しかも釜の羽根には寶珠の文様がある極めて珍しい様式。
貴重な湯釜であるが、トヤ(頭家)を手伝う人は始めて知ったと云う。
越の氏子は28軒。氏子入りした順に勤めるトヤ(頭家)家である。
秋のマツリの御幣は24本。
この日に聞いた氏子中は22、23軒だと云うから2年前に聞いていた氏子中から何らかの理由で数軒が辞退されたのであろう。
トヤ(頭家)家だけでは負担がかかる。
隣近所が支援するお手伝いも忙しく作業をされる。
この日もされていた境内雑木の伐採である。
トヤ(頭家)家は弁財天社の神饌だけでなく、許世都比古命神社本殿、燈籠にモチを供える。
鳥居下にある庚申さん、大師堂などにも供える。
それより1時間前。
祭祀を勤める飛鳥坐神社宮司は村内50戸を一軒、一軒巡っていた。
訪れた家に上がって「神棚に向かってお祓い、次に火を使う場に赴いて紙ふぶきをしますんや」と云うトヤ家の手伝いさん。
「もう終わっているけど我が家に来て見ますか」と云われて案内される婦人。
その場はIHヒーターがある炊事場だった。
床には紙ふぶきが散らばっていた。
かつては竃であった一年に一度のお祓いは「火」の用心。
三宝さんなども含めて火の神さんを鎮めるお祓いである。
最初にお祓いをされる家はトヤ(頭家)家。
それから「の」の字を書くように村中を巡っていく。
1軒あたり8分間ぐらいかかっていたのであろうか、旧村全戸を終えるには3時間もかかるお祓い。
道案内される人も宮司も汗びっしょりであった。
その頃、ピカッと光り出したカミナリ。
ゴロゴロと音も鳴りだして、弁天社で御湯(おみゆ)の神事をされるときには土砂降りになった。
とんどを設えていた境内は泥水に浸かってビタビタである。
運動靴も上着もグシュグショに濡れてしまう御湯の神事。
宮司が出仕される前から雑木に火を点けて湯を沸かしていた。
木の蓋を開ければもうもうと湯煙りがわきあがる。
塩、酒を湯釜に投入されて幣で掻き混ぜる。
テントで覆った斎場にカミナリの光りが走る。
湯に浸けた二本の笹。
参拝者に向かって祓い。
そして祝詞奏上で締められた。
参拝される氏子は傘をさしているが地面は水浸しである。
本来であれば暖をとるとんど周りに座ってパック膳を食べる直会となるが、この日はとてもじゃないが不可。
こういう雨天の場合は神社の参籠所が場になる。
膳が配られた席につく氏子たち。
始める際にはトヤ(頭家)家の施主が口上を述べる。
それから座中に酒を注ぎ回って総代の乾杯でいただく直会は「座」であった。
その間はトヤ(頭家)も手伝いさんも食べることはせずに接待に徹する。
下げた130個の「ゴク(御供)」のモチは数個ずつ座中に分けて席に配る。
「稲を刈り取った一束は、人が一日に食べる量。
お米三合に相当する米粒は1万五千粒。
イノコは新米に感謝する日である」と述べられた飛鳥宮司。
お米はパック詰め料理になったがありがたくいただく座中食。
越の座中は正式には宮講氏子。
15年ほど前までのマツリはたいへんであったと云う。
「ゴンダ」と呼ばれるご馳走は白菜と鯨のコロ。
ハモの照り焼きに新米ご飯のてんこ盛り。
ナマブシ、タイメンもあったそうだ。
供えた鯛は竹の皮に包んで蒸す。
鯛をほぐして大皿に盛った上にソーメンを乗せるなど、とにかくたいへんやったと話す。
それより以前の平成7年ではアンツケモチもあったそうだ。
弁天さんの日にはオハギ。
秋のマツリではコシアンだったアンツケモチ。
予め作っておいたアンツケモチは始めに手伝い家に配る。
宮講氏子(氏講とも)には昼に配っていたそうだ。
毎年10月8日は宮送り。
夕方にトヤ(頭家)家を出発するお渡りには伊勢音頭も唄われる。
拝殿で高砂などを謡ってトヤを引き継ぐ儀式もあるらしい。
その際には三段重ねの錫杯で酒をいただく三三九度の酒杯。
杯は真ん中の杯を選ぶことになっている。
仲の良いようにということである。
差し出す料理はカマス、スルメ、マツタケだそうだ。
トヤ受けには受けるホンカゲとウラカゲがある。
ウラカゲはどうやら予備の者らしい。
昔は紋付き袴でトヤ受けをしていたが、今では礼服でトヤ渡し。
儀式を終えれば受けトヤ(頭家)の家までお渡りをする。
二十数年の廻りのトヤは一年間の奉仕。
1月14日のとんどの日で役目を終える。
ご馳走は簡素化されたが、夏祭り、八朔日待ちもある越の年中行事には再訪したいものである。
(H25.11.17 EOS40D撮影)
氏神さんは許世都比古命(こせつひこのみこと)神社。
通称は「五郎(老)宮(ごろうぐ)」である。境内社に厳島神社こと弁財天社がある。
弁財天と刻まれた燈籠は「享和五年」。
享和年代は4年(1804)しかない。
なにかの見間違いであろうか。
月初めの亥の日に行われるイノコマツリ。
充てる漢字は亥の子祭りであろう。
夜6時ともなれば村の氏子(28戸)が集まる場だ。
それに先立って幕を張るトヤ(頭家)家。
神饌や御幣も供えて村人を待つ。
御幣は木でもなく、竹でもなく、「ヨシ」である。
「ヨシ」が生えている地も少なくなり、「遠くまで採りにいかなあかんようになった」と云う。
弁天さんのマツリでは1本の御幣であるが、秋のマツリでは24本も作るそうだ。
弁天社の境内に手伝いさんが用意していた湯釜がある。
穴を掘ってそこに雑木を燃やす。
釜床は穴なのである。
イノコマツリが始まる前に拝見した羽根付き湯釜に刻印があった。
「大和 高市郡越村 五師大明神 御湯釜 明和三年(1766)七月吉日 五位堂村鑄物元祖 津田五郎平 鑄之」である。
凡そ250年前に鑄造された湯釜である。
刻印にある鑄物師の名は「津田五郎平」。
津田家は、湯釜が製作される28年前の元文三年(1738)に高市郡の鑄物大工職許状を授かった五位堂鋳造名家のひとつ。
家祖は、慶長十九年、「国家安康」で名高い京都方広寺大佛殿梵鐘を鋳造した脇棟梁の一人で、享保十五年(1730)に「大工津田大和藤原家次」の名を拝領したそうだ。
御所市の蛇穴(さらぎ)で拝見した湯釜は同じく津田家の鋳造。
「和葛上郡三室村御湯釜頭主米田磯七 文化十四年(1817)九月吉日 津田大和大掾藤原定次」であった。
越の湯釜のよりも新しい200年余のもの。
しかも釜の羽根には寶珠の文様がある極めて珍しい様式。
貴重な湯釜であるが、トヤ(頭家)を手伝う人は始めて知ったと云う。
越の氏子は28軒。氏子入りした順に勤めるトヤ(頭家)家である。
秋のマツリの御幣は24本。
この日に聞いた氏子中は22、23軒だと云うから2年前に聞いていた氏子中から何らかの理由で数軒が辞退されたのであろう。
トヤ(頭家)家だけでは負担がかかる。
隣近所が支援するお手伝いも忙しく作業をされる。
この日もされていた境内雑木の伐採である。
トヤ(頭家)家は弁財天社の神饌だけでなく、許世都比古命神社本殿、燈籠にモチを供える。
鳥居下にある庚申さん、大師堂などにも供える。
それより1時間前。
祭祀を勤める飛鳥坐神社宮司は村内50戸を一軒、一軒巡っていた。
訪れた家に上がって「神棚に向かってお祓い、次に火を使う場に赴いて紙ふぶきをしますんや」と云うトヤ家の手伝いさん。
「もう終わっているけど我が家に来て見ますか」と云われて案内される婦人。
その場はIHヒーターがある炊事場だった。
床には紙ふぶきが散らばっていた。
かつては竃であった一年に一度のお祓いは「火」の用心。
三宝さんなども含めて火の神さんを鎮めるお祓いである。
最初にお祓いをされる家はトヤ(頭家)家。
それから「の」の字を書くように村中を巡っていく。
1軒あたり8分間ぐらいかかっていたのであろうか、旧村全戸を終えるには3時間もかかるお祓い。
道案内される人も宮司も汗びっしょりであった。
その頃、ピカッと光り出したカミナリ。
ゴロゴロと音も鳴りだして、弁天社で御湯(おみゆ)の神事をされるときには土砂降りになった。
とんどを設えていた境内は泥水に浸かってビタビタである。
運動靴も上着もグシュグショに濡れてしまう御湯の神事。
宮司が出仕される前から雑木に火を点けて湯を沸かしていた。
木の蓋を開ければもうもうと湯煙りがわきあがる。
塩、酒を湯釜に投入されて幣で掻き混ぜる。
テントで覆った斎場にカミナリの光りが走る。
湯に浸けた二本の笹。
参拝者に向かって祓い。
そして祝詞奏上で締められた。
参拝される氏子は傘をさしているが地面は水浸しである。
本来であれば暖をとるとんど周りに座ってパック膳を食べる直会となるが、この日はとてもじゃないが不可。
こういう雨天の場合は神社の参籠所が場になる。
膳が配られた席につく氏子たち。
始める際にはトヤ(頭家)家の施主が口上を述べる。
それから座中に酒を注ぎ回って総代の乾杯でいただく直会は「座」であった。
その間はトヤ(頭家)も手伝いさんも食べることはせずに接待に徹する。
下げた130個の「ゴク(御供)」のモチは数個ずつ座中に分けて席に配る。
「稲を刈り取った一束は、人が一日に食べる量。
お米三合に相当する米粒は1万五千粒。
イノコは新米に感謝する日である」と述べられた飛鳥宮司。
お米はパック詰め料理になったがありがたくいただく座中食。
越の座中は正式には宮講氏子。
15年ほど前までのマツリはたいへんであったと云う。
「ゴンダ」と呼ばれるご馳走は白菜と鯨のコロ。
ハモの照り焼きに新米ご飯のてんこ盛り。
ナマブシ、タイメンもあったそうだ。
供えた鯛は竹の皮に包んで蒸す。
鯛をほぐして大皿に盛った上にソーメンを乗せるなど、とにかくたいへんやったと話す。
それより以前の平成7年ではアンツケモチもあったそうだ。
弁天さんの日にはオハギ。
秋のマツリではコシアンだったアンツケモチ。
予め作っておいたアンツケモチは始めに手伝い家に配る。
宮講氏子(氏講とも)には昼に配っていたそうだ。
毎年10月8日は宮送り。
夕方にトヤ(頭家)家を出発するお渡りには伊勢音頭も唄われる。
拝殿で高砂などを謡ってトヤを引き継ぐ儀式もあるらしい。
その際には三段重ねの錫杯で酒をいただく三三九度の酒杯。
杯は真ん中の杯を選ぶことになっている。
仲の良いようにということである。
差し出す料理はカマス、スルメ、マツタケだそうだ。
トヤ受けには受けるホンカゲとウラカゲがある。
ウラカゲはどうやら予備の者らしい。
昔は紋付き袴でトヤ受けをしていたが、今では礼服でトヤ渡し。
儀式を終えれば受けトヤ(頭家)の家までお渡りをする。
二十数年の廻りのトヤは一年間の奉仕。
1月14日のとんどの日で役目を終える。
ご馳走は簡素化されたが、夏祭り、八朔日待ちもある越の年中行事には再訪したいものである。
(H25.11.17 EOS40D撮影)