memories on the sea 海の記録

海、船、港、魚、人々、食・・・などなんでもありを前提に、想い出すこと思いつくこと自由に載せます。

バリ海峡のマイワシ漁   インドネシア(3)

2014-08-08 00:03:37 | 亜細亜海道

実際のところ全船団を見ても、日々の漁獲は30トン程度であると漁業局のAbidin はいう。これを78隻の船で分けると取り分は1隻当たり200ドル以下にしかならない(最盛期には190隻いた)この金額では夜間操業コストの半分にも満たない。
「われわれはこの海峡をあきらめて、インド洋に出るしかない」とBaijuri sighsはいう。

しかし、缶詰会社やペレット工場は移動する選択肢を持ち合わせいない。彼らは現存する設備を維持し、負債を払い、海外市場と取引しなければならないのだ。「我々は国際的に活動している」とPasific Harvest缶詰会社のGMのEdy Sukantoはいう。「我々の顧客はインドネシアではない。兎に角我々は安定した供給が必要なのだ」

2013年の後半、Muncar港の記録によれば Sukanto は 118,560 キロのマイワシをパキスタンとチェコから輸入、中国から37,000 キロのサバを輸入した。これでも彼のプラントの飼料用の半分である。「どこにでも魚はいる。それを見つけてわれわれは輸入する」という暗い解決策である。

Muncarの加工業者らはマイワシを求めてインド、イエメン、ペルーから輸入せねばならない。疲弊した原料供給にもかかわらず、地元の加工業者らは賭けにでている。
Lemuruマイワシに関るものはこのサイクルをどう乗り切るか体験してきた。マイワシ資源は本質的に循環している。

いつもであればマイワシが来遊するのは6月から9月のモンスーンのピークのあと1.5ヶ月ほどである。この雨季に沖合いから東よりの風が吹き募り、冷たい真空状態により栄養塩の豊富な湧昇流が発生する。これによりマイワシノ餌となる動物プランクトンが繁殖する。この状態は年に一度か2度発生する。
しかし7~12年周期で、断続的にそして予測不能であるが、赤道地帯の大気圧システムとしてエルニーニョ南半球振動と呼ばれるものが発生する。これにより海中がかき混ぜられ、プランクトンの繁殖を促すことになり、これは11月から1月でも派生する。これによりマイワシの大量出現を引き起こす。

写真:空網だった


網職人が新進実業家に変貌     ベトナム

2014-08-08 00:03:16 | 亜細亜海道

ハノイ郊外のTran Phu村は海からは遠い、然しここの住民らが手作りの漁網で国際的に有名になった(7月24日TNN)

Tran Phu 村の網職人は農閑期の農民が始めたものが、国際的にも認知される新進実業家となったとVNA通信が伝えている。 

Tran Phuは国道1号線沿いにある。ハノイの中心からおよそ40km Minh Cuong集落地区のThuongにある。様々なサイズや色合いの網を吊るした店舗がおよそ1kmは続く。Tran Phuの人々は聖母と呼ばれる女性の振興を続けているが、その女性はThanh Hoa省から北という。地ら元の言い伝えではその女性が合成繊維の糸から網の作り方を教えたのだという。 

Dinh Ngoc Khuyenはこの村に網工場を持っている。彼によれば網造りの工程の全てが1980年代は人手に頼ったという。簡単な網であれば5人ほどのm職人で作れたという。その時代はそれぞれの職人が複雑な網の工程をそれぞれに受け持ったという。その時代彼の先代らは日本やシンガポールからの不安定な網糸原料の供給に頼っていた。

 1996年ころある家族がおよおVND10 billion (約 US$480,000) を投じて網糸製造工場を作った。その顧客は漁師たちだけではなく、農家や建設業者にも広まった。彼らは花卉や野菜を鳥害から守ったり建設現場の保安に用いた。このTran Phu は国中にブランドとして広まり、中国、ラオス、にも広がって1,500人規模の雇用を産み、さらには移住労働者も参入した。現在ではKhuyenは100人の従業員を雇い、一人一日あたりVND200,000 ($9.5) を支払っている。年寄りたちは自分の家で繊細な手仕事を行い一日3ドルを稼ぐ。彼の仲間のNguyen Van Quyはこの村で最大級の工場を持ち, who owns one of the biggest factoriesつきに90トンの網糸を 作っている。