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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



東寺は794年、桓武天皇が平安京遷都をした際に、国家鎮護のため羅城門の左右に築かれた東西両寺の一つである。



従って、東寺がこの地にできてから1211年という永い時間が経過していることになる。

国宝 金堂



この2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。

このうち東寺は823年に弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄え、中世以降では弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになっている。

講堂



何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門、金堂、講堂、食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままであるらしい。

なお、羅城門を挟んで対称的な位置にあった西寺は早い時期に衰退し、現在は京都市南区唐橋の児童公園内に「史跡西寺跡」の碑があり、付近に「西寺」の寺名のみを継いだ小寺院が残るのみという。

食堂(じきどう)



東寺には「教王護国寺」という名称もあるが、「教王」とは「王を教化する」との意味であり、「教王護国寺」という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められているらしい。

慶賀門にある教王護国寺の石碑



宗教法人としての東寺の正式名称は「教王護国寺」であり、五重塔の国宝指定際の名称は「教王護国寺五重塔」となっている。



しかし、平安時代から今日に至るまで、この寺はもっぱら「東寺」と称され、「教王護国寺」という名称は実際にはほとんど使われてこなかったようである。

宝蔵の前のハス池



「教王護国寺」という名称は平安時代の記録類にも一切見えず、この寺号の文献上の初出は空海死後405年も経った1240年になってからである。



その後1308年に書かれた後宇多天皇直筆の国宝、東寺興隆条々事書や、南北朝時代に成立した東寺の正式の記録書である「東宝記」にも明確に「東寺」と表記されているので、この寺はやはり東寺と呼ぶのが正しいのであろう。


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