野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



今年の中之島公園のバラは、中之島緑道、バラの小径、バラの広場と西から紹介してきましたが、その最後は、ばらその橋の東「バラの庭」のバラです。(バラの庭ハニーブーケ)



「バラの庭」は、西の淀屋橋駅から、ばらその橋を渡るルートと東側の天満橋駅から八軒家浜を通って天神橋から入るルートがあります。(バラの庭イントリーグ)



今回は、通勤の散歩を兼ねて天神橋ルートを取ることにしましたが、このル-トの特長は、車道と全く交差することなく、中之島公園に入ることができる点にあります。(バラの庭シャルルドゴール)



八軒家浜から一段上がった遊歩道には、見事な花壇があり、そこから見た中之島剣先公園の楠木の緑が実に奇麗です。(バラの庭アレックスレッド)



天神橋の中央には、下の中之島公園に下りる螺旋状のスロープがあり、そこを下ると都心のオアシス、中之島公園です。(バラの庭ショッキングブルー)



途中、阪神高速の高架道路がありますが、それを潜るとすぐに「バラの庭」地区に入ります。(バラの庭フレグラントアプリコット)



この「バラの庭」は、先に紹介した「バラの広場」より少し狭い公園ですが、バラの品種は充実しています。(バラの庭ルージュロワイヤル)



淀屋橋方向から「バラの広場」に来た人は、そこのバラで満足し、わざわざここまで足を運ぶことは少ないようで、いつも観客が少ないようです。(バラの庭マダムヴィオレ)



人が少ないので落ち着いてバラを観賞できますが、気が付くと会社の始業時間が迫っていたということもありました。(バラの庭キャンドルライト)



今回はその反省を踏まえ、会社までの通勤時間を計算にいれながら、「バラの広場」を見て回りました。(バラの庭ブラスバンド)



さて、予定時間が来たので、ばらその橋を渡り、バラの広場、バラの小径を通って淀屋橋、さらに御堂筋を本町へと急ぎます。(バラの小径センチメンタル)



大阪に通勤するサラリーマンは、こうした楽しみがあるので恵まれていますね。


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永く大阪に住んでいますが、国宝信貴山縁起絵巻や松永弾正久秀の城で有名な信貴山に初めて行ってみました。

朝護孫子寺の仁王門にある信貴山の文字



信貴山朝護孫子寺については、以前にブログで紹介しましたが、近鉄大阪線の上本町駅から河内山本駅で信貴線に乗り換え、終点の信貴山口駅で下り、信貴山ケーブルに乗り換えます。



昭和5年に開通したこのケーブルは、路線全長2700m、高低差354mを僅か7分間で運んでくれます。



出発すると、ケーブルカー特有の車両が交差する場所が途中にあり、上下する車両がバランスを取りながら運行していることが良くわかります。



高安山駅に着き、路線バスに乗り換えて信貴山門まで走りますが、かつてこのルートに、鉄道が通っていたといいます。



さて、信貴山門バス停から徒歩数分の距離には、信貴山観光ホテルがあり、このホテルの露天風呂からの景色はすばらしいようです。



遊歩道近くの山には、春でも葉の赤いモミジの株があり、新緑とのコントラストが奇麗でした。



さて、信貴山山中に七堂伽藍を有する朝護孫子寺への参道は、大門池に架かる開運橋から先に続いています。



この橋は、昭和6年に架けられた「カンチレバー」という珍しい工法で造られた鉄橋で、国の登録有形文化財に指定されているそうです。



橋を渡り、仁王門の手前から谷の向こうを見ると、小高い場所に信貴山朝護孫子寺の本堂が見え、朝の読経が聞こえていました。




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雨上がりの休日、 広さ1,7ヘクタールの園内に世界のバラ約250種、1万本(伊丹市のHP)という荒牧バラ公園に行ってきました。(花弁に細かい水滴がついた光彩)



阪急梅田駅から宝塚線の山本駅で下り、住宅街をくねくね歩くこと20分で荒牧バラ公園に到着します。(オレンジスプラッシュ)



HPには、開園時間9時とありましたが、到着した8時50分にはもうゲートが開き、中に入ることができました。(かがやき)



中之島バラ公園のバラは、約310品種、3700株、荒牧バラ公園の株数はその3倍となりますが、入園料は無料です。 (ヒロシマアピール)



園内に入ってすぐの花壇のバラに、体の色を薄黄色に変化させたアマガエルが潜んでいました。(万葉)



蕾のままの株が多かったように思いましたが、バラの花は、この蕾の姿が一番美しいのではないでしょうか。(マチルダ)



この日は雨上がりの晴天だったので、花弁についた細かな水滴がキラキラ光っていました。(フリージア)



地形を生かして整備されたレンガ造りの植え込み、スパニッシュ瓦の建物が配置された庭園のバラは、中之島バラ園に勝るとも劣らない見事なものです。(バタフライウイングス)



公園西側の高くなった敷地には、ツルバラを配置してあり、その一部が開花しています。(フラミンゴ)



青い空を背景としたバラは、より一層その姿を美しく見せてくれます。(クリムゾンコンケスト)



1時間ばかり荒牧バラ公園を楽しんで、阪急山本駅まで引き返しましたが、帰る途中の道路にも大輪のバラが満開でした。(ダブルデライト)



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かつて楠木正成が築城した信貴山には、戦国時代に木沢長政(1493?~1542年)が城を築きますが、長政は細川晴元、三好長慶、遊佐長教の連合軍に敗れて討ち死、城は破壊されています。

信貴山雄嶽山頂からの眺め



そのあと1559年に三好長慶の右筆だった松永弾正久秀(1510?~1577年)が信貴山城を再興、この地を拠点にして1560年に大和一国を統一しています。

信貴山雄嶽山頂への道



久秀の信貴山城は、信貴山(雄嶽)を中心に東西550m、南北700mの地域に120の郭を配し、大和最大規模の城郭だったと平群町教育委員会が雄嶽の山頂付近に石碑と案内板を建てています。



松永久秀のことは、以前筒井順慶の記事で紹介したことがありますが、この信貴山雄嶽の北側に屋敷を置き(朝護孫子寺は雄嶽南側)、1568年には信長の家臣となっていたのです。

朝護孫子寺の伽藍



それから9年後の天正5年(1577年)8月、久秀は突然信長を裏切って石山本願寺などの反信長勢力に味方し、信貴山城に立て籠もっています。

朝護孫子寺玉蔵院の地蔵



信長は、織田信忠を総大将とした4万の大軍を10月に送り込み、11月3日に朝護孫子寺が焼失、11月9日雌嶽と周囲の郭が落ち、翌10日には雄嶽にいた久秀父子が切腹して信貴山城は落城したのです。

朝護孫子寺十三重の石塔



現在、雄嶽山頂には朝護孫子寺の「空鉢護法堂」があり、本堂から約600mの急な参道で繋がっていますが、そこが松永久秀最後の場所だったのではないでしょうか。

雄嶽山頂空鉢護法堂の裏側



久秀の死後、信貴山城は廃城となり、焼失した朝護孫子寺は1602年に豊臣秀頼によって再建されましたが、その本堂も1951年に焼失、現在の本堂は1958年に再建された新しい建物です。

本堂の扁額



本堂にある毘沙門天扁額の両側には、ムカデが配置されていますが、ムカデは武神毘沙門天の使いとされ、戦国時代には縁起を担いで旗印などに採用される例が多かったようです。



毘沙門天は、インドで財宝神とされていましたが、中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれたようです。


参考文献:毘沙門天王の総本山 信貴山朝護孫子寺

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昨日までの雨が上がったようなので、今日の通勤散歩は靱公園からスタートすることにしました。「ツル・デトロイター」



その目的は、靱公園の中にあるバラ園のバラの開花の具合を見るためです。「ツル・アイスバーグ」



到着すると小雨が降ってきましたので、片手で傘をさし、空いた腕を伸ばしてシャッターを押してみました。「ツル・ロイヤルサンセット」



手ぶれを心配しましたが、最近のデジカメの性能は良くなっていて、何とか見るに耐える写真が撮れたように思います。「ミスターリンカーン」



水滴を付けた「オクラホマ」の花びらは、雨の日ならではの幻想的な姿を見せてくれていました。



世界バラ会議大阪大会2006のシンボルローズとなったローズオオサカの花びらは、特に発水性が強く、濃い赤にダイヤのようにも見える水滴が付いてきれいです。



このローズオオサカの花びらは、外側がサザエの棘のように尖る剣弁咲きが特長で、その棘がなかなかバランス良く広がらないようです。



ピンクの大輪品種、「ピンクフランス」は満開状態、それより少し薄いピンクの大輪マリアカラスは蕾から開き始めたばかりでした。



また赤い大輪「クリスチャンディオール」も満開で、その花びらに水滴が光ってきれいです。



バラの花びらは、蕾の時期に中心の色が濃く、開花とともに薄くなる特長があり、この黄色の「ゴールドバーニー」にその特長が顕著です。



昼休みにも、足をはこんでみましたが、周辺のサラリーマンやOLでバラ園はすごい賑わいだったので、「ブルームーン」をまず一枚。



昼には花弁の水滴がほとんど蒸発していましたので、これは朝撮っておいた「ツル・マリアカラス」です。



こちらも純白の花弁と水滴が美しい、朝の「ミセスハーバードスティブンス」です。



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朝護孫子寺で購入した小冊子「毘沙門天王の総本山 信貴山朝護孫子寺」によると、寺の創建は582年、聖徳太子が河内の物部守屋を討伐に向かう途中、この地で毘沙門天を感得され、戦勝を祈願したといいます。



また寅の年、寅の日、寅の刻に毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利、日本最古の四天王寺より1年遅い594年に毘沙門天を祀る寺院を創建したとされていますが、あくまで伝承の域を出ないようです。



しかし、朝護孫子寺のある信貴山の西、高安山には、663年の白村江の戦いで敗れた大和朝廷が唐・新羅などの侵攻に備えて構築した高安城が築かれて(667年)いたことが知られていますので、この地は古代から重要な場所だったのでしょう。



朝護孫子寺は、712年頃には衰退していましたが、902年に命蓮が再建を果たし、醍醐天皇が、「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願寺としたことから「朝護孫子寺」の勅号を賜ったといいます。



また寺に伝わる国宝「信貴山縁起絵巻」には、命蓮が醍醐天皇(885~930年)の病気平癒を祈願する話があります。



今年は寅年ということで、この「信貴山縁起絵巻」の「延喜加持巻」の原本が霊宝館に展示されていました。



平安時代末期の扶桑略記にも、「河内国(大和の誤り)志貴山寺住」の「沙弥命蓮」が延長8年(930年)、醍醐天皇の病気平癒のため祈祷を行ったことが記されているそうです。



この命蓮の墓地は、開山堂の裏に現存しています



従って醍醐天皇の時代、平安時代中期(10世紀初め頃)には、信貴山に毘沙門天を祀る庵があり、修行僧が住んでいたことはほぼ間違いないようです。



この毘沙門天は、独尊像として安置する場合に呼ばれる呼称で、四天王の一つとして安置される場合には、「多聞天」と呼ばれていて、毘沙門天と多門天は同一神だそうです。



南北朝時代には、楠木正成(幼名は多門丸、1294?~1336年)が大塔宮を擁して朝護孫子寺に布陣した記録があり、正成が奉納したという菊水の旗や兜などが霊宝館に展示されていました。

参考文献:「毘沙門天王の総本山 信貴山朝護孫子寺」

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さて、バラの小径から難波橋の下を潜るとバラの広場、都心にありながら両側が川に挟まれている関係から、日当たりは抜群です。(黄色はフーペルネ・ディッシュ)



堂島川沿いにある新しいトイレの横から、対岸のビルを背景にバラ(ロザンナ)の写真を一枚。



バラの広場の中央部にあるバラは、丈の低い品種が多く、これは濃いピンクの大輪(エディトール・マクファーレン)。



広場中央部から土佐堀川沿いに難波橋方向を見た写真で、手前のバラは(コンフィダンス)。



中央が薄いピンク、外側が白の(オフェリア)が蕾から徐々に開花していました。



これはポールの上にまで伸びたツルバラ(レディー・マリー)で、背後に公園のトイレが見えています。



赤の大輪は(マリアカラス)



こちらは広場の東側、左が堂島川、右はばら園橋で、橋の対岸にあるクスノキの新緑がきれいでした。



ちょっと日が陰ってきたときに写したのは、深紅の大輪(イングリッドバーグマン)です。



バラは開花してしまうと美しさが半減しますが、これは開花直前の(イングリッドバーグマン)です。



デジカメの見えにくい液晶画面を見ながら片手で撮影したのですが、一応写っていたようです。

ブルームーン



中之島公園は、開花したバラと開花直前のバラの両方が楽しめる今がベストかもしれません。


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中之島緑道から御堂筋を渡り、中之島公園バラの小径の入り口に来ると、煉瓦門柱の横にある(ピエール・ドウ・ローンサール)の蕾が膨らんでいました。



バラの小径は、堂島川の左岸に沿って東に延びているので、対岸にある高層ビルをバックにしたバラの写真を撮ることができます。



このバラは、青色に近いので(ブルー・ムーン)と命名された蕾ですが、どう見ても紫色ですね。



堂島川左岸には、金網に這うように植えられているつるバラがありますが、これは深紅の大輪(シンパシー)という品種です。



青に近いので(ブルー・バリュー)と名付けられたバラで、蕾が開花直前となった姿が奇麗ですね。



このつるバラ(カクテル)は、一重ですが、花数が多く豪華ですね。



これは日本でつくられた品種(ふれ太鼓)で、中央が黄色、周囲がオレンジ色の派手な姿が特徴です。



東洋陶磁器美術館の敷地のすぐ東側にある日本で作られた品種(熱情)、深紅の大輪です。



(カクテル)は、開花直後に花弁の中央が黄色で、次第に白く変化する特徴があるようです。



東洋陶磁器美術館の高い敷地には、日本の原種ナニワイバラ(難波茨)の大きな株があり、これも(カクテル)と似た特徴を持っています。



さて淀屋橋側から入った中之島公園バラの小径の最後を飾るのは、日本で作られた品種(ピースオオサカ)です。



ファインダーの無いデジカメで、暗い液晶画面を見ながらほとんど片手だけで撮ったのですが、なんとか写っていました。


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5月8日の土曜日、天気が良かったので中之島公園のバラ園に行くつもりで淀屋橋で下り、ふと中之島緑道を見ると、そこのバラが満開となっているのを発見しました。



そこで、急きょ予定を変更して、淀屋橋から中之島緑道を西に向かって散歩してみました。



この遊歩道に植えられたバラ(下はユハン・シュトラウス)の開花は早く、殆どの株が満開状態です。



先に進むと、肥後橋駅周辺の高層ビルを背景としたバラが見え、都心ならではの景観を楽しむことができます。



このバラ(チャールズ・レニー・マッキントッシュ)はまるで牡丹のような豪華な八重咲きでした。



大同生命肥後橋ビルを背景にしたバラの写真ですが、このバラは満開を過ぎてしまっているようです。



後ろを振り返ると、気持ちの良い遊歩道とバラがあり、右側に淀屋橋が見えています。



中之島の高層ビルを背景としたバラです。



2010年の中之島緑道のバラは、この2,3日が見頃ではないでしょうか。

クイーン・オブ・スエーデン



天気がいいとバラの写真が映えますね。

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ゴールデンウイーク中の出勤日、少し曇り空でしたが、森ノ宮駅からのんびり通勤散歩をはじめると、大阪城外堀のゆらぐ水面に天守が写っています。



外堀の青屋門から二の丸に入り、さらに京橋口に向かって歩くと、静かな内堀の水面に写った天守を眺めることができるようになります。



風があると、水面が波立って奇麗に見ることができませんが、この日の内堀の水面は鏡のようでした。



さて、京橋口から外堀を渡り、先に進むと、豊臣家ゆかりの桐の花がちょうど開花しているではありませんか。



その先にある大坂橋の上から東を見ると、大阪ビジネスパークの高層ビルが朝焼けの中に屹立していました。



そのまま八軒屋浜まで散歩を続け、天神橋から中之島公園に下りてみると、いつのまにか「バラの庭」の開花がかなり進んでいます。



さらに「ばら園橋」を渡って、中央「バラの広場」まで来ると、多くのバラの開花していて、中之島バラ園は早くも佳境を迎えたようです。



難波橋を潜り、「バラの小経」に進むと、堂島川左岸に置かれたバラの柵に展開するツルバラもかなり開いているではありませんか。



先週には、つぼみばかりだったピンクのツルバラは、もうかなり咲き始めています。



左手の東洋陶磁器美術館側にも、ツルバラの大きな株があり、こちらも純白の花を一杯つけていました。



「バラの小経」を先に進むと、次々と見事な大輪のツルバラが開花していましたが、これから花開く株もあるので、まだしばらくは楽しめそうです。



バラは、完全に開花してしまう直前、つぼみが開きかけ、花弁が同心円状に重なった状態が最も美しいと思うので、今がまさにその時期ではないかと思います。



大阪城と中之島バラ園をめぐり淀屋橋に到着すると、7時50分、めざす会社まではあと少しです。


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今年のゴールデンウイークは、天気が良かったので鶴見緑地と門真の薫蓋樟を見に出かけて見ました。



鶴見緑地では、まずバラ園を目指し、風車の丘から続く入り口を入ります。



バラ園内のバラの開花は、思ったよりも早く、中でも黄色系統が早いように思いました。



バラ園の横に植えられているオーストラリアチャンチン、この若葉には葉緑素が少ないのか、かなり薄い緑色をしている珍しい樹木です。



バラ園を出る前に、ちょっと豪華な赤いエッジの白バラをもう一枚紹介しておきます。



バラ園の外では、各区対抗の「はならんまん市民花壇コンクール」の花壇が24台置かれ、アイデアを競っていました。



さて、この日の次の目的、門真の大クス「薫蓋樟」を見るために、地下鉄鶴見緑地駅の北東約1,6キロの三島神社まで、約40分の散歩を楽しみました。



三島神社の前まで来ると、神社の敷地の上全体が楠の葉で覆われています。



神社の中の説明書きによれば、<大阪府下最大規模を誇り、目通り周囲12,5m、1938年に国の天然記念物に指定され、高さ30m、1000年以上の樹齢と思われる>とのこと。



この薫蓋樟は、「大阪緑の百選」の第一位に選ばれていて、根元には幕末の公家、千草有文(1815〜1869年)の「村雨の 雨やどりせし 唐土の 松におとらぬ 楠ぞこのくす」の歌碑(150年くらい前のものか?)があります。



そこから近くの門真南駅まで歩いて戻るとわずか15分、「大阪緑の百選」第一位のクスノキは、意外と交通の便の良い場所にあったのです。

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浅香山浄水場のツツジは、大阪みどりの百選にも選ばれ、毎年のゴールデンウイーク中に見頃を迎える名所ですが、今回はじめて行ってみました。



南海電車の難波駅から高野線の各駅停車に乗って20分で浅香山駅に到着、そこから東に10分ほど歩くと、浅香山浄水場です。



北門から浄水場内に入ると、すぐに巨大なツツジの壁が見えてきますが、これは浄水場周囲に盛り上げられた土手に植えられているせいです。



浄水場の土手は、北門の横から大和川のすぐ近くまで伸びて南に直角に曲がり、さらに大和川に並行して南に続いていますが、そこに植えられたツツジは2300株もあるとか。



右手にツツジ、左に大和川を見ながら先に進むと、南門の出口があり、その先は浅香山公園に続いています。



大和川の土手を上流に向かって進むと、JR阪和線の鉄橋があり、そこから下流を眺めると、かすかに浅香山浄水場の盛り上がったツツジが見えています。



大和川は、このJR鉄橋辺りが最も大きく南にせり出していて、その上流には吾彦大橋が見えています。



JR鉄橋の北側を見ると、小高い台地(上町台地)になっていて、遠くのビルは大阪市立大学のようです。



上流に向かって進みながら、ふと後ろを振り返ると、空色のラインが入った381系特急列車(スーパーくろしお)が橋を渡っていました。



吾彦大橋に到着し、橋の上から大和川の下流を見ると、川が台地を避けて大きく湾曲していることがさらに良く判ります。



以前紹介(09.01.07)しましたが、大和川を付け替える大土木工事が、江戸時代(1704年)たった224日で完成したとは、まったく驚くばかりです。


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さて、長谷寺についての昨日の記事からの続きですが、今日は長谷寺の中で咲く牡丹の写真を紹介してみましょう。



まず、長谷寺本堂の舞台から見える新緑と五重塔は、長谷寺のベストビューポイントなので、1枚だけ載せておきました。



さて、本堂から弘法大師御影堂、本長谷寺の前を通って五重塔の前に出ると気持ちの良い場所があり、そこで弁当を広げることにしましたが、写真は本坊の牡丹です。



この本長谷寺のある辺りは、雄略天皇(在位456~479年)が、皇居としていた場所とされているそうですが、写真は白い牡丹。



その五重塔から奥に続く道を進むと興教大師祖師堂、その先にあったオオテマリも紹介しておきます。



さてそこから本坊前に続く階段を降りると、本坊手前から再び見事な牡丹園が見えてきます。



本坊前から牡丹園越しに見える新緑に囲まれた本堂は、長谷寺を代表する景観でしょう。



本坊前の牡丹園では、開花した牡丹と、これから開花を迎えようとする多くの蕾を見ることができます。



今年は、春先に寒かったので開花が例年よりも少し遅れているのか、ゴールデンウイーク中はまだまだ満開の牡丹を楽しめそうです。



ところで、天気の良い日、純白の牡丹を白一色にならないように撮影するのは意外と難しいことが今回判りました。



長谷寺の牡丹は、今年も期待を裏切らない豪華さと美しさを見せてくれています。


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関西の牡丹の名所といえば「長谷寺」ということで、今年も5月2日の日曜日に行ってきました。



150種7000株の牡丹がある長谷寺には、毎年牡丹の季節に出かけていますが、いつも晴れの日が多く、汗ばむくらい暖かい日が多かったという印象があります。



今年も晴天に恵まれ、絶好のコンディションだったので、撮った写真の発色が良かったように思います。



新緑に覆われた初瀬山の斜面に広がる伽藍は、素晴らしい景観を見せてくれていました。



世界文化遺産に匹敵する長谷寺には、仁王門から本堂まで続く南斜面に登廊があり、その両側が牡丹園となっています。



この日、10時過ぎの到着でしたが、屋根のある登廊の中はもう観光客で一杯です。



この登廊の中は、日差しの強い日でも日焼けすることなく、牡丹をゆっくりと鑑賞することができるので、肌の弱い人にも優しい寺院です。



登廊を本堂(大悲閣)に上がる途中、紀貫之の梅のある場所に出ますが、ここの新緑は目にまぶしいくらいでした。



本堂(大悲閣)に上がり、中を見ると磨き抜かれた広い床に新緑の光が反射していました。



清水の舞台よりも、長谷寺の舞台からの眺めのほうが雄大ですね。



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堺市にある仁徳天皇陵に代表される百舌鳥古墳群は、古代へのロマンをかきたてますが、中でも第18代反正天皇(366?〜410年、仁徳の皇子)陵とされる古墳は、南海電鉄堺東駅から徒歩5分という交通至便の場所にあります。

南海電鉄堺東駅



その御陵を見る前に、まず堺市庁舎最上階の展望室に上がり、古墳の全体像を見てから現地に足を運ぶのが良いでしょう。



反正天皇陵に比定される田出井山古墳は、全長約148m、後円部径約76m、高さ約14mの比較的小さな前方後円墳です。



父の仁徳稜486m、兄の履中陵360mに比べ小さ過ぎることから、天皇陵と比定することを疑問視する意見もあるようです。

仁徳稜



しかし田出井山古墳の墳丘の形態や出土した埴輪から、5世紀後半頃に造築されたと考えられていて、時代的には合っているようです。

反正天皇陵の後円部



宮内庁は、百舌鳥古墳群の中で3番目の規模となる土師ニサンザイ古墳(全長290m、御陵山公園)を、反正天皇陵の候補として陵墓参考地に指定しているようです。

反正天皇陵の東側



反正天皇の父、仁徳天皇は、都を難波高津宮(現在の大阪城付近)に定めていて、兄は住吉大社に縁のある住吉仲皇子と称していたので、当時の天皇一族は大阪上町台地に住んでいたと考えるべきでしょう。

住吉大社



さて、反正天皇陵の前方部から東側の歩道を後円部に向かって北上すると、後円部の北西(御陵の鬼門)に方違神社があります。



同神社のHPによれば、<応神天皇がこの地に須佐之男神・三筒男神・母后神(神功皇后)を合せ祀り、方違大依羅神社と名づけた>とあります。



平安時代には、旅行、転居の際の<方災除けの神として崇敬篤く、弘法大師空海・平清盛・後鳥羽天皇など、云々>とあり、古くから陰陽道の神としてこの地にあったことは間違いないようです。



さらに<明治元年には東京遷都の折に17日間の祈祷の命を蒙り云々>とあるので、個人の転居だけでなく日本の首都移転の際にもこの神社で方災除けの祈祷があったことに驚かされます。


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