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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



堺市にある仁徳天皇陵に代表される百舌鳥古墳群は、古代へのロマンをかきたてますが、中でも第18代反正天皇(366?〜410年、仁徳の皇子)陵とされる古墳は、南海電鉄堺東駅から徒歩5分という交通至便の場所にあります。

南海電鉄堺東駅



その御陵を見る前に、まず堺市庁舎最上階の展望室に上がり、古墳の全体像を見てから現地に足を運ぶのが良いでしょう。



反正天皇陵に比定される田出井山古墳は、全長約148m、後円部径約76m、高さ約14mの比較的小さな前方後円墳です。



父の仁徳稜486m、兄の履中陵360mに比べ小さ過ぎることから、天皇陵と比定することを疑問視する意見もあるようです。

仁徳稜



しかし田出井山古墳の墳丘の形態や出土した埴輪から、5世紀後半頃に造築されたと考えられていて、時代的には合っているようです。

反正天皇陵の後円部



宮内庁は、百舌鳥古墳群の中で3番目の規模となる土師ニサンザイ古墳(全長290m、御陵山公園)を、反正天皇陵の候補として陵墓参考地に指定しているようです。

反正天皇陵の東側



反正天皇の父、仁徳天皇は、都を難波高津宮(現在の大阪城付近)に定めていて、兄は住吉大社に縁のある住吉仲皇子と称していたので、当時の天皇一族は大阪上町台地に住んでいたと考えるべきでしょう。

住吉大社



さて、反正天皇陵の前方部から東側の歩道を後円部に向かって北上すると、後円部の北西(御陵の鬼門)に方違神社があります。



同神社のHPによれば、<応神天皇がこの地に須佐之男神・三筒男神・母后神(神功皇后)を合せ祀り、方違大依羅神社と名づけた>とあります。



平安時代には、旅行、転居の際の<方災除けの神として崇敬篤く、弘法大師空海・平清盛・後鳥羽天皇など、云々>とあり、古くから陰陽道の神としてこの地にあったことは間違いないようです。



さらに<明治元年には東京遷都の折に17日間の祈祷の命を蒙り云々>とあるので、個人の転居だけでなく日本の首都移転の際にもこの神社で方災除けの祈祷があったことに驚かされます。


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