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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



梅雨の晴れた蒸し暑い一日、昼休みに北御堂を訪ねてみたら、北御堂と御堂筋という由緒書きが掲示されている。



その記事とNETでの調査によれば大阪の地にあった石山本願寺は、信長との石山合戦の後、4年間大阪を離れたが、1585年、秀吉から天満の地を与えられて大谷本願寺を建立している。

豊臣秀吉は本願寺に好意的で、1591年には現在の京都七条堀川(現在の西本願寺の場所)に広大な土地を寄進したので顕如と教如父子は京都に移っている。

1592年、顕如が没し、長男教如が本願寺第12代を継承したが、秀吉は顕如の妻如春尼の願いをいれて本願寺12世を三男准如に譲るように勧告したために、顕如を継いでわずか11ヶ月で教如は隠居、三男准如が継ぐことになる。

1597年、秀吉は本願寺のために京都の本山用地だけでなく、天満本願寺の移転先として津村御坊(北御堂)と南御堂の地を与え、南御堂は隠居した12世教如の系統が引き継ぐことになる。



関が原の合戦の前、新12世准如は石田三成に止められて家康への陣中見舞いを果たせなかったが、隠居させられた教如は関東まで足を伸ばし、家康を陣中見舞いしたらしい。

そのせいか関が原の後、家康は教如に対して京都烏丸七条に広大な東本願寺の土地を与え、ここに東西本願寺が並立することになる。

石山本願寺以来、隠然たる宗教勢力を保持していた本願寺のパワーを分断する家康独特の政策であろう。



それ以来、徳川家に贔屓にされた教如の東本願寺と、秀吉の指示よって准如の相続を決めた西本願寺は今日まで別々の道を歩んでいる。

明治後期から大正にかけて西域探検のためインドに渡り、仏蹟の発掘調査に当たった大谷探検隊の隊長、大谷光瑞は西本願寺の第22世門主で法名は鏡如という。

大谷光瑞は海外伝道も積極的に進め、1913年に孫文と会見したのを機に、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任するという行動的な性格を持っていた。

又、神戸の岡本に二楽荘を建てて探検収集品の公開展示・整理の他、英才教育のための学校、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置したらしい。



二楽荘以外に今の須磨離宮公園、上海や台湾の高雄などにも別荘を持つという散財のためか、巨額の負債が発生し、その整理と教団の疑獄事件のために1914年に門主を辞任して大連に隠退している。

その後、太平洋戦争中は近衞文麿内閣で参議、小磯國昭・米内光政協力内閣で顧問を勤めたが1945年にソ連に抑留、1947年帰国の翌年波乱万丈の生涯を閉じている。

北御堂の2階には大谷光瑞資料室と表示された部屋がある。



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