野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



梅雨の晴れた蒸し暑い一日、昼休みに北御堂を訪ねてみたら、北御堂と御堂筋という由緒書きが掲示されている。



その記事とNETでの調査によれば大阪の地にあった石山本願寺は、信長との石山合戦の後、4年間大阪を離れたが、1585年、秀吉から天満の地を与えられて大谷本願寺を建立している。

豊臣秀吉は本願寺に好意的で、1591年には現在の京都七条堀川(現在の西本願寺の場所)に広大な土地を寄進したので顕如と教如父子は京都に移っている。

1592年、顕如が没し、長男教如が本願寺第12代を継承したが、秀吉は顕如の妻如春尼の願いをいれて本願寺12世を三男准如に譲るように勧告したために、顕如を継いでわずか11ヶ月で教如は隠居、三男准如が継ぐことになる。

1597年、秀吉は本願寺のために京都の本山用地だけでなく、天満本願寺の移転先として津村御坊(北御堂)と南御堂の地を与え、南御堂は隠居した12世教如の系統が引き継ぐことになる。



関が原の合戦の前、新12世准如は石田三成に止められて家康への陣中見舞いを果たせなかったが、隠居させられた教如は関東まで足を伸ばし、家康を陣中見舞いしたらしい。

そのせいか関が原の後、家康は教如に対して京都烏丸七条に広大な東本願寺の土地を与え、ここに東西本願寺が並立することになる。

石山本願寺以来、隠然たる宗教勢力を保持していた本願寺のパワーを分断する家康独特の政策であろう。



それ以来、徳川家に贔屓にされた教如の東本願寺と、秀吉の指示よって准如の相続を決めた西本願寺は今日まで別々の道を歩んでいる。

明治後期から大正にかけて西域探検のためインドに渡り、仏蹟の発掘調査に当たった大谷探検隊の隊長、大谷光瑞は西本願寺の第22世門主で法名は鏡如という。

大谷光瑞は海外伝道も積極的に進め、1913年に孫文と会見したのを機に、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任するという行動的な性格を持っていた。

又、神戸の岡本に二楽荘を建てて探検収集品の公開展示・整理の他、英才教育のための学校、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置したらしい。



二楽荘以外に今の須磨離宮公園、上海や台湾の高雄などにも別荘を持つという散財のためか、巨額の負債が発生し、その整理と教団の疑獄事件のために1914年に門主を辞任して大連に隠退している。

その後、太平洋戦争中は近衞文麿内閣で参議、小磯國昭・米内光政協力内閣で顧問を勤めたが1945年にソ連に抑留、1947年帰国の翌年波乱万丈の生涯を閉じている。

北御堂の2階には大谷光瑞資料室と表示された部屋がある。



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梅雨の休日、久しぶりに南港にある大阪ワールドトレードセンタービルを訪ねてみた。




大阪市の第三セクターが1995年に建設したこのビルは、高さ256m、55階建て、日本第二位のノッポビルである。

WTCから梅田方面の眺め



大阪市の第三セクターが大赤字を出した建物として、ビルの高さと同じくらい悪い評判も高いビルである。

現在このビルには大阪市の部局として、ゆとりとみどり振興局、都市環境局、建設局、港湾局、水道局及び12関連団体が入居しており、第二の市庁舎となっている。

ATCとなにわの海の時空間ドーム



いっそのこと中ノ島の市庁舎を売却して、このWTCに大阪市庁舎を一本化したら赤字対策にもなってすっきりするのでは、と思うがいかがであろう。

そうなれば、大阪市庁舎は東京都庁の243mを13m抜いて、なかなか抜けない東京を庁舎の高さで出し抜くという快挙も達成できるである。

コスモスクエア駅前に建設中のマンション2棟



さて、日本一のノッポビルは今から23年前の1983年に建設された横浜ランドマークタワー296m70階建てで、現在も日本ではこの高さを越える300m以上のビルは計画されていない。



ちなみに世界のノッポビルをネットで検索してみるとさすがに世界は広い。

まず建築中を含めると、世界NO1はアラブ首長国ドバイに建設中のBURJ DUBAIビルで、2年後の2008年に完成するらしい。

なっなんと高さ810m161階建てという想像を絶する規模で、アラブの石油成金恐るべしである。

 

この高さは標高642mの生駒山を168mも上回っているので、もし大阪市内にあれば、生駒を越して楽々奈良を直接眺めることができるくらいである。

これでは世界一のタワーとして計画中の第二東京タワーの高さ、610mも色あせてしまう。



第2位が9.11で崩壊したニューヨークWTC跡地に建設中のフリーダムタワーで2011年に完成予定らしい。



こちらは高さ541m82階建て、前のWTC110階よりもビルの階が少ないのは上部にある塔の高さを含めているかららしい。

世界第3位は既に完成していて現在世界最高のノッポビル、台湾の台北101ビル



高さ509m101階建てで、竹の子のようなアジア的なデザインが面白い。

この高さは大阪ワールドトレードセンタービルの丁度2倍である

現在完成している世界第二位のノッポビルはマレーシアのペトロナスタワービル。



高さ452m、88階建てで1997年に完成した直後にショーンコネリー主演映画の舞台にもなっている。

世界一が大好きな中国には300mを越えるビルが現在10棟もあり、さらに上海、香港、広州で400mを超えるビルが建設中である。

2年前に住んでいた広州の中信ビルは高さ322m80階もあるが、中国第9位にしかランキングされないくらい中国には超高層ビルが多いのである。



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適塾からは 福沢諭吉 、 大鳥圭介 、 橋本左内 、 大村益次郎 、 長与専斎 、 佐野常民 、 高松凌雲など、幕末から 明治維新にかけて活躍した多くの人材が輩出している。

適塾の外にある緒方洪庵の銅像



日本の中心から離れた大阪の私塾でこれほど多数の人材を輩出したということは、緒方洪庵が医師としてだけでなく、教育者としても類まれな才能を持っていたと特筆すべきであろう。



塾は、 明治維新後、教師・塾生とも大阪医学校に移籍することによって、その歴史を閉じるが、大阪医学校は後に 大阪大学医学部となる。

従って大阪大学医学部の起源を適塾とすれば、今から168年前の1838年創設ということとなり、東北大学医学部に次ぐ日本で屈指の伝統をもつ医学教育機関ということになる。

適塾の土間



漫画家、故 手塚治虫 の曽祖父にあたる 手塚良仙も門下生の一人で、この部屋には良仙の名簿と手塚治虫の作品である「陽だまりの樹」の主人公、手塚良仙を描いた漫画が展示してある。



手塚治虫も 大阪大学医学部卒業の医師なので、偶然にも曽祖父と同門ということになるのである。

適塾の建物は建築以来210年以上が経過しているが、昭和51年から55年にかけて解体修復工事が行われたせいか現在も非常に良い状態で保存されている。



昭和16年には国の史跡になり、昭和17年には緒方家から大阪帝国大学に寄贈されている。

適塾の南にある緒方ビル



その後大阪大学医学部同窓会が管理公開していたが、昭和39年には国の重要文化財に指定され、現在は大阪大学適塾として 国立大学法人大阪大学の適塾記念会が保護・管理に当たっている。

緒方ビルにある洪庵記念会



適塾の入場券には「適塾記念会入会のお薦め」というチラシが付いていた。

年会費2000円を払うと1年間適塾への入場が無料となり、講演会、特別展、研究会等記念会の主催する行事に参加ができるらしい。

大阪が生んだ、緒方洪庵の適塾を長く盛り上げるため、年間2000円の寄付は大阪市民の義務かもしれない。


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大阪市営地下鉄中央線の西の終点コスモスクエアから地下鉄に乗ると、電車の行く先には学研奈良登美ケ丘行きと書いてある。

この学研奈良登美ケ丘という長い名前の駅は今年の3月に出来たばかりの「けいはんな線」の終点駅である。



大阪市営地下鉄は長田まで、それ以降は近鉄が運営するけいはんな線となり、地下鉄と近鉄が相互乗り入れしている。

従って終点まで乗ると長田までの料金は大阪市交通局、それ以降は近鉄と2回清算することになるのでややこしい。



中央線と近鉄線相互乗り入れの歴史を調べてみると1986年、近鉄東大阪線は長田~生駒間が開業し、大阪市営地下鉄中央線大阪港駅まで相互直通運転を開始している。

11年後の1997年12月、海底トンネル完成と同時に相互直通運転区間をコスモスクエア駅まで延長している。

2000年10月には、けいはんな新線が着工し、5年半の期間をかけて今年3月生駒~学研奈良登美ヶ丘間が開業しているので、長田~生駒間開業から20年後に開業したということになる。



生駒~学研奈良登美ヶ丘間は、大阪と関西文化学術研究都市(学研都市)を結ぶ路線として東大阪線を延伸する形で建設され、学研奈良登美ヶ丘駅から学研都市の祝園・高の原方面への延伸計画もあるらしい。

しかし現在は、生駒市北部および奈良市北西部に広がる住宅地群の大阪市内への交通アクセスとなっているだけである。

生駒~学研奈良登美ヶ丘間は全線の約6割がトンネルとなっているために電車の最高速度を日本国内最高となる時速95キロで運転しているのが特徴である。

それでも近鉄区間の学研奈良登美ヶ丘~長田間の標準所要時間は22分、コスモスクエアから学研奈良登美ヶ丘間は約1時間もかかるので乗ってみると結構遠い。

学研奈良登美ヶ丘駅隣にあるイオンの巨大ショッピングセンターはもうすぐオープンするようである。



しかし駅の周囲にはマンションや住宅が無く、駅の前にはこれから工事が始まるビルの工事現場があっただけのかなり殺風景な場所であった。




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緒方洪庵は1810年に備中(岡山県岡山市)・足守藩士の子に生まれ、16歳の頃父の転勤に伴い大坂に出てきて翌年、 中天游の塾「思々斎塾」で西洋医学の基礎を学んでいる。

その後、江戸と長崎へ遊学後、大坂へ戻り大塩平八郎の乱の翌年、 天保 9年1838年に 大坂・ 船場瓦町で医師として開業すると同時に蘭学の私塾、適塾を開いている。



適塾は正式には適々斎塾というが、これは緒方洪庵の号である「適々斎」にちなんだものである。

開業2年目には早くも 浪花医者番付 で東の前頭4枚目になり、ついで最高位の大関に番付けされている。

名声を聞いて次第に適塾への入門者が増え、手狭となったため、7年後の 弘化2年(1845年)に現在の 大阪市中央区北浜3丁目の商家を購入し移転している。



この商家は1792年寛政の船場大火の直後に建設されたもので、その建物は幸いにも戦災にも耐えて、今も殆ど昔のままで残っているが、全国唯一の蘭学塾の建物である。

緒方洪庵が医師であったので、医学学校を連想するかも知れないが、蘭学塾というのは、当時ヨーロッパ先進諸国の中で唯一貿易を許されていたオランダの言語を学ぶ、言わばオランダ語学科専門学校のことである。

緒方洪庵は医学でなくヨーロッパの近代化した科学技術や社会制度をオランダ語を通じて若い塾生に教えようとしていたのである。

今も残る緒方洪庵を記念するビル



したがって入塾した塾生には医師の子弟が多いが、塾を出た後の塾生の多くは洪庵の意思を継いで日本の近代化のためにその人生を捧げている。

商家として使われていた1階が教室、2階を塾生の部屋とし、洪庵一家は裏に増築した平屋に住んだらしい。

江戸に召し出されるまでの約20年間、ここを根拠として、日本最初の病理学書「病学通論」、コレラの病理・治療・予防法を書いた「虎狼痢治準」などを著わしている。

又道修町に 除痘館を設けて種痘事業の発展に尽くすなど医学の面で多大の業績を残している。

緒方ビルに展示された除痘館のプレート



当時、緒方洪庵に許可されたその種痘館の免許が今も展示してあった。



その後、緒方洪庵は文久2年(1862年)、徳川家茂の奥医師兼西洋医学所頭取に任命されたために、断りきれずに江戸へ出ている。

虫が知らせたのか「医学のため、子孫のため、討死の覚悟」と言い残して大坂を離れているが、言葉通り翌年54歳で惜しくも急死している。


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スイスホテル南海大阪の36階は1フロアーすべてがイタリアンレストラン「Tavola 36」で、エレベーターホールの右に入り口がある。



イタリア語のTAVOLAとは英語のTABLE(テーブル)のことらしい。

料理長はミラノ出身のマヌーリ氏で、常に素材を第一に考え、新鮮で体に優しい季節の食材を自然の調味料を使ってシンプルに料理するというのが彼のモットーらしい。

11時35分頃に入ったらクロークの奥の待合コーナーには15人くらいの先客が待っている。

予約をしていなかったので窓際の席は無かったが、通路を挟んだ窓に近い席に案内してくれた。



梅雨の季節であったので曇っていたが、さすがに36階は見晴らしが良い。



しかしどうせ来るのであれば晴れた日に、梅田が見渡せる北の窓側の席を予約しておくべきであろう。

客席の一番奥が料理コーナーで、イタリアの様々な郷土料理を日本の季節の素材を使って調理した料理が40種類も並べられている。



イタリア料理らしくピザとパスタはコックがオープンキッチンで作っており、ローストビーフもコックが目の前で切り分けしてくれる。

このコーナーではイタリアンジェラードが10種類くらいあって、注文したらその場で盛り付けしてもらえるので評判のようである。



コーヒーは大勢いるスタッフに頼めばすぐに持ってきて貰えるし、スタッフは空いた皿をすぐに引いてくれるので有難い。

デザートは一段高いフロアにあるカクテルバーのカウンターに置いてあり、料理を取る客と動線が重ならないように配慮されている。



ここのスイーツデザートは結構種類があり、専属のイタリアンパティシエが作っているらしく見た目が美しいのが特長である。



このホテルで有名なチョコレートフォンディユ用チョコレート噴水もあり、周囲は甘いチョコレートの香りで一杯である。



料理はほどほどにしておかないと、ここのデザートが食べられなくなるので、その腹加減のコントロールが難しい。



トイレは入り口の奥にあり窓が大きく、ホテルらしい石張りの清潔な場所であったが、ウオッシュレットが無いのが欠点である。

7,8月だけは土日祝日のイタリアンビュッフェ4050円が、月曜日に限り2900円になるレディースデイという女性限定サービスをやっている。

Tavolaタボラ36へのROSSの評価 (☆☆☆☆☆が最高)

場所     ☆☆☆☆☆
インテリア  ☆☆☆☆
サービス   ☆☆☆☆
味      ☆☆☆☆
ボリューム  ☆☆☆☆☆
値段     ☆☆☆☆
トイレ    ☆☆☆☆

総合評価   ☆☆☆☆


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ある梅雨の一日、スイスホテル南海大阪36階にあるイタリアンレストラン&スカイバー「タボラ36」にランチに行って来た。

難波のランドマーク南海サウスタワーホテルは難波地区では最も高い147m、36階建ての超高層ホテルであるが、3年前にスイスホテル南海大阪と名前が変わっている。



「スイスホテル」とはシンガポールにある名門ホテルグループ「ラッフルズ・インターナショナル・リミテッド」のブランド名である。

ラッフルズはシンガポールのラッフルズホテルを中心とするグループで、2001年からは「スイスホテル」ブランドを買収、現在世界で合計36件のホテルを運営している国際ホテルチェーン。

ニューヨークのアッパーイーストサイドにあるスイスホテルは高級ホテルとして有名である。

36階から北の御堂筋を見る



今の総支配人はシンガポール人のクワン氏、総料理長はオーストラリア人のウッド氏という国際色豊かな幹部が大阪ミナミのホテルを経営しているというのも面白い。

名前が変わったということは、ホテルの運営が「ラッフルズ」に移ったということだが、南海電鉄は引き続きホテルの建物を保有しているので建物は賃貸されているらしい。

スイスホテル南海大阪になってから客室数が548室から446室に100室も減っているのは32から34階の高層階に広いクラブルームを作ったためであろう。

南の日本橋筋から天王寺公園を望む



宿泊料3万円以上のエグゼクティブクラブルームフロアには専用エレベーター、専用ラウンジと専任スタッフがおり、朝食、昼のアフタヌーンティー、夕方のカクテルなどが無料となる。

客室は、クラブスーペリアツイン(約34平米)、クラブスイートキング(約59平米)と広く、DVD/CDプレイヤーが設置され、バスルームには、レインシャワーが用意されるという豪華さである。

このホテルは6階にロビーがあるために、一旦6階で降りてエレベーターの乗り継ぎをしてからレストランのある36階まで上がることになる。

36階からはもうすぐオープンする南街会館の新しいビルが、すぐ足元に見えている。





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緒方洪庵の主宰する適塾には外から通学する外塾生と、適塾に起居する内塾生がいたというが、内塾生はこの部屋で寝食を共にしていたらしい。



内塾生は会読での成績順で好みの場所を占有できたらしいが、一人の占有スペースは畳1畳程度というので相当窮屈だったようである。


塾生の部屋の真中の柱は血気盛んな塾生が、刀で切りつけために、傷だらけであったのが印象的である。



この傷の一部は福沢諭吉がつけたものかも知れない。

天井の無い部屋の屋根裏を見ると丸太の梁があり、今から210年以上前に建てられた建造物とは思えないくらいしっかりしている。



福沢諭吉、大村益次郎、佐野常民、橋本左内等もこの屋根裏の梁を見ながら日本の将来を考えていたのである。

この部屋にある窓から外の屋根の眺めは、恐らく当時のままではないかと思うが、今は屋根の向こうに巨大なビルが聳え立っている。



さらに奥が塾頭の部屋で、適塾出身の偉人の写真が展示してあった。



歴代の塾頭の一覧表があったが、それによれば大村益次郎は福沢諭吉よりも7年先輩の塾頭であることが判る。

部屋の東にある急な階段を踏み外さないように気をつけて1階に下りると、最初に上がった玄関部屋であった。



塾生はこの階段を使って、1階の教室と2階にある塾生部屋を行き来していたのである。

外に出て適塾の西の筋を南に歩くと、明治34年(1901年)に建てられた愛珠幼稚園があり、この辺りは奇跡的に戦災を免れた貴重な地域であることが良くわかる。



現在でも、他に数軒の江戸時代、 明治初期に建てられた商家がそのまま残り、医院などに利用されているらしい。 

この日は亜熱帯気候の広州と同じような暑さになり、かなり汗をかいたので、1時前には涼しい地下鉄に乗って本町へ戻る。

次ぎは緒方洪庵と適塾の歴史について調べたことを書いてみたい。


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緒方洪庵の適塾での教育の中心は医学ではなく、オランダ語の書物を読む所謂、蘭学を修めることであった。



洪庵は自身が学んだ蘭学を通じて、当時のヨーロッパの先進科学技術や、ものの考え方を若い人材に教える必要性を痛感しており、日本の近代化の為の人材を育成することを狙って適塾をスタートさせたのである。

適塾では5日に一度、原書の解読をする会読が行われ、会読で一番の成績を3ヶ月連続すれば昇級するという教育が行われている。

会読は塾頭や1級生が会頭になって実施され、塾生は8級からスタートするので7回の昇級でやっと1級生まで辿り着けることになる。

大村益次郎は1846年に入塾し、途中長崎に遊学した後、1849年に塾頭に抜擢されているので殆ど1番の成績を取っていたようである。



福沢諭吉は長崎で学んだ後の1855年に入塾し、1年後に塾頭に抜擢されているので、会読の成績は他に抜きん出ていたらしい。

一方、歴史に名を残した有名人では、1848年に入塾した佐野常民



1850年入塾の橋本佐内



1852年の入塾の大鳥圭介



この3人は塾頭まで出世していないので、成績もそれなりであったのか。

佐野常民は大蔵卿、元老院議長、日本赤十字社の創始者、橋本佐内は幕末期の開国派として安政の大獄で処刑された悲劇の人、大鳥圭介は学習院院長から駐清国特命全権公使として日清戦争開戦直前の外交交渉に活躍している。

ヅーフ部屋の奥には広い塾生の部屋があり、当時の大阪地図や資料が展示してあった。



展示資料によれば適塾に入門した塾生は全国ほとんどすべての県から集まっていて、現存する姓名録に記載があるだけで636人、記録が残っていない塾生も大勢いたらしい。




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ある梅雨の日の昼休み、会社のある本町から御堂筋を北に向かって散歩をすると、2年前までいた広州と同じような蒸し暑さで汗が噴出してくる。

かまわず散歩を続け10分くらい北に歩くと、御堂筋に面した大阪東銀ビルの南の通りに出た。



通りの入り口の建物には北浜3丁目と表示している。

その通りを御堂筋から、さらに200m東へ入ると、ビジネス街にそぐわない瓦屋根の2階建ての建造物があり、そこが目指す適塾であった。



適塾の周囲には小さな公園が整備されており、緑と空間の少ない大阪ビジネス街の貴重なオアシスとなっていて、適塾の建物は時代劇のセットのようである。



適塾の由来を書いた看板がある入り口から玄関の土間に入り、靴を脱いで玄関部屋の座敷に上がると右手は適塾の元教室であった。



今は教室の一部が拝観受け付けとなっていたので、そこで拝観料250円を支払い奥に入る。

緒方洪庵が購入し、拡張した適塾は、間口約12m奥行き39mの一部2階建て、延べ面積417㎡というかなり大きな建物であった。

福沢諭吉の書が掲示された元教室の向こうには小さな中庭があり、かつて緒方洪庵や、塾生の大村益次郎、福沢諭吉がこの風景を目にしていたのではないかと思うと感慨無量である。



その庭に面した縁側を通り、洪庵の応接間、家族部屋、台所を見て梯子のような急な角度のある階段を2階に上がる。



階段を上がった2階には女中部屋があり、その続きに有名なヅーフ部屋があった。



長崎オランダ館長のヅーフは1816年にオリジナル版を作っているが、その後長崎通詞が校訂浄書して1833年に完成したのがヅーフ蘭日辞書である。

かつて塾生は競い合ってこの辞書を写し、オランダ語の勉強をしたらしい。

今展示しているヅーフ辞書は当時適塾で使われていたものではなく、適塾出身の岡村義理が筆写して子孫に伝えたものである。



このヅーフ辞書の写本は近代化を急ぐ諸藩大名からの注文が多く、1ページが16文で売れたために、1日100文あれば生活できた当時の塾生の良いアルバイトになったらしい。

又、有名な医学書の解体新書も同じ場所に展示してあったが、緒方洪庵は杉田玄白、大槻玄沢の直系の弟子筋に当たるらしい。




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南御堂では法要のない平日12時15分から50分まで無料のステレオコンサートが本堂で行われる。

御堂筋を少し注意して歩くと南御堂の入り口にコンサートの案内看板で出ているので、それを見て飛び込みで入る人もいるのではなかろうか。



いつもは法要が行われる本堂は入り難いが、良く見ると本堂の入り口にも演奏曲名を書いた小さな看板があり、椅子が並べられた薄暗い本堂には既に先客が何人かいた。



お寺の本堂なので、正面のご本尊を仰ぎ見ながら、スピーカーから流れてくる音楽を楽しむという趣向である。



梅雨の合間であったのでエアコンの無い本堂は少し蒸し暑かったが、お寺で聞くクラシックの名曲は心地よく、中にはうとうととしている人もいる。



毎日の昼休み、ここでの35分間の非日常体験は、気持ちをリフレッシュさせてくれるのではなかろうか。

昼休みの時間が残り少なくなったので、早々に本堂を出て両側の青銅製の灯篭を見ると灯篭の背後に建造年が彫りこまれていた。



正保2年(1645年)、正保4年(1647年)、元禄6年(1693年)と3つの年数が記されているが、1645年に建立し、その後2回の修復があったということか。



本堂の左側の奥に進むと、松尾芭蕉の有名な「旅に病んで夢は枯野をかけまはる」という辞世の句碑が庭園に立っている。



江戸を出発し、京や伊賀を経て、大阪に入った芭蕉は、南御堂の前の花屋仁右衛門邸に泊まり、1694年、51歳の生涯を終えている。

従って芭蕉は先ほどの青銅の灯篭や、大谷本願寺と書かれた梵鐘を見ていることになる。

この庭園には狭い枯山水の庭があり、獅子吼園と書かれた表示があったが、緑の少ない大阪のビジネス街にとって貴重な空間となっている。



1868年、明治維新の際の南御堂には、幕府を討つ薩摩軍の陣が置かれ、明治10年の西南戦争の時には、今度は皮肉にも薩摩を討つための征討総督府が置かれている。


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南御堂の境内には教如上人が建立した天満の大谷本願寺にあった「文禄五年(1596年)大谷本願寺」の銘のある梵鐘が今も大切に保存されている。



1602年になって徳川家康が、京都東六条に本山用地を寄進し、そこに東本願寺が建立されるまで、南御堂は「真宗大谷派」の総本山であったのである。



東本願寺として京都に本山が移転されてからは、難波別院(南御堂)となり、以来、西本願寺の津村別院(北御堂)と共に江戸時代を通じて大坂の商人に親しまれてきた。

1713年、松の御堂と呼ばれる大きな瓦屋根の本堂が建立され、1714年には幕府から寄進された旧大坂城の外堀の石垣を使って、南御堂の敷地の周囲が固められている。

現在でも敷地の南側に292年前の石垣を見る事が出きる。



この石垣は、今も残る大阪城の石垣と良く似ており、秀吉の造った外堀の石垣がいかに巨大であったかを知ることができる貴重な文化財となっている。

但し、昭和20年の空襲で焼けたせいで、表面には黒く焦げた跡が今も無残に残っている。

江戸時代には南北両御堂(通称=御堂さん)の近くに、近江商人などの門徒が次第に集まるようになり、大坂の商業の中心「船場」の町がこの地に発展することになる。

今でも伊藤忠商事は、南御堂のすぐ北隣に大阪本社ビルを構え、境内から北を見ると伊藤忠ビルが壁のように聳えている。



江戸時代、船場で働く商人たちは、いつかは『御堂さん』の鐘の聞こえるところで商売をしたいと商いに励んだという。

そういえば戦後の起業者達も、いつかは御堂さんのある御堂筋に面した場所に本社ビルを構えたいとビジネスに励んだと聞いたことがある。



南御堂は、昭和20年3月の大阪大空襲で消失してしまうが、その後、昭和39年には新たに復興し現在に至っている。

再建された南御堂の本堂は、鳳凰が羽を広げたような典雅壮麗な重層屋根の鎌倉様式で、御堂筋から山門の石柱を通して常に本尊が拝せるように設計されているという。




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どんよりとした梅雨の中休みのある日、昼休みの散歩を兼ねて南御堂(真宗大谷派難波別院)を訪ねてみた。



御堂筋の東側から南御堂を見ると、山門の場所に巨大な御堂会館があり、46m離れた場所から写してもカメラのフレームからはみ出してしまう。



御堂筋とはご推察の通り、大阪の中心を通る南北の道がこの南御堂の前を通るので命名されたのである。

大阪の地は1496年、本願寺第8代宗主蓮如上人の手により石山本願寺が建立されて以来の真宗ゆかりの土地である。

山門のような会館のデザイン



石山本願寺は当時「大坂坊舎」とも呼ばれていたため、1498年大坂という地名が文書に始めて登場し、蓮如は「大阪の名づけ親」であるともいわれているくらいである。

ということは、大阪(大坂)という地名が日本に登場して以来507年が経過したことになる。

ちなみに大「坂」が大「阪」となった理由は、明治になって都市名を決める際、大阪の商人から土に返る「坂」では縁起が悪いと申し出があったためと言われている。

山門(会館)を通して御堂筋を見る



1570年から10年間も石山本願寺と織田信長の争いは続いたが、最後は織田方に屈して 紀伊鷺森(鷺森本願寺)に移転し、石山本願寺の堂舎はすべて炎上してしまう。

その当時の石山本願寺は現在の大阪城の地にあったようで、大阪城の玉造門を入って左の広場には石山本願寺の跡という石碑が今も残っている。

1583年、豊臣秀吉は石山本願寺の地に大坂城の築城を開始し、城下町大坂の町制と整備にとりかかった。

本願寺は同年 紀伊鷺森から宗祖真影を奉じて、 和泉の貝塚(貝塚本願寺)に再度移転し、その後1585年 豊臣秀吉の寺地寄進を得て、大坂の天満(大谷本願寺)に4年間の放浪の末に戻ってきている。

南御堂の歴史を刻んだ石碑



1598年、大阪城は殆ど完成していたが、秀吉は天満にあった大谷本願寺の移転を教如上人に命じ、その際に現在の南御堂の地に移ってきたようである。

坐摩神社は大阪城の築城の障害となったために、1583年移転させられているので、大谷本願寺がこの地に移転した時には、すでに南御堂のすぐ裏に今と同じように坐摩神社があったことになる。


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モード和食 笹 南堀江店は立花通りの入り口、ダイニングテラスビルの4階にある和食レストランである。

この店は平成14年6月オープンしているので、今年で丁度4周年となる。



オーナーシェフは和田裕城氏。

昭和47年生まれなので、今年34歳という若さである。

和田氏は平成12年、28歳で有限会社 笹川を設立、その年最初のレストラン「 庵 阿倍野HOOP店 」をオープンさせている。

次いで平成14年モード和食 笹 南堀江店、、平成15年「 庵 星ヶ丘テラス店 」、平成16年「 モード和食 笹 ハービス エント店 」と次々に店をオープンしているやり手である。



店のコンセプトは非日常でありながら、くつろげる大人のための空間ということらしい。

確かにモード和食 笹 南堀江店のインテリアは他の店には無いデザインである。



ちなみに『 モード和食 』は現在商標登録を申請中とのこと。



4階のエレベーターホールが即、店の入り口で目の前に小さな噴水池がある。



左側は立花通りの南側のビルを眺めることんできる窓があり、窓の手前には焼き物が展示してあった。



ここの昼食バイキングは一人1500円とかなりリーズナブルで、モード和食のバイキング料理は円形の料理ブースに置いてあり、魚料理が多いのが特徴である。



この日摂った料理は鯛のカルパッチョ。マグロのカマ焼き、スモークサーモン、エビフライ、飯ダコのサラダ、チキンの南蛮揚げ、ローストビーフ、チキンコロッケ、ブロッコリーの煮物、ツナマヨネーズのサラダ、ピラフ、味噌汁であった。

但し、この店の最大の欠点は料理が出てくるサイクルが遅く、料理ブースのサービス皿が空っぽになる状態が長いことである。



バイキングに欠かせないスイーツは4種類あり、中でもマンゴーケーキが美味かった。

ホットコーヒーが入り口に近い場所にあるサーバーに置いてあるが、このコーヒーサーバーも空っぽ状態が長いのが難点である。

モード和食 笹 南堀江店へのROSSの評価 (☆☆☆☆☆が最高)

場所     ☆☆
インテリア  ☆☆☆☆
サービス   ☆
味      ☆☆☆
ボリューム  ☆
値段     ☆☆☆
トイレ    ☆☆

総合評価   ☆☆






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梅雨の晴れ間のある日、会社の昼休みに近所の御霊神社まで散歩してみた。

御霊神社という名前の神社は日本各地に沢山あるらしいが、大阪の御霊神社は現在地から西側、今の靱公園近くの入り江に西暦850年頃からあった圓神祠が改称された神社である。



そのせいか境内には「うつぼ」と大きく書かれた石碑がある。



豊臣秀吉の大阪居城と共に諸大名から寄進が相次ぎ、1594年津和野藩主亀井候が邸地を割いてこの土地を寄進したので現在地に移ってきたらしい。

御堂筋から南北の筋を1つ西に入ったところにあるのですこし判り難いが、この辺りの御堂筋の西側には駐車場があるので、かろうじて鳥居をみることができる。



圓神祠は、1660年代になってから名称を御霊神社と改称し、1753年には正一位の神階を授けられている。



ということは、この地で御霊神社となってからすでに346年が経過していることになる。

江戸時代には 御霊神社を中心とした平野町淡路町一帯は、市内の五大商店街の一つに数えられ、北船場の服装雑貨や家庭用品の提供場所であり、また文楽はじめ多くの文化生活の中枢として繁栄をきわめた。

しかし今の平野町淡路町は、オフィスビルが林立する大阪のビジネスの中心地となっている。

境内から見た鳥居の向こうは御堂筋に面したビルの裏側である。



神社の裏門からの通路



船場の商家はもとより山片蟠桃、緒方洪庵、福沢諭吉はじめ懐徳堂や適塾の塾生も参詣したと言われている。

鳥居の両側の石灯篭には、嘉永2年(1849年)に寄進されたことが彫り込まれており、この年、緒方洪庵は39歳であったので恐らくこの灯篭を見ているであろう。



大阪で生まれて中津で育った福沢諭吉は、1856年、21歳でここからほど近い緒方洪庵の適塾に入っているので、彼も建立されて7年後のこの石灯籠を見ているはずである。

慶応大学出身者の皆さんは、創設者福沢諭吉にゆかりのこの神社にぜひお参り頂きたいものである。

又、境内には明治十七年、1884年から大正十五年まで難波神社に対抗して人形浄瑠璃、御霊文楽座があり当時は相当賑やかであったらしい。

今の境内にはその痕跡は何も無いが、拝殿の前には夏祭りの茅の輪が設置されている。



茅の輪くぐりとは、正月から六月までの半年間の罪穢(つみけがれ)を茅の輪をくぐることにより祓う行事のことである。

拝殿の右には松之木神社という小さな神社もあり、今も地元の人の信仰を集めているようである。





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