朝護孫子寺で購入した小冊子「毘沙門天王の総本山 信貴山朝護孫子寺」によると、寺の創建は582年、聖徳太子が河内の物部守屋を討伐に向かう途中、この地で毘沙門天を感得され、戦勝を祈願したといいます。
また寅の年、寅の日、寅の刻に毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利、日本最古の四天王寺より1年遅い594年に毘沙門天を祀る寺院を創建したとされていますが、あくまで伝承の域を出ないようです。
しかし、朝護孫子寺のある信貴山の西、高安山には、663年の白村江の戦いで敗れた大和朝廷が唐・新羅などの侵攻に備えて構築した高安城が築かれて(667年)いたことが知られていますので、この地は古代から重要な場所だったのでしょう。
朝護孫子寺は、712年頃には衰退していましたが、902年に命蓮が再建を果たし、醍醐天皇が、「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願寺としたことから「朝護孫子寺」の勅号を賜ったといいます。
また寺に伝わる国宝「信貴山縁起絵巻」には、命蓮が醍醐天皇(885~930年)の病気平癒を祈願する話があります。
今年は寅年ということで、この「信貴山縁起絵巻」の「延喜加持巻」の原本が霊宝館に展示されていました。
平安時代末期の扶桑略記にも、「河内国(大和の誤り)志貴山寺住」の「沙弥命蓮」が延長8年(930年)、醍醐天皇の病気平癒のため祈祷を行ったことが記されているそうです。
この命蓮の墓地は、開山堂の裏に現存しています
従って醍醐天皇の時代、平安時代中期(10世紀初め頃)には、信貴山に毘沙門天を祀る庵があり、修行僧が住んでいたことはほぼ間違いないようです。
この毘沙門天は、独尊像として安置する場合に呼ばれる呼称で、四天王の一つとして安置される場合には、「多聞天」と呼ばれていて、毘沙門天と多門天は同一神だそうです。
南北朝時代には、楠木正成(幼名は多門丸、1294?~1336年)が大塔宮を擁して朝護孫子寺に布陣した記録があり、正成が奉納したという菊水の旗や兜などが霊宝館に展示されていました。
参考文献:「毘沙門天王の総本山 信貴山朝護孫子寺」
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