Fish On The Boat

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怒りと被害者意識。

2021-08-16 14:50:04 | 考えの切れ端
このあいだ読んだ『負けない技術』で気付かされたことですが、人が怒るとき、その大半には源に被害者意識があると思います。ほんとうに被害をうけて怒るときの被害者意識もあれば、これは自分への加害であると決めつけての被害者意識もあります。今回はこのことについて、すこし考えてみます。

生きているとどんどん被害者意識って育っていくものでしょう。毎日、いろいろと、他者から被害を受けて生きています。ただその被害の内容の内訳は、他者にとっては悪意のない加害がほとんどです。東京の山手線で朝の満員電車に乗ったときのことを思い出します。これは容易に足を踏まれかねないし、踏んでしまいかねない、と注意する気持ちになったと思います。たとえば横に立つサラリーマンに足を踏まれてしまう。意図的ではありません、事故です。それでも、踏まれた側はしばらく踏まれたことを覚えているでしょう。それは1日いっぱいかもしれないし、3日間かもしれない。痛かったなあという記憶と共に振り返るでしょう。でも、踏んだほうはどうでしょうか。電車を降りる頃にはたぶん他人の足を踏んだことなど忘れているのではないでしょうか?

このように、被害には肉体的だったり心理的だったりする痛みを伴うことが多いので、ずっと覚えていがちです。でも、加害のほうには自分に痛みがないぶん、すぐに忘れてしまいがち。また、加害したっていうことに対する心の痛みを感じる場合を考えてみると、自分が受けた被害の痛みを客観的にとらえられてこそ、自分が為したことへの心の痛みって少しずつ持てるものなのではないか。

これらのことから考えると、被害者意識ってどんどん溜まっていきやすいものなのに対して、加害者意識はあまり溜まっていかないものだということです。生きていれば、被害も加害も同じくらい高い頻度で経験するものだろうに、意識上には大きな差があるのではないでしょうか。

しかしながら、被害者意識が大きくなると心理的に均衡がとれないのでやり返して心理的負債を返し、フラットにしようとする。とうとう堪忍袋の緒が切れるという状態です。それに、もしも自らの被害者意識ばかりに気を取られるようになり被害者意識ばかりで生きていると、他者へ怒りをぶつけやすくなるだろうこともわかってきます。被害者意識ばかりに目がいくと、日常の些細なことでもなんでも被害を受けたと感じて怒りっぽくなる。なぜ私だけがこういう目に?? という意識がつよくなる。人は被害ばかり受けて生きているわけではないのだけど、自分に対する損なことなどネガティブな事柄ばかりが心に残りがちなものです。さきほどの、足を踏まれた時のように、被害に痛みが伴ってそれが印象的だからかもしれません。

また、私は正しい、私は悪くない、など頑なに自己正当化するのも、被害者意識が強すぎるためということは珍しくないです。「だって、わたしは被害者で、向こうは加害者なんだから私は正しいほうの人間だ!」という論理です。こうなると、被害者意識とほとんど一体化してしまった、と言えそうです。そして、小さくでも大きくでも、プリプリと怒りっぽくなるでしょう。

被害者意識を育てる行為のひとつには、おそらく「愚痴」があります。愚痴自体は、自分の内に溜まったうっぷんを吐きだして(そして他者に知ってもらって)すっきりする行為でもあるのですが、愚痴っている最中に自分の被害を再確認することになり、それに驚きや憤慨を持ちつつ心の中でその被害意識が肥大することもあると思います。愚痴ることで良からぬことになるケースは、それによって自分への被害ばかりに目がいくようになり、それに溺れることです。「自分はなんてかわいそうなんだ!」という気分に誘われて、気持ちのほうもそこから抜け出せなくなる。

こうなりやすい人は、生き方に軸のようなものが弱い場合や、思想や理念がない場合が多いでしょう。こういう泥沼におちいってさらにヒドくなったときには、サイコパス的な行為におよぶこともあると思います。たとえば、AとBの選択肢があって、誰かがAの選択をすると「Aじゃない、Bだ」と文句を言い、Bを選択すると「Bじゃない、Aだ」と怒るというように。もともとその人がAかBかをはっきり考えていたなら、そういうことも少ないでしょうけれども、突発的に選択肢がでてくると被害者思考なので、AでもBでもネガティブに考えてしまい、さらに被害者意識が強いので怒りに繋がる、といったわけです。

では、これらとどう付き合えばいいのか。そこが問題なのですが、こういった、被害者意識に偏るアンバランスさが怒りなどを呼んで心を乱すのですから、自らが加害者になっている事柄を無視せず加害者意識を忘れないことで、自分の怒りへの疑いや他者への許しの気持ちが生まれたりするだろうと考えられます。

仮に、一日生活すると被害者意識100に対して加害者意識を10持つようになるものだとします。人生を送っていくうちに被害も加害もどんどん増えていくのはおわかりだと思います。それで、たとえば加害者意識が50を超えたらすこし気を使うようになっていくものだとすれば、人生を送っていけばそのうち人は丸くなっていくのがわかります。偏りの少ない意識で生活していたらそうなるでしょう。でもそれを無理やりやるかのように、加害者意識を無視するような生き方をしていたら、いつまでたってもオトナになれない(丸くなれない)。そればかりか、どんどん積み重なっていく被害者意識に飲みこまれてその奴隷のようになってしまう。そうならないために、加害者意識は、被害者意識ばかりの自分への躊躇となります。

自分はどういうふうに生きていくかだとか、ある程度の覚悟をしておくこと。そして、加害者でもある自分という意識を持つこと。それらが、自分だけではなく周囲にとっても、怒りによるダメージから遠ざかることができることなのではないでしょうか。
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