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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



かつて楠木正成が築城した信貴山には、戦国時代に木沢長政(1493?~1542年)が城を築きますが、長政は細川晴元、三好長慶、遊佐長教の連合軍に敗れて討ち死、城は破壊されています。

信貴山雄嶽山頂からの眺め



そのあと1559年に三好長慶の右筆だった松永弾正久秀(1510?~1577年)が信貴山城を再興、この地を拠点にして1560年に大和一国を統一しています。

信貴山雄嶽山頂への道



久秀の信貴山城は、信貴山(雄嶽)を中心に東西550m、南北700mの地域に120の郭を配し、大和最大規模の城郭だったと平群町教育委員会が雄嶽の山頂付近に石碑と案内板を建てています。



松永久秀のことは、以前筒井順慶の記事で紹介したことがありますが、この信貴山雄嶽の北側に屋敷を置き(朝護孫子寺は雄嶽南側)、1568年には信長の家臣となっていたのです。

朝護孫子寺の伽藍



それから9年後の天正5年(1577年)8月、久秀は突然信長を裏切って石山本願寺などの反信長勢力に味方し、信貴山城に立て籠もっています。

朝護孫子寺玉蔵院の地蔵



信長は、織田信忠を総大将とした4万の大軍を10月に送り込み、11月3日に朝護孫子寺が焼失、11月9日雌嶽と周囲の郭が落ち、翌10日には雄嶽にいた久秀父子が切腹して信貴山城は落城したのです。

朝護孫子寺十三重の石塔



現在、雄嶽山頂には朝護孫子寺の「空鉢護法堂」があり、本堂から約600mの急な参道で繋がっていますが、そこが松永久秀最後の場所だったのではないでしょうか。

雄嶽山頂空鉢護法堂の裏側



久秀の死後、信貴山城は廃城となり、焼失した朝護孫子寺は1602年に豊臣秀頼によって再建されましたが、その本堂も1951年に焼失、現在の本堂は1958年に再建された新しい建物です。

本堂の扁額



本堂にある毘沙門天扁額の両側には、ムカデが配置されていますが、ムカデは武神毘沙門天の使いとされ、戦国時代には縁起を担いで旗印などに採用される例が多かったようです。



毘沙門天は、インドで財宝神とされていましたが、中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれたようです。


参考文献:毘沙門天王の総本山 信貴山朝護孫子寺

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