マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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栗原・呉津彦神社の八朔日の風日待ち

2021年08月10日 08時41分25秒 | 明日香村へ
明日香村を訪れ、撮影していた写真家のKさんから電話をもらった。

遭遇した村の人が話してくれた村の行事。

詳しいことはわからないが、その人を訪ねてくださいと、いうことだった。

行事の場は、明日香村の栗原に鎮座する呉津彦神社。

行事は、八朔の風日待ちである。

私にとっては、初めて伺う地。

神社の所在地もわからないからカーナビゲーションの”栗原”中心地をセットして車を走らせた。

到着時間は午後5時40分。

近鉄電車の飛鳥駅前の信号を左折。

左手に見た下平田南。

さらに東へ数百メートル行ったところの三叉路を右にまっすぐ。

近くまで来ているのに、集落らしき場が見つからない。

行ったり、戻ったりし、これか、と思って入った村の道。

道なりに走ったそこに見えた鳥居。

多少の道誤りはあったが、ようやく着いた。

この日の天候は不順。

今にも雨が降りそうな怪しい雲行き。

台風21号の影響が、徐々にやって来そうな気配である。

石の鳥居を潜って神社に着く。

社務所、拝殿におられた村の人に声をかけ、Kさんの紹介できた、と告げてお会いしたTさんは77歳の年長者。

村の代表であるN総代とともに栗原の主だった年中行事を教えていただく。

N総代は、63歳。

かつては木製の鳥居であったが、石の鳥居に据え替えた。

鳥居に掲げていた扁額を、もう一度眺めたが“呉津彦神社だったが・・。

昭和62年3月に発刊された飛鳥民俗調査会の調査・編集の『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』 に栗原・呉津彦神社の祭り行事を伝えている。

10月8日は、元講による吉野川水汲みがあり、呉津彦神社に塩餡餅を供え、ほーらく飯を食べていた。

戦前までは元講・新講が、戦後統合し村講に移ったとあり、10月28日は、八幡神社の行事がある、と・・・。

「祭神は、木花咲耶姫命。雄略記に、このとき、呉人参り、渡り来る。その呉人を呉原(くれはら)に安置する」、とある。

いつしか、呉原の読みは転化され、合わせて充てる漢字も時代の趨勢に転じ、栗原(くりはら)の地に改名したと考えられる。(※筆者の見地から読みやすく、また若干追補した)」

「栗原の“座”は、戦前まで元講・新講の二組があった。戦後に二組を統合、一つの村講とし、現在に至る。」、「なお、呉津彦神社は、八幡社を合祀している二社並びの形態である」



左に、木花咲耶姫命を祭る呉津彦神社。

右は八幡社、だという総代と年長のTさん。

そろそろ始めますからと、伝えられた一同は、拝殿でもある参籠所の一角にあがった。



扉を開放した向こう側は、呉津彦神社に八幡神社。

二社ともに予め供えていた神饌御供は木桶盛り。

木桶の右手はお神酒。

これもまた口開けをして供えていた。

この日の行事は、八朔日の風日待ち。

八朔は、旧暦でいう八月朔日。

私の知る範囲内では、新暦の9月1日、若しくは前日の8月31日に行われているが、昨今は、より日曜日に近い日にされるケースも増えつつある。

また、栗原では、この日を、風日待ちとも呼んでいる。

春に作付け、栽培した稲作。

穂が実ったころにやってくる大風に負けんよう、祈りを込めて豊作を願う。

風祈祷と呼ぶ地域もまた多い。

せっかく稔ってきて、もうすぐ収穫だ、という時季にやってくる大風。

来やんように、通るルートは外れてほしいと願うばかり。

年長のTさんは前方、中央先頭に座って導師役を務める。



鉦は打つことなく、三巻の般若心経を唱える。

氏子たちは、神さんに拝して豊作を祈願。

その間に鳴くツクツクボウシ。

真夏の気温もやや下がり、いつしか夏の終わりを告げる蝉の声だけが聞こえてくる。

台風21号の影響もあるような暗雲が・・。

黒い雲の動きは早く、西から東へ急ぐ雲。

いつ降ってきてもおかしくない状況にある中に行われた八朔日の風日待ち行事。



一巻、唱えるたびに、導師に合わせ、氏子一同がそろって頭をさげていた。

短い時間に行われた神事ごと。

大風の影響は厳しくもなく、北の方角に黒雲が流れていった。

氏子は、雲の動きをスマホでとらえていた。

特に顕著だったのは、奈良北部。雨が降っている地域は奈良市内辺り。

明日の午前中いっぱいは、本降りになるであろう、と・・・。



雨がふるやもしれないと判断されて、すぐさま動いた御供下げ。

参籠所に運ばれたお神酒。

神酒口を開けたそこに複数枚の葉をつけた熊笹を挿していた。



清めの熊笹という神酒口。

数々の県内各地の神事ごとを拝見してきたが、お神酒徳利の榊立はあるとしても熊笹葉を挿す神酒口事例は多くないだろう。

下げた御供にお神酒を組んだ円座の中央においてはじまった直会。



自治会長の挨拶に、村の連絡事項を伝えてからお茶で乾杯された。

昔は、カマボコにチリメンジャコを口にする酒の肴であったが、現在は、店屋で買ってきた総菜とか、アテ、つまみになるスナック菓子に移したようだ。

栗原には、かつて子どもは多くいた。

溢れるほどの村の人も参拝に盛り上がった直会の会食は、家で作った料理を詰めた重箱。

弁当なども、各家がそれぞれに持ち寄って食べていたそうだ。

ちなみに神事を撮っていた立ち位置は、参籠所の玄関口。

そこに立ててあった行燈であろうか。

かつて火を灯していたのでは、と思われる祭りの道具に文字がある。



「栗原青年団 今年のかさもちは誰の手に?!」から推定する”かさもち”である。

おそらく御供撒きをされていたのであろう。

御供は餅。数多く搗いた餅のほとんどは小餅に。

数は少ないと判断される”かさもち”は、丸く平べったい形。

その大きさは、直径30cmくらいか。

その形はまるで円盤。

それを”かさもち”と呼ぶ地域はままある。

充てる漢字は”笠餅”。

枚数が少ない笠餅は、小餅の御供撒きより、より争奪戦になることは多い。

これまで拝見してきた数々の御供撒き(※供える餅でなく、単に餅とする地域もあるが・・)は、いずれもがっちり餅を手に入れる争奪戦である。

”笠餅”の形から、遠くに飛んでいく。

数人が待ち構える落下地点に、勢いよく伸びあがったその手に・・・が、想像できよう。

ところで、先にあげた祭り行事の他にも神社行事をしているそうだ。



集落戸数は24戸(※上、谷、古、中、原)。

前述した二座(※八幡座)のいずれかに属し、祭り行事に二人の頭屋が就く。

一年交替制の頭屋は、祭りのたびに用具や御供などの準備もあるが、落葉など、事欠かない毎月の清掃作業もしている。

本日の八朔日の風日待ち他、農作に欠かせない神事は、5月初めに行われる「ケツケ」や6月は、田植え終わりの「さなぶり」もある。

「ケツケ」は、田植え前に豊作を祈る村行事。

村の人たちすべてが、無事に田植えを終えて、豊作を願う村行事。充てる漢字は「毛付け」。

冬野・観音さんの十七お会式」にも書いていた「毛」である。

「毛」は、稲作はもちろん、畑作などの農作物の生育を現す「毛」。

かつては二毛作の時代があった。

その「毛」は、稲作、畑作などで栽培される穀物や植物のこと。

穀物や植物が立派に成長し、立つという意味をもつ「毛付け」。

収穫する前の農作物を栽培する過程の育成状態を品評する立毛品評会(たちげひんぴょうかい)がある。

奈良県事例では、苺、茄子、柿であるが、全国的にみれば、薔薇、菊、カーネーションなど鑑賞用の花き(※充てる漢字は花卉)園芸ものもあるし、ネット事例からざっと挙げるだけでもたくさんある。

小松菜、ほうれん草、梨、トマト、ポンカン、胡麻、胡瓜、葱、アスパラガス、唐辛子、馬鈴薯・・・・。

数えるだけでも、えげつないほど出現するネット事例の「立毛」である。

興味もった盆の習俗に「七日盆の井戸替え」があるらしい。

奈良県事例に七日盆あり。

お盆を迎えるその日は、墓掃除もあれば、溜まった泥やごみを取り除く井戸替え(※井戸浚えとも)がある。

分水が整った現在では、井戸浚えをする地域は、極端に少なくなった。

集落に共同利用する井戸も無用になり、埋める地域も少なくない。

個人宅にあった井戸も、浚え作業に体力が難しくなり、共同井戸と同じように埋める傾向にある。

民俗ではないが、ここ栗原に樹齢のわからない大木がある。

鳥居くぐりから階段を登り詰めた右手にそびえる大木は巨樹のムクロジ

ちなみに拝殿・参籠所の裏に廻ってみたら、数々の石塔がある。



整然と並んでいる石塔群の所有寺は、浄土宗竹林寺

飛鳥の歴史探索コースの一つである「歴史街道リレーウォーク」コースになっているようだ。

(H30. 8.31 EOS7D撮影)


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