私は初老男である。
自分の歳を実感することは、歳を取れば取るほどその機会が増える。
大きな声でいうことではない。
当たり前のことだ。
特に「人の死」は、自分が生きてきた時間と残りの時間を実感させる。
リリーフランキーの「東京タワー」の中に、主人公のおばさんが「男は母親を送って初めて一人前だからね」と言うセリフがある。(ちょっと違った?)
名言である。
しかし、母親でなくても「人の死」は充分人間を大人にする。
「桂米朝」
が亡くなった。
過去のこの人のことを記したのは2009年で、彼が文化勲章を授与されたときだ。
その時でも、たしか彼は高座には上がっていなかったと思う。
そうした意味でも、彼の落語を聞いたことがある人は減っているだろう。
まあ、私とて彼の落語を直接聞いたことがあるわけではないが・・・。
しかし、少しは落語ファンであろうとしている人間として、彼の落語・本・ひととなりに触れてきたつもりだ。
そして改めて思う。
桂米朝と同じ時代を過ごせて幸せだ、と。
何事にも、興味を持ちはじめたときに「根」となるものがある。
落語を興味をもって聞き始めたのは20代のはじめだったが、まずは江戸落語で「圓生」「志ん生」「圓楽」などの名人たち。
そして、上方落語。
落語よりも先に様々な活躍をしていたのが「桂三枝(現文枝)」「笑福亭仁鶴」であり、知ってはいたが、本格的に聞いたのは
「桂枝雀」
いまだに、落語を聞くときはこの人の物が一番多い。
その枝雀の師匠が誰あろう米朝なのである。
桂枝雀は「時を感じさせない」落語家である。
彼が演じる人たちは、現実に隣にいる存在感がある。
逆に、米朝は「時を感じさせる」落語家だろう。
まるでタイムスリップしたかのように、昔の大坂の問屋の中に引き込まれる感覚。
番頭や丁稚に向かって「しっかりしな、あかんで」っていうセリフが、これほど似合う落語家はもう出てこないだろう。
そう、上方落語を聞くときは、この人が私の「根」になっているである。
高度な情報化社会になって・・・、そんなセリフさえ陳腐になった今の時代だ。
その中で「自分を見失わない」でいることは容易いことではない。
米朝の落語を聴くことには、そのことの効力がある。
これからも、私は米朝を聴きつづけるだろう。
ただ、本人が鬼籍に入ってしまったことで「。」を打たれたような突き放された気分になる。
これこそが、ある意味での「大人」になることだと感じるのだ。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも「同じ時間を過ごせてしあわせだ」という人を見つけますように。
May
芸の伝承と言う意味において、落語家たちはほとんど形を受け継ぐのではなく「精神性」を受け継ぐモノなのだろう。米朝の弟子たちは、少しも彼の形を受け継いでいないように見える。
自分の歳を実感することは、歳を取れば取るほどその機会が増える。
大きな声でいうことではない。
当たり前のことだ。
特に「人の死」は、自分が生きてきた時間と残りの時間を実感させる。
リリーフランキーの「東京タワー」の中に、主人公のおばさんが「男は母親を送って初めて一人前だからね」と言うセリフがある。(ちょっと違った?)
名言である。
しかし、母親でなくても「人の死」は充分人間を大人にする。
「桂米朝」
が亡くなった。
過去のこの人のことを記したのは2009年で、彼が文化勲章を授与されたときだ。
その時でも、たしか彼は高座には上がっていなかったと思う。
そうした意味でも、彼の落語を聞いたことがある人は減っているだろう。
まあ、私とて彼の落語を直接聞いたことがあるわけではないが・・・。
しかし、少しは落語ファンであろうとしている人間として、彼の落語・本・ひととなりに触れてきたつもりだ。
そして改めて思う。
桂米朝と同じ時代を過ごせて幸せだ、と。
何事にも、興味を持ちはじめたときに「根」となるものがある。
落語を興味をもって聞き始めたのは20代のはじめだったが、まずは江戸落語で「圓生」「志ん生」「圓楽」などの名人たち。
そして、上方落語。
落語よりも先に様々な活躍をしていたのが「桂三枝(現文枝)」「笑福亭仁鶴」であり、知ってはいたが、本格的に聞いたのは
「桂枝雀」
いまだに、落語を聞くときはこの人の物が一番多い。
その枝雀の師匠が誰あろう米朝なのである。
桂枝雀は「時を感じさせない」落語家である。
彼が演じる人たちは、現実に隣にいる存在感がある。
逆に、米朝は「時を感じさせる」落語家だろう。
まるでタイムスリップしたかのように、昔の大坂の問屋の中に引き込まれる感覚。
番頭や丁稚に向かって「しっかりしな、あかんで」っていうセリフが、これほど似合う落語家はもう出てこないだろう。
そう、上方落語を聞くときは、この人が私の「根」になっているである。
高度な情報化社会になって・・・、そんなセリフさえ陳腐になった今の時代だ。
その中で「自分を見失わない」でいることは容易いことではない。
米朝の落語を聴くことには、そのことの効力がある。
これからも、私は米朝を聴きつづけるだろう。
ただ、本人が鬼籍に入ってしまったことで「。」を打たれたような突き放された気分になる。
これこそが、ある意味での「大人」になることだと感じるのだ。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも「同じ時間を過ごせてしあわせだ」という人を見つけますように。
May
芸の伝承と言う意味において、落語家たちはほとんど形を受け継ぐのではなく「精神性」を受け継ぐモノなのだろう。米朝の弟子たちは、少しも彼の形を受け継いでいないように見える。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます