緒方洪庵は1810年に備中(岡山県岡山市)・足守藩士の子に生まれ、16歳の頃父の転勤に伴い大坂に出てきて翌年、 中天游の塾「思々斎塾」で西洋医学の基礎を学んでいる。
その後、江戸と長崎へ遊学後、大坂へ戻り大塩平八郎の乱の翌年、 天保 9年1838年に 大坂・ 船場瓦町で医師として開業すると同時に蘭学の私塾、適塾を開いている。
適塾は正式には適々斎塾というが、これは緒方洪庵の号である「適々斎」にちなんだものである。
開業2年目には早くも 浪花医者番付 で東の前頭4枚目になり、ついで最高位の大関に番付けされている。
名声を聞いて次第に適塾への入門者が増え、手狭となったため、7年後の 弘化2年(1845年)に現在の 大阪市中央区北浜3丁目の商家を購入し移転している。
この商家は1792年寛政の船場大火の直後に建設されたもので、その建物は幸いにも戦災にも耐えて、今も殆ど昔のままで残っているが、全国唯一の蘭学塾の建物である。
緒方洪庵が医師であったので、医学学校を連想するかも知れないが、蘭学塾というのは、当時ヨーロッパ先進諸国の中で唯一貿易を許されていたオランダの言語を学ぶ、言わばオランダ語学科専門学校のことである。
緒方洪庵は医学でなくヨーロッパの近代化した科学技術や社会制度をオランダ語を通じて若い塾生に教えようとしていたのである。
今も残る緒方洪庵を記念するビル
したがって入塾した塾生には医師の子弟が多いが、塾を出た後の塾生の多くは洪庵の意思を継いで日本の近代化のためにその人生を捧げている。
商家として使われていた1階が教室、2階を塾生の部屋とし、洪庵一家は裏に増築した平屋に住んだらしい。
江戸に召し出されるまでの約20年間、ここを根拠として、日本最初の病理学書「病学通論」、コレラの病理・治療・予防法を書いた「虎狼痢治準」などを著わしている。
又道修町に 除痘館を設けて種痘事業の発展に尽くすなど医学の面で多大の業績を残している。
緒方ビルに展示された除痘館のプレート
当時、緒方洪庵に許可されたその種痘館の免許が今も展示してあった。
その後、緒方洪庵は文久2年(1862年)、徳川家茂の奥医師兼西洋医学所頭取に任命されたために、断りきれずに江戸へ出ている。
虫が知らせたのか「医学のため、子孫のため、討死の覚悟」と言い残して大坂を離れているが、言葉通り翌年54歳で惜しくも急死している。
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