完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

初老男、歳を実感する。      ~桂米朝逝去に思う~

2015年03月21日 | 
私は初老男である。


自分の歳を実感することは、歳を取れば取るほどその機会が増える。


大きな声でいうことではない。


当たり前のことだ。


特に「人の死」は、自分が生きてきた時間と残りの時間を実感させる。


リリーフランキーの「東京タワー」の中に、主人公のおばさんが「男は母親を送って初めて一人前だからね」と言うセリフがある。(ちょっと違った?)


名言である。


しかし、母親でなくても「人の死」は充分人間を大人にする。



            
          「桂米朝」


が亡くなった。



過去のこの人のことを記したのは2009年で、彼が文化勲章を授与されたときだ。


その時でも、たしか彼は高座には上がっていなかったと思う。


そうした意味でも、彼の落語を聞いたことがある人は減っているだろう。


まあ、私とて彼の落語を直接聞いたことがあるわけではないが・・・。


しかし、少しは落語ファンであろうとしている人間として、彼の落語・本・ひととなりに触れてきたつもりだ。


そして改めて思う。


桂米朝と同じ時代を過ごせて幸せだ、と。



何事にも、興味を持ちはじめたときに「根」となるものがある。


落語を興味をもって聞き始めたのは20代のはじめだったが、まずは江戸落語で「圓生」「志ん生」「圓楽」などの名人たち。


そして、上方落語。


落語よりも先に様々な活躍をしていたのが「桂三枝(現文枝)」「笑福亭仁鶴」であり、知ってはいたが、本格的に聞いたのは



           「桂枝雀」


いまだに、落語を聞くときはこの人の物が一番多い。


その枝雀の師匠が誰あろう米朝なのである。



桂枝雀は「時を感じさせない」落語家である。


彼が演じる人たちは、現実に隣にいる存在感がある。


逆に、米朝は「時を感じさせる」落語家だろう。


まるでタイムスリップしたかのように、昔の大坂の問屋の中に引き込まれる感覚。


番頭や丁稚に向かって「しっかりしな、あかんで」っていうセリフが、これほど似合う落語家はもう出てこないだろう。


そう、上方落語を聞くときは、この人が私の「根」になっているである。


高度な情報化社会になって・・・、そんなセリフさえ陳腐になった今の時代だ。


その中で「自分を見失わない」でいることは容易いことではない。


米朝の落語を聴くことには、そのことの効力がある。


これからも、私は米朝を聴きつづけるだろう。


ただ、本人が鬼籍に入ってしまったことで「。」を打たれたような突き放された気分になる。



これこそが、ある意味での「大人」になることだと感じるのだ。



今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも「同じ時間を過ごせてしあわせだ」という人を見つけますように。



        May



芸の伝承と言う意味において、落語家たちはほとんど形を受け継ぐのではなく「精神性」を受け継ぐモノなのだろう。米朝の弟子たちは、少しも彼の形を受け継いでいないように見える。










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