自由の名のもとに集った、怠惰、酷薄、無責任、ケチの精神性などがある。怠惰でいるのは自由、酷薄なのも自由、無責任だとしても自由、ケチなのも自由じゃん、っていう。ブログのログとりをしていると昔の記事を読んだりもして、それで昔の僕はこういうのをよくないと思っていたのを再認識したのだけど、そうとも言い切れないと思うのが今の僕。
「これらはダメだからこうありなさい」というように、良識的なスタンスを外部・他者から型にはめ込まれるかたちでは、子どもの教育ならまだしも、自我の確立した大人に対してはなかなかそうは飲み込めるものではないんじゃないのかなあ。
大人は自分でいろいろと考えた末に、その思索が内面化されたかたちで自分の態度を決めたらいい。そうすれば、内発的に「社会的に好ましい」振る舞いができるんじゃないのか。また、人生の初歩の時期つまり成人前までだとかでの様々な経験の影響などから、すんなりときれいな行為をとれない人もいる。
許すことや社会的包摂。そっちのほうの力がまずは要るのかもしれない。我慢とか耐性とかを試されるんですよね。辻村深月さんの短編集『鍵のない夢を見る』に、地域による社会的包摂の話だととれる作品がありましたけど、主人公は我慢が効かなかったんだったなあ。
マネー至上みたいな経済優先の競争社会では、我慢や耐えることは軽く見られませんか。欲望や欲求にしたがえ、とくる。それで経済が回るからいいのだ、とするけれど、文化的な面では貧しくなる部分がでてくるような気がするんです。むずかしいですね。
「これらはダメだからこうありなさい」というように、良識的なスタンスを外部・他者から型にはめ込まれるかたちでは、子どもの教育ならまだしも、自我の確立した大人に対してはなかなかそうは飲み込めるものではないんじゃないのかなあ。
大人は自分でいろいろと考えた末に、その思索が内面化されたかたちで自分の態度を決めたらいい。そうすれば、内発的に「社会的に好ましい」振る舞いができるんじゃないのか。また、人生の初歩の時期つまり成人前までだとかでの様々な経験の影響などから、すんなりときれいな行為をとれない人もいる。
許すことや社会的包摂。そっちのほうの力がまずは要るのかもしれない。我慢とか耐性とかを試されるんですよね。辻村深月さんの短編集『鍵のない夢を見る』に、地域による社会的包摂の話だととれる作品がありましたけど、主人公は我慢が効かなかったんだったなあ。
マネー至上みたいな経済優先の競争社会では、我慢や耐えることは軽く見られませんか。欲望や欲求にしたがえ、とくる。それで経済が回るからいいのだ、とするけれど、文化的な面では貧しくなる部分がでてくるような気がするんです。むずかしいですね。
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