読書。
『ロリータ』 ウラジーミル・ナボコフ 若島正 訳
を読んだ。
異形の大作家とも形容される著者の大ベストセラー作。ロシアに生まれ、アメリカにわたって、ロシア語から英語での執筆スタイルに変えて生まれたのが本作です。
ヨーロッパからアメリカに渡ってきた主人公の容姿端麗な中年男性、自称名ハンバート・ハンバートは、少女性愛者です。偶然が重なって間借りすることになった家宅で、そこの娘、ドロレス、愛称・ロリータとハンバートは出会ってしまう。ハンバートは魅力を放つ特別な少女のことを、妖精のニンフをもじり、ニンフェットと呼びますが、ロリータこそが理想的なニンフェットだとして、本性を隠しつつ狙いを定めていく____。
本書は初め、パリにあるポルノ小説のシリーズで悪評高い出版社のそのシリーズから出版されたそうです。アメリカではどこの出版社からも「うちでは出せない」と断られたのだそうです。そりゃ、やっぱり、12歳くらいの少女との性愛描写や性交まであります。それも、とある事件をきっかけにハンバートとロリータの二人でアメリカ各地を旅することになる中盤では、そのさなかでははっきり描写されていませんが、どうやらハンバートはロリータを慰みものにしつくしていた感が、後に感じられてきたりもして、「一線を越えまくってたんじゃないか!」と読み手のこちらはちょっと騙されていたような、罠にかかってしまった後のような気持ちになりました(僕が鈍いか、あまりにお人好しかで、そのロードノヴェルパート上で気づけなかったのかもしれません。弁解すると、著者の人格を勝手に想定して好意的に読むとそういうこともありえますが)。
『ロリータ』の主人公ハンバート・ハンバートが、どうして12~16歳ぐらいの少女に性的な執着を持つのか。それはどうやら自分が12歳だったか13歳だったかの頃にいちゃいちゃした同年の少女のすばらしさの印象が強烈に焼き付いているせいのようでした、文学的こじつけなのかもしれませんが。ただ、著者のナボコフはフロイトなどによる精神分析的な「象徴」などを用いた考え方を嫌っていて、本作でも精神科医を小馬鹿にしているところもありました。なので、ハンバートの性癖についても、幼少時体験のためだ、と確定的に考えるのは、本作としてはほんとうのところから逸れてしまうことになりそうです。
「ロリコン」「ロリータ・ファッション」など、本作から生まれた流行り言葉が現在は一般化し、多くの人がふつうに使う言葉になっています。それだけのインパクトが、この小説にはありながらも、読んでみた人って最近ではそれほど多くないような気がします。内容を知らずに、「ロリコン」などが独り歩きしているので、小説内容は、それへの「勝手な思い込みと決めつけ」に汚されているきらいもあります。誤解も多い、と言われるそうですが、本作が出版されたときも論争が起き、それがベストセラーへの契機になったとか。
著者・ナボコフは、母語・ロシア語ではないのに、あとで覚えた英語をうまく使いこなすどころか、名人の域でこういった大作を書き上げてしまう。「才能に恵まれた人」と大げさやお世辞ではなく評するとしたら、こういう人のことをいうのかもしれないですね。文章ひとつとっても、文体にしても、翻訳越しに読んでいても練れているし、シーンや情景、心象や独白などへの移行の仕方、そのスピード感やひっかかりのない巧さも名人芸だし、教養や知識の量もかなりです(本作を書いたころ著者は50歳くらいですが、一般的な50歳以上の知的深みがあるでしょう)。
『ロリータ』は小説としても多面的で、サスペンス、アクション、ポルノ、少女愛、滑稽、悲劇などさまざまです。大江健三郎は巻末の解説中に、野心的で勤勉な小説家志望の若者にはこの作品を読むことを勧める、と書いています。『ロリータ』には謎の部分や解釈の分かれる部分もありますが、それだけよくできていて、見習ったり盗んだりするのによい作品なんだと思います。それと、ロマンチックな作品としての部分については、それは性愛描写の第1部第13章ですが、褒めていましたね。
さて。
感想をまとめるとするとすごく難しくて自分としての答えも決めきれないし、生煮えの考えのままだけれど、最後に書いていきます。まあ、割り切れるような作品ではありませんので。
フィクションのなかでの幼児性愛や性犯罪って、高い知性での知的なコーティングがなされれば許されるみたいな、あとはもうそれは受け手の問題なんだよみたいな、本作を知的遊戯として読んでそう感じたのですけれども、つまりはそこに「表現の自由」というものの中身を見た気がしました。
芸術表現が社会になにかをもたらしたりします。それは作品を社会や個人などにつなげて考えたりしたときにです。だけれど、現実に芸術を発生させるために幼児性愛を実際にやるんだ、としたら、それは本人や同族にとっては大きなカタルシスかもしれないけれど、言うまでもなく許されるものじゃなくて、秩序がそれを排除にかかるでしょう。
芸術のカテゴリって善悪の判断ができない性質のものだから、そこは秩序が法や規律で人間の尊厳を守る、ということになるのでしょうか。「表現の自由」の「自由」は自由勝手でも欲望のままとしての「自由」じゃなく、責任を伴ったものとしての「自由」と定義された「自由」なのか、どうなのか。
と考えてみたとはいえ、あらためて難しいなあと思うんです。作り手の初期衝動は縛られるべきではないし、実際に作っていく段階になって自身のコントロールをいれていき、徐々に客観的な視点も鑑みてできあがっていったときに、あまりにマイルドなものが完成したのだとしたら、ちょっとやりきれてない感が出るでしょうし。
作品が部分的に悪しき性質を内在させていたとき、そこをフィクションとして受け止め、自分なりに処理したり手綱をつけたりするのは受け手の教養や知性の問題だから、としたいほうなんですが、人間っていろいろな人がいるから社会は秩序を守るために線引きをするっていうのは、ある意味で社会的包摂ということになります。それはその芸術作品に関心が持てなかったり理解が難しかったりする一般的な人たちへの優しさでもある。でも他方、そういった包摂をする社会秩序は、いわゆる「ヘン」なモノに対しては厳しく、排除してくるものです。障がい者やとがった芸術に対しては包摂しません。なんていうか、やっぱり難しいんですが……。
『ロリータ』 ウラジーミル・ナボコフ 若島正 訳
を読んだ。
異形の大作家とも形容される著者の大ベストセラー作。ロシアに生まれ、アメリカにわたって、ロシア語から英語での執筆スタイルに変えて生まれたのが本作です。
ヨーロッパからアメリカに渡ってきた主人公の容姿端麗な中年男性、自称名ハンバート・ハンバートは、少女性愛者です。偶然が重なって間借りすることになった家宅で、そこの娘、ドロレス、愛称・ロリータとハンバートは出会ってしまう。ハンバートは魅力を放つ特別な少女のことを、妖精のニンフをもじり、ニンフェットと呼びますが、ロリータこそが理想的なニンフェットだとして、本性を隠しつつ狙いを定めていく____。
本書は初め、パリにあるポルノ小説のシリーズで悪評高い出版社のそのシリーズから出版されたそうです。アメリカではどこの出版社からも「うちでは出せない」と断られたのだそうです。そりゃ、やっぱり、12歳くらいの少女との性愛描写や性交まであります。それも、とある事件をきっかけにハンバートとロリータの二人でアメリカ各地を旅することになる中盤では、そのさなかでははっきり描写されていませんが、どうやらハンバートはロリータを慰みものにしつくしていた感が、後に感じられてきたりもして、「一線を越えまくってたんじゃないか!」と読み手のこちらはちょっと騙されていたような、罠にかかってしまった後のような気持ちになりました(僕が鈍いか、あまりにお人好しかで、そのロードノヴェルパート上で気づけなかったのかもしれません。弁解すると、著者の人格を勝手に想定して好意的に読むとそういうこともありえますが)。
『ロリータ』の主人公ハンバート・ハンバートが、どうして12~16歳ぐらいの少女に性的な執着を持つのか。それはどうやら自分が12歳だったか13歳だったかの頃にいちゃいちゃした同年の少女のすばらしさの印象が強烈に焼き付いているせいのようでした、文学的こじつけなのかもしれませんが。ただ、著者のナボコフはフロイトなどによる精神分析的な「象徴」などを用いた考え方を嫌っていて、本作でも精神科医を小馬鹿にしているところもありました。なので、ハンバートの性癖についても、幼少時体験のためだ、と確定的に考えるのは、本作としてはほんとうのところから逸れてしまうことになりそうです。
「ロリコン」「ロリータ・ファッション」など、本作から生まれた流行り言葉が現在は一般化し、多くの人がふつうに使う言葉になっています。それだけのインパクトが、この小説にはありながらも、読んでみた人って最近ではそれほど多くないような気がします。内容を知らずに、「ロリコン」などが独り歩きしているので、小説内容は、それへの「勝手な思い込みと決めつけ」に汚されているきらいもあります。誤解も多い、と言われるそうですが、本作が出版されたときも論争が起き、それがベストセラーへの契機になったとか。
著者・ナボコフは、母語・ロシア語ではないのに、あとで覚えた英語をうまく使いこなすどころか、名人の域でこういった大作を書き上げてしまう。「才能に恵まれた人」と大げさやお世辞ではなく評するとしたら、こういう人のことをいうのかもしれないですね。文章ひとつとっても、文体にしても、翻訳越しに読んでいても練れているし、シーンや情景、心象や独白などへの移行の仕方、そのスピード感やひっかかりのない巧さも名人芸だし、教養や知識の量もかなりです(本作を書いたころ著者は50歳くらいですが、一般的な50歳以上の知的深みがあるでしょう)。
『ロリータ』は小説としても多面的で、サスペンス、アクション、ポルノ、少女愛、滑稽、悲劇などさまざまです。大江健三郎は巻末の解説中に、野心的で勤勉な小説家志望の若者にはこの作品を読むことを勧める、と書いています。『ロリータ』には謎の部分や解釈の分かれる部分もありますが、それだけよくできていて、見習ったり盗んだりするのによい作品なんだと思います。それと、ロマンチックな作品としての部分については、それは性愛描写の第1部第13章ですが、褒めていましたね。
さて。
感想をまとめるとするとすごく難しくて自分としての答えも決めきれないし、生煮えの考えのままだけれど、最後に書いていきます。まあ、割り切れるような作品ではありませんので。
フィクションのなかでの幼児性愛や性犯罪って、高い知性での知的なコーティングがなされれば許されるみたいな、あとはもうそれは受け手の問題なんだよみたいな、本作を知的遊戯として読んでそう感じたのですけれども、つまりはそこに「表現の自由」というものの中身を見た気がしました。
芸術表現が社会になにかをもたらしたりします。それは作品を社会や個人などにつなげて考えたりしたときにです。だけれど、現実に芸術を発生させるために幼児性愛を実際にやるんだ、としたら、それは本人や同族にとっては大きなカタルシスかもしれないけれど、言うまでもなく許されるものじゃなくて、秩序がそれを排除にかかるでしょう。
芸術のカテゴリって善悪の判断ができない性質のものだから、そこは秩序が法や規律で人間の尊厳を守る、ということになるのでしょうか。「表現の自由」の「自由」は自由勝手でも欲望のままとしての「自由」じゃなく、責任を伴ったものとしての「自由」と定義された「自由」なのか、どうなのか。
と考えてみたとはいえ、あらためて難しいなあと思うんです。作り手の初期衝動は縛られるべきではないし、実際に作っていく段階になって自身のコントロールをいれていき、徐々に客観的な視点も鑑みてできあがっていったときに、あまりにマイルドなものが完成したのだとしたら、ちょっとやりきれてない感が出るでしょうし。
作品が部分的に悪しき性質を内在させていたとき、そこをフィクションとして受け止め、自分なりに処理したり手綱をつけたりするのは受け手の教養や知性の問題だから、としたいほうなんですが、人間っていろいろな人がいるから社会は秩序を守るために線引きをするっていうのは、ある意味で社会的包摂ということになります。それはその芸術作品に関心が持てなかったり理解が難しかったりする一般的な人たちへの優しさでもある。でも他方、そういった包摂をする社会秩序は、いわゆる「ヘン」なモノに対しては厳しく、排除してくるものです。障がい者やとがった芸術に対しては包摂しません。なんていうか、やっぱり難しいんですが……。
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