Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『春の妻』(自作小説)

2021-09-05 22:53:12 | 自作小説12

 春らしくなったね、と朝から妻と二人で喜んでいた矢先だった。
ざくざく、という音が外から聴こえだしたので窓の外に目を向けると、いつのまにか妻が、家の裏手に広がる家庭菜園用の狭い畑の真ん中付近で穴を掘りはじめていた。今年は休耕地にしている畑だ。軍手をはめて握った柄の先にある剣先部分を、ぐっぐっと足で踏みこみ、硬い土のかたまりを掘りだすのを繰り返している。
 一体どうするつもりなんだろうか、と考えながら、僕はコーヒーを淹れて居間のテーブルにつき、窓から妻の様子を観察しつづけた。
速いペースではないが、確実に穴掘りは進んでいる。左側と奥側を塀に囲まれた五~六メートル四方のその畑は、居間の大窓の正面に位置する庭の左隣に位置している。鑑賞用の花をいくらか植えてはいるもののほとんど芝生ばかりの庭との境界は、二十五センチ四方ほどのタイルの列だ。これは道にもなっている。
耕せば足元がふわふわ感いっぱいになる畑なのだが、作物を植えすぎて草取りなどの手入れに夫婦そろって疲れ果ててしまった昨年の精神的なダメージをひきずったため、今年は土を寝かせておくことに二人で決めた。土だって休まるのだし、と。
 深く腰掛けてしまっていると、妻の姿はやっと目の端に入る程度で、乗り出すように身体を傾けてみなければ、妻の様子ははっきりとわからない。片肘をつきながら、妻は何をはじめたのだろうか、とまた考える。考えつつ、ときどき気になって身体を傾け、穴掘りの進捗を確かめた。直径一メートルくらいの丸い穴だ。今や妻のひざ丈よりも深い。何かを植えるにしてはずっと深いな、と思った。
でも、だからといって、なんのために穴を掘っているのかを聞けないのだった。窓を開けて、「なにをやるつもりだい?」と声をかけるには経ち過ぎた時間が、僕に行動を起こさせないのだ。タイミングを失ったからというより、穴掘る妻の得もしれぬ雰囲気の圧力に抑え込まれてしまったのだと思う。鬼気迫る風でもあるけれど、それよりも気味の悪さだ。肩までの黒髪を振り乱し、それをいっさい気にかけないような集中力。こんな様子の妻は、結婚して十一年このかた、いや結婚前の恋人時代から数えたって一度も見たことがなかった。 
妻はたいてい、事を始めるときには僕に伺いを立てた。
「せっかくこの家には家庭菜園のできるスペースがあるんだから、なんならトマトだとかきゅうりを育ててみない?」
「ねえ。子どもの代わりというわけではないのだけど、猫を飼うってどうかな?」
もっと些細な事、これまでずっと食べていた米の銘柄を変えたい時だとか、お酒が飲みたい気分になった時なども、妻は僕にひとこと告げてから行動した。だけど今回の穴掘りに関しては、ほんとうのほんとうに突然行われ始めたのだ。
 身を傾けてまた妻を見やると、妻は二つ目の穴を掘っていた。一つ目の穴から平行に左へ三メートルくらい寄った位置だ。
僕はコーヒーのおかわりを淹れに台所へ立った。そこに猫のモンクが音もなく走り寄ってきて、僕に甘えた。持ちあげたデカンタを元に戻し、その場でしばらく猫のモンクと遊ぶことにした。とろける様に床で身をくねらせるモンクを撫でながら、僕は不意に、この間の妻との会話を思い出していた。
「土ってね、もともとは岩石なんだって。分解した岩石の粒が土なんだって。腐葉土っていう土もあるけれど、いわゆる土って岩石由来なのよ。あんな硬い塊が少しずつ崩された残骸なんだよね、土は」
 その時、そう妻は言った。ぽつぽつと交わしていた会話の途中、唐突に土の話に切りかわったのだった。その土がどうしたの? と訊いた。彼女は続ける。
「変なことを言うようだけど、私たちの関係っていうか、そうねえ、お互いの間の愛情っていったほうが的確かな。その愛情が最近は、まるで土くれみたいになったと思わない?」
 妻は無表情に近く、どんな気持ちでそんなことを言ったのか量りかねた。苦情なのか、客観的な感想なのか、ユーモアなのか、判別できなかった。
「岩石みたいにごつごつしてなくていいじゃないか。柔らかいしさ」
 妻は正面を向いて短く笑った。共感したのか、冗談だと捉えたのか、馬鹿にしたのか、これも判別できなかったが、僕は気にとめずにそのまま流したのだった。
 モンクは満足した様子で立ちあがったので、僕もその場で立ちあがり、デカンタからカップにコーヒーを注いで居間のテーブルへと戻った。相変わらず、妻はシャベルで土を掘り返している。やっている作業自体は繰り返しなのだけど、穴は四つに増えていた。四つの穴を点とし線で結べば横長の長方形になる。長方形の真ん中には掘り返された土が山になっていた。何のための穴なのか、未だにさっぱりわからなかった。
 妻の姿が見えなくなるくらい深く椅子に腰かけていると、職場の後輩の利奈の顔が浮かんだ。しばしば見せる泣き笑いの笑顔が脳裏に映し出されてきた。彼女は愛嬌があっていい。わかりやすいミスが多くても素直さと愛嬌のよさで、少なくとも僕には許され、守られている。利奈のことは妻との間でも話題にした事が何度かある。妻は、ふうん、かわいい子のようだね、と言葉少なく利奈を評したが、いつもそれ以上の批評や分析を口にしなかった。他愛のない話なのだから当然だろうと思う。妻は特に利奈を気にしてはいないようだ。僕だってやましいことをしたわけじゃない。
 しばらくそのまま目を閉じていると、玄関が開く音がしたので目を開けた。妻が中に入ってきた。畑を見ると、四つあった穴が堀のように繋がっている。掘りだされた土が堀の内側中央でうずたかく積もっている。
「コーヒー飲んでたの?」
 首にかけていたタオルで顔の汗を拭きながら、妻は笑顔を見せる。その声音も表情も、いつものものだ。あまりにいつもどおりだから、かえって緊張した。生まれたての緊張感が両肩から身体の隅々へと広がっていった。
「うん。で、もう終わったのかい?」
「いえいえ。お昼を食べに戻ったの。バターロールが残ってたはずよね」
「五つか六つ、残ってるよ。目玉焼き焼こうか?」
「ううん。大丈夫」
「そっか。それじゃ、コーヒー淹れよう」
「ありがとう」
 僕はまったくもって核心に触れられなかった。言葉を飲みこむ以前に、単刀直入な言葉の小さなかけらほどさえも浮かんでこなかった。言葉の地面から足の裏を引き剥がされ、空中でおろおろしているこころといった感じ。
ポーカーフェイスが試されている。でもどうして、ポーカーフェイスにならねばならないのか。露わな気持ちであったって、憶せず妻に聞けばいいじゃないか。でも、どんな切り口で聞けばいいのだ、ここまできて。それに、いきなりポンと飛び出してくるだろう妻からの答えを聞くための勇気の準備ができていなかった。なにを答えられても受け損ねてしまう気がした。かなりの確率で大きな怪我をしてしまうのではないか、という不安もあった。
 霧の中に佇んでいる僕の目の前で、妻はよく噛みながらバターロールを二つ食べ、あいまに僕が淹れた熱いコーヒーを少しずつ飲みこんだ。妻が食べ終えたあと、僕の胃がすこし強張ってくるくらいの気まずい沈黙が降りた。胃に来たのは、それまで何も食べずに飲んでいた三杯ものコーヒーのせいもあったかもしれない。僕の胃の事情を察したためではないのだろうけれど、妻は割合はやく席を立った。休憩は取らなかった。僕はちょっと、ほっとした。
「じゃあいってくるから」
 妻は居間を出るときにそう言って、またいつもの笑顔を見せた。彼女が玄関から出ていき見えなくなって、それからこの笑顔の瞬間を思い返す。それはまるで、妻は僕がすでに畑での彼女の行為について、なにもかもを悟っていると踏まえているかのような言葉の投げかけ方と目配せだったように感じられた。背中を軽いふるえが素早く駆けあがって消えていく。
「わかるでしょ?」
「いや、全然わからないんだけど」
 こういう一種のすれ違いは僕たちのあいだにはしばしばあって、その都度、妻は機嫌が悪くなり声がすこし鋭くなった。僕はその鋭さを帯びた妻の声の響きが、自分を責め罪を負わせるもののように感じて、だんだんこの類の会話を避けたくなっていった。ずるいとわかっていながら、曖昧な応答で返すことを覚えた。
 タンタン、タン、タンタン、と午前中とは違った音が外から聞こえはじめる。畑を見ると妻は、堀のように繋がった穴に囲まれた内側に積まれた土の山を、シャベルの裏面を使って叩き、固めていた。妻の背丈に近いかなりの量の土だ。縦横に幅もある。
砂浜で作る砂の城を再現するつもりなのではないか、と僕は思った。波で崩されることのない、家庭菜園休耕地の真ん中に位置する土の城。砂よりも固めやすい分、細工を掘ったり造形を作ったりしやすいだろう。妻のただの気休めの遊戯だったら、僕はたぶん、救われる。土の城だったら、それでいい。
 だが、そのうち妻は土の山の頂上をなめらかに均しはじめ、その頂上にいたる階段とみられる構造部を掘り出しはじめた。それから庭にあるいくつかの手のひら大の石を運んできて階段状構造部に敷きつめていく。階段状構造部は石段めいたものになっていった。
 また僕は台所でカップにコーヒーを注いできた。胃に悪いのはわかっていながらも、口の中をただ湿らすためだけのように口へ運ぶ。もう全然、味わうためではない。チェーンスモーキングのようなコーヒーの摂取の仕方。自動的といった感じでなにか些細な行為に依存することは、ある種の憂鬱さを緩和させる効果のあるものだ。
 再び外の様子をみつめ続ける。窓を開けて一声かければ、この沈鬱な不安は、良き展開をみせるにしろ悪しき展開に発展するにしろ、とりあえずは打破されるだろう。でも相変わらず、声をかけられなかった。
 墓なのか、と思う。古墳やピラミッドの類のミニチュア版のイメージが脳裏にうかんだ。だが、僕たち二人しかいないのに、誰が死んだというのだ。飼い猫のモンクなら、いまや僕の足元で丸くなって静かに眠っている。仮に墓を作っているとして、墓の主になる者がわからない。もしくは、これから死ぬ誰かのための用意なのだろうか、それこそ古代の古墳やピラミッドみたいに。
 妻は、均された土の山の頂上にのぼり足で踏み固めだした。その後、へりの部分に、玄関先で咲いていたチューリップを何本も球根ごと移植しはじめた。赤、黄、が交互にならべられていった。その最中、ふうっと息を吐いたのだろう、両肩が軽く上がってすぐ下がったのが見てとれた。休憩が欲しそうだった。妻はこれにかなりの労力を費やしている。もはや疲労はピークを迎えていて、それでも使命感のような強い意志を発揮して、作業を止めないでいるのかもしれない。軍手の甲で額の汗を拭っている様子になお、そう感じた。
 祭壇なのか、と僕はひらめく。あそこで妻はなにかを祈りだそうとしているのではないか。本来、妻は無宗教で、世間的に言うところであれば浄土宗派だったにすぎないはずだが、もしかすると新興宗教に足を踏み入れたのかもしれない。でもなにを祈る。窺いしれないなにかを祈るのだろうか。土くれの愛情よ岩石の愛情に戻れ、だとか。一心不乱に穴を掘り、髪を振り乱したさっきの妻の姿のせいか、あながちナンセンスな空想ではないように思えた。または、妻は祈りの果てにそこで神がかりになる。どたばたと転げ回りながら発する言葉を書きとめるよう僕に指示を出すかもしれない。そういった使命に突然めざめたための行動が、朝からの一連の作業なのだろうか。楽観的な気分を捨てず、冗談混じりに見ていると、空想はどんどん広がっていく。
 でも、僕の神経はだいぶ疲れてきていた。足元のモンクを踏まないように椅子をずらして立ち上がりトイレへ立った。それから台所でまたコーヒーを作ろうとしたが神経の疲れに障るのではと思いとどめ、冷蔵庫から牛乳パックを取りだしグラスに半分ほど注いで一気に飲み干した。夕食のために、冷凍庫からトラウトサーモンの切り身のパッケージを取りだしてカウンターに置く。野菜室の中を見て、あとは大根と揚げの味噌汁となすのお浸しとブロッコリーのにんにく炒めにしようと決めた。居間に戻るとモンクの姿は見えなくなっていた。
 日が傾き始めている。窓の外、妻は土の山を降りて、堀の中心に作られた一本道を通ってこちら側へと越えてくるところだった。どっしりと溜まった疲労を感じさせる重い足の運びだった。妻は少し離れたところまで歩き、「造成物」というべきだろうか、つまりは「アレ」を眺めだした。両手で腰を支える姿勢で息を吐いている。満足そうな後ろ姿。だらりと下がった両肩の動きでそうわかった。
 もうじき妻が、家に引き上げてくる。僕はテーブルの椅子をひいて深く腰掛け足を組む。自然と楽観的な気分が萎んでいき、怖くなった。なんて声をかけたらいいだろうか。猫を撫でて落ちつこうかとテーブルの下や周囲を探したが、モンクの姿はないのだった。
浮足立つ、とはこういうときのことをいうのだろう。そわそわしはじめた気持ちが落ち着く気配はまるでなく、いまは何を喋っても、的が外れたことしか言えない。そういう確信があった。昼に妻と顔を合わせたときといっしょだ。ポーカーフェイスでいなければいけない。
 そのときなぜか利奈を想った。彼女のはにかんだ笑顔が浮かんでくると、こういうときでも頬が緩んでくるのがわかる。利奈の机はチョコレートやフルーツグミなどでいっぱいで、まるでたくさんのお菓子によって装飾を施されているかのようだ。たまに、おひとつどうぞ、と勧めてくれる。僕のほうでもコンビニで買い物中、目についた新商品があれば買い足して会社に戻ったときに彼女にあげたりする。ささやかなお菓子のやり取りが、実際、楽しいのだった。そして味などの感想を手短に交わし合う。仕事の悩みも、妻とのちょっとしたすれ違いも、忌まわしい少年時代のささくれもすべて、いっさい存在しなくなる魔法のようなひとときだった。浄化された。明日また職場で利奈と会えると思うと、どこか励みになった。
 家にあがった妻はすぐに、妻の顔に視線を送っている僕に気付いた。
「まずまずね」
 妻は言った。
「君は何をつくったんだい」
「冗談でしょ」
 それから先は言えなくなった。妻のほうもそれからは何も言わず、風呂場へ向かった。僕は妻からなにかを聞いていただろうか。ほんの小さな会話や出来事だったとしても、思い当たるものも疑問が生じるものもひとつだって浮かびあがってこなかった。
 時間はかからず、夕食の調理を終えた。居間のテーブルの椅子に腰かけ、妻が風呂から上がってくるのを待っている。居心地は日常のそれに戻りはしない。どうしてもひっかかっているものがある。ボタンをかけ違えているときの着こなしのように、真っ先に身体が感じる不快な違和感がわずかにある。予想よりも妻の風呂上がりは遅かった。
 僕は所在がなかったこともあり、そういえばと思い、ずっと姿が見えないモンクを探すことにした。でも、家中、どこを探しても、居ないはずのないモンクは見当たらなかった。なんのためかはわからないが、どこかに上手に隠れているようだ。モンクー、と名前を呼んだ。ごはんになるよー、とも。何度か繰り返しても、僕の声が家のなかで寒々しく響くだけだった。
 そうしているうちに、妻が風呂から上がった。肩までの濡れた髪をバスタオルでこすっている妻に、モンクが見当たらないんだけど、と相談を持ちかけるように告げた。
「そうなの?」
 妻の反応はそれだけだった。妻は気にしている風にはまったく見えない。日頃、僕よりも妻のほうがモンクを可愛がっているんじゃないか。あれだけいつ何時も自分の近くに置きたがって、ときに夢中になって構っているモンクの不在が、気にかからない?
 僕はいじわるな気持ちになった。
「具合が悪くなってどこかでうずくまっているのかもしれない」
 わざと力を抜いた低めの小さな声で一気に言った。
「まさか。そのうちちゃんと顔を出すって」
 すぐ返してきた妻からは、根拠の出どころがわからない余裕を感じた。
 あきらめて食卓に夕食を並べ出す。妻にビールをすすめた。飲む、と言うので冷蔵庫から缶ビールを取りだしグラスも用意して、髪を乾かし終わった妻が食卓に着いたとき、お疲れさま、と缶からコップに注いであげた。ありがとう、と妻はいつもと変わらない微笑みを見せ、のどを鳴らした。
「身体を動かしたあとのビールは最高なんだろう」
「あなたも飲めるといいのに」
 僕は下戸だ。妻のほうはどちらかというとアルコールに弱く、そして飲むと饒舌になる癖がある。
 夕食後、解凍して小鉢に盛ってあげた枝豆をかじりながら、六日後よ、とほろ酔いの妻が言う。
「そうか、六日後か」
 耳まで赤く染まった妻にあわせて、僕はぶっきらぼうに応える。
「やっとね。ついに」
 息を大きく吐きながらだった。投げ捨てたかのような印象を感じさせた言いっぷりに、その言葉は僕への言葉というよりも、彼女自身が自分で確かめるための独り言を言ったように聞こえた。
「うん」
 僕は小さく、返事というより喉鳴らしに近い発声で曖昧に返した。自分でも、気が弱いな、と思う。
今夜の妻は、饒舌というほどではなく、珍しくどこか抑制が効いていた。肉体の疲労感と反比例している。
 なにが始まるのだ、六日後に。畑のアレが何かを呼び寄せるのだろうか。何かがやって来るのだろうか。六日後がずいぶん気になったが、僕はそれよりも、目の前の妻のほうに差し迫った怖さを感じていた。
このときはじめて妻の精神状態に不安を感じた。マジョリティの境界から逸脱したひどい妄想が妻のあたまに生じていて、そのひどい妄想を妻は信じるばかりか拠り所にまでして行動してやしないだろうか、と。
妄想の総体がひとつのエネルギーとなって、まるでアートのようになにかを具現化させたものがアレなのではないだろうか。加えて、まるでアートのように具現化したアレがさらに妻の妄想を強くさせていやしないだろうか。冗談混じりの気分でいられなくなると、そういった思念が溢れだしてきた。
でも、そこにいる妻の表情は晴れやかで、常軌を逸したのはアレをつくりあげたこととそれに追随する、六日後、の言葉だけだ。その他は普段と変わらず、彼女は健康そうだし美しいままだった。興奮状態にありだってしない。
 アルコールが労働に傷ついた肉体に浸みわたったらしく、妻はもう眠りたいと言った。僕は寝室に妻の分の布団を敷いてあげた。ごめんね、と妻は申し訳なさそうに小さく言って寝室に入っていった。さっきまでの満ち足りた表情が剥がれ落ちている。後ろ姿がどことなく、華奢すぎて見えた。

 その夜、僕は寝付けず夜明けを迎えた。早起きのすずめたちの鳴き声がやけに耳にこだまする。多くのすずめが、畑に集まっていた。土を掘り起こしたあとに顔を出しやすいミミズなどを狙って小鳥たちが飛来するのだ。いらいらした。寝付けなかったのは、進展のない考え事がぐるぐると頭のなかを駆け周り続けたからだ。冴えた頭にすずめの鳴き声がちくちくした。
 結局、だいぶ明るくなってから眠りについて、寝坊した。開ききらないまぶたを持ちあげ、しゃきっとしない身体を動かし、ばたばたといった感じで着替えをする。洗顔と歯磨きのために寝室を出る。居間で妻が声をひそめがちに電話していた。横目で見る妻の印象に、「これはまさに、こうだ!」というような彼女の在り様を直截に表現する言葉が喉元まで立ちあがってくる気配を感じた。しかし、洗面所へのごく短い道のりのあいだに、生まれ出そうな言葉は気配もろともひっこんでわからなくなってしまった。僕は急いで身支度をして出勤せねばならなかったから、目の前のことをひとつずつこなすほうへ意識が使われたのだろう。決定的な意味を持つ何かを永久に失ってしまったかのような取り返しのつかない気持ちが、こころの奥の方で一瞬だけ湧きあがって、こちらもすぐにどこかへと消えた。
 支度を終えて居間に戻る。相変わらず妻は誰かと電話しているのだが、それをどうこう問う暇はなかった。窓の外の畑を覗くと、アレが畑に佇立している。昨日の夕暮れにみたときより、なんだかいびつで小さく貧相に見えた。妻はちらりと僕を見ると身体を反対側に翻して、さらに声をひそめた。こんな朝から誰と何を話しているのだろう。ときどき敬語が混じっている。
 急がねばならない。時間がないのだ。いったい妻は大丈夫なのだろうか。僕は怖かった。モンクの姿が見えない。冷たい緊張が僕を席巻していく、まるで冬山のように。後頭部が痛くなるほど身体がこわばっていくのを感じた。耐えきれなくなって玄関を出た。

 ぎりぎり到着した職場には始業前から体調不良を訴えているという利奈がいた。目まいや頭痛があるのだそうだ。
利奈の不調はその日だけで治まりはせず、それどころか、以降、みるみる悪くなっていった。ときおり耳鳴りが鳴るようになり、目まいがひどい時の吐き気が加わったのだっだ。腹の具合もよくない、と。僕は、病院で検査してもらった方がいいんじゃないかな、と休暇を取ることを勧めた。利奈は、そうします、と今まで見たことのない黄色っぽい顔色で素直に応じた。
 たぶん、いやきっと。そう直感が働いた。僕には、畑のアレのせいのように思えて仕方なかった。利奈の不調とアレの完成とのタイミングの符合が、ふたつの関係性を匂わせている。思考がアレにひきつけられて離れられない。アレが荒いイメージの像となってこびりつき、気になってしょうがないのだ。
 
 妻に、アレを壊すように言った。元の更地、休耕地の状態に帰してほしい、と。
「あのモニュメントは私たちの愛情の実物なのよ。壊せないわ」
 僕たちの愛情が最近、土くれのようになった、とこのあいだ妻はたしかに言っていた。それはしっかり覚えている。
「愛情が土くれのようだなんて言って、なにも本物の土であんなよくわからない形のものを畑に作ってみたって何になるというんだい? 実物だって? 代用物じゃないのかい?」
 妻は下を向いて首を振った。難しい数学の問題が解けないときのように、粘り強さを思わせる真剣な表情をしている。
「いっそのことと思って作ったの。でね、出来あがってみたらわかったのよ。これは本物だって。あなたはあのモニュメントに触れていないから本物だっていうわたしの言い分を信じてくれないんだと思う」
 妻の声が、すこし鋭くなった
「そうなのかもしれないよ。そうだね、君の言うとおりなのかもしれない。いや、そうだとしよう。でも、現物のモニュメントと化した愛情が、なにかをやるんだろう? 君はアレを作り上げた夜、六日後だと言ったね。明後日じゃないか。いったい何が来るんだ? 何が起こるんだ?」
 手のひらが汗ばんできた。僕は妻の顔に視線を据えたままだが、妻はあちこちに視線をはぐらかし続けている。
「竜巻がやってくるとでも思った? それともねずみの大群が押し寄せるとか?」
 似たようなことを、予想してはいた。
「やっぱりか」
「そんなわけないじゃない」
 妻は眉を曲げて苦い表情をしている。目の色を残念さで滲ませたまま、横を向いている。
「じゃあ、六日後ってどういうことなんだろうか」
 僕は食い下がらなければいけない。まだまだ、なのだ。
「あるいは、わたしかあなたか、それとも二人ともか、涙をすこしだけ流して終わることになるのかもしれない」
「それは避けられないのかい」
「私たちの愛情を壊したくなければ」
 掴めない話だと僕は思った。少なくとも、僕の言語理解力と状況理解力をはるかにしのぐ濃密な時間のなかにいることははっきりしている。見方を変えれば、それは散開した時間のなかにいることでもあった。
「あのさ。前に話したことがあるよね。職場にいる利奈って後輩。彼女、具合悪くなっちゃったんだ」
 言うべきか迷っていた利奈のことが、口をついて出てしまった。言わずにはいられないことではあったのだけれども。
「いつからなの?」
「君が畑でアレを作った翌日から」
 妻は興味深そうに両目を見開いている。
「あなたはその、利奈さんにモニュメントのことを話したりしたの?」
「いや、何も話してないよ」
「わたしは関係してないわ」
 妻の見開かれた両目の表面に、おかしみの光が輝いているように感じた。
「アレは?」
「あのモニュメントをなんだと思ってるの?」
「愛情だって聞かされても、僕には正直なところよくわからないよ」
「それでいいの」
 僕は妻を愛しているのだろうか。愛しているはずだった。あんなモニュメントのようなかたちの愛を、僕らはお互いの胸に宿しているらしい。妻が考えるには、だが。
「愛情って、実際にはっきりとしたモノとして目にすると、理解に苦しむものなのがはっきりするわね」
 アレを作り上げた妻本人にも理解に苦しんだ瞬間があったのか、と思うと、ちょっとほっとした。同時に、一気に強い疑念が生じてきた。僕は言った。
「アレはほんとうに、ほんとうのほんとうに愛情がモノと化したものなのかい?」
 妻が僕を見た。今夜、もっとも真っすぐに。確信めいた気持ちで僕は続けた。
「愛情ではなくて、憎しみに似たものを、現実の世界に形作ってしまったのではないのかい?」
 いくぶん瞠るようにした妻の目が揺れた。妻は黙ったままだった。
 僕らの話し合いはそこで中断となった。妻によって招かれた静寂の帝国の侵略を受けたのだ。僕はその夜遅く、ソファで毛布にくるまることにした。
 
 明け方の早い時間帯。僕はそっと家から抜けだして、畑のアレを近くで見てみることにした。太陽は顔を出していないが、もう懐中電灯が辺りを照らす必要のないくらいの明るさがある。冷気に体が震えはしたが、空気がみずみずしく一呼吸一呼吸の吸う吐くが心地よい。おかげで、さっぱりと澄んだ頭でアレを眺めることができた。
 石段を上った。上の地面は踏み固められていて、思っていたよりもずっとしっかりしている。チューリップの花々に水滴が付着していて、なんだかなまめかしかった。
 この土のモニュメントはいったいどういった目的で作られたのか。
何度も考えたことをまた考えていた。妻は僕たちの愛情の実物だと言う。実物であるものか。実物がここにあるのなら、いま僕や妻の内部にあるはずの愛情は外に持ち出されてからっぽだという理屈になる。
 まあいいさ、と思う。実物だ、と言ったのは誇張なのだ。強く、はっきりと言いたかったのだろう。言いきってしまうことで、僕の心象に強く刻みつけたかったのだろう。それを無意識の行為として言ったに違いない。
 でも、妻は愛情の実物だと確信しながら作っていた可能性はある。けれど、完成してみれば別物のなにかができあがっていたのではないのだろうか。その線に、僕はひっかかっていた。というか、その線を正解だと仮定しながら、他の可能性を消していくために思案していた。
 呼んではいけないなにかを呼びこんでしまうような、そんな禍々しさをうっすらと感じさせる、コレだった。詮索を嫌うような感じの秘められた禍々しさがあるのだった。
 ひとつの観念に固定されないように、ちょっと自分の気持ちの角度を変えるようにして考えてみると、そこに巧妙なカモフラージュともいうべき香りを嗅ぎとることができた。ただ、嗅ぎとれたのはあくまでカモフラージュの層だけ。中身はまるまる隠されている。そして、カモフラージュはたぶん妻の意図ではなさそうだ、とその印象から判断した。
 やっぱり妻が言うように、コレは二人の間の愛情の気配を内に秘めているのかもしれないな、と再び考えてみた。隠されているものはそれなのだ。そしてコレに上がって立ってみないと核心となる疑問を感じ得ないというそれこそが大事なカギなのだ。そのカギがなければ愛情の気配についておそらくずっと考え直せなかっただろう。つまりコレの真の意味に到達できない仕組みだった。では、どうしてそんな仕組みにできあがったのか?
 妻は愛情の実物を作る気でコレを完成させた。妻の意図しない禍々しいカモフラージュは、彼女の無意識による造作なのだろうか。一般の範疇にあるような女性の一人である妻が、いきなりそんな芸術的なギミックを凝らせるものだろうか。妻にコレを作らせたきっかけはなんだったのか。わからない真実はそれで、またそれこそが一連の不可解さの根っこだと思った。妻以外に、なにかがあるのだ。
 突然、もしもコレに大穴を掘ってそのなかに転がってみたなら、という想像がふくらんだ。大穴に寝転がったらもっと愛情の気配は深まって感じられるような気がしたし、満ち足りて和らいだ心持ちになれるのではないかという感じもした。コレの秘められた本性は愛情。もっと言えば、愛情による安穏なのかもしれない。愛情による安穏なんて、柔らかくて弱いものに決まっている。だからカモフラージュが必要で、そうされたのか。でも、誰によって。
 大穴の底に転がったその隣には妻がいた。僕はそこで何十年分もの時間に相当するくらい、深く寛いでいた。
「これじゃ、玉手箱をもらうはめになるね」
隣に寝転ぶ妻に話しかけると、
「未来の時間を使って寛いだのではないの。これまでの長い時間をまた味わえたのよ」
 と妻は言った。優しい声だった。あまりの優しさに、こみあげた涙が頬にあふれた。
 コレへの印象がそのような新たな様相を迎えたところで僕はコレから降りた。家へ戻るために歩きながらも、何度かアレを振り返った。アレについて結論付けられるところまで行けはしなかったけれど、なにがしか、すっと荷が降りるものはあった。
アレから距離を置くと、あれほど肌に感じた愛情の親密さはほとんど感じられなくなった。体感した愛情の深まりの気配についても、それによってどんな気持ちがかきたてられていたかという感覚についても、僕の中からきれいに消え失せていた。頭はいくらかすっとしたのに、判然としない不吉な感じが急にしてきて、背中がざわついた。
アレから感じとったものを急速に忘却していく。残ったのは禍々しさだけで、アレの上から降りるときまでは、もっと考えてみるべきだな、と慎重に噛みしめていたなにかすらも、すっかり忘れてしまった。
 家に戻った僕は再び、ソファで毛布をかぶって寝なおした。土臭さがずっと鼻の奥に残って消えなかった。それがどちらに転ぶサインなのかもわからずに眠った。
 
 翌朝、カーテンを開けると、アレは消え去り、その跡地は更地に帰っていた。耕されたような加減で平坦な畑としてそこにある。来週の週末にでも、枝豆の種を買いに行って植えてみようかという気分になった。気がつくと足元にモンクがいて、僕と遊びたがっている。あまりに長いあいだ姿が見えなかったから、きっと外に出て行ったのだと思っていた。どこにいたんだい? とかけた声が弾む。
 妻はシャワーを浴びているようだ。
利奈とはこれ以上距離を縮めないようにしようかと思いはじめている。なぜかはわからないが、利奈から離れるべきだ、と誰かに説得された後のような気分がした。
 今日は五日後。あのとき、六日後よ、と妻は言っていたが、もうそれは来なくなったと思っていいのだろう。何が起こるのか、という恐怖も不安ももう感じなくていい。永遠に回避されたのだと思っていい。
 いや待てよ、と思った。込み入ってはいたけれど、これはある種の単純な心理テストの類だったのではないだろうか。妻がおそらく、どこからか手法を聞いてきたのだ。僕にしてみれば、悪い冗談をずっと超えたちょっとした災厄レベルの出来事だったけれども、妻は妻でよほどの切実さを抱えていたための行動だったのかもしれない。そうじゃないか、妻は苦労してアレを作りあげた翌朝、今度は誰かと電話で折りいったような話をしていたじゃないか。妻は、おそらく僕を試しただけなのだ。まったく、試したりするんじゃないよ、と面白くなさがふつふつと泡立つ。
 夜中にアレに上った時に、なにかとても大事なことを考えついた覚えだけがあって、なんとか内容を思いだそうとしたが無理だった。
 出がけに、太陽が灰色の雲に陰ってきたので、傘を持っていくことにした。またいつもの一日が始まるのだ。そう、いつもどおりに過ぎない。玄関先で鼻先を撫でる青く湿ったわずかな匂いに、本格的な春の雨がずっと近いのがわかった。土の匂いも、うっすら混じっていた。
 それが温かい雨になるのならば、すべては流れ過ぎていく。なぜだかそんな気がした。
【了】
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