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真言宗の開祖の空海は804年、30歳の時に遣唐使として唐に渡り806年、真言密教に関する大量の文献資料を持って帰国、大宰府に滞在している。



大宰府では持ち帰った密教文献を体系的に整理していたようであるが、最澄の尽力・支援で809年には入京し神護寺に入っている。

空海が持ち帰った〈密教〉の重要さをこの時点で正確に評価しえたのは、最澄のみであった。

以前、乙訓寺を訪ねた時のブログにも書いたが、空海は811年から812年までは乙訓寺の別当を務めていて、この時期最澄が長岡京市にある乙訓寺まで密教の教えを請いに弟子としての礼を取って訪ねている。



二人は新しい時代の仏教を背負う者として、10年くらい師弟としての交流関係を持っていたらしい。

空海は816年に修禅の道場として高野山の下賜を請い、下賜が実現した817年弟子を派遣して高野山の開創に着手、818年には、空海自身が高野山にのぼり翌年まで滞在している。

823年、空海49歳の時に今度は東寺を賜り、真言密教の道場としたので、高野山の開設の方が6年早かったことになる。



空海は828年 東寺の東側に庶民の為の教育施設である「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設しているが、1178年も前に庶民の教育の施設があったとは驚きである。

その後835年、高野山にて62歳で入定、すなわち永遠の禅定に入ったとされている。

空海の死後から86年後、921年になって東寺の長者観賢の奏上により、醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が贈られた。

東寺の灌頂院



歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名におよぶが、一般的に大師といえばほとんどの場合弘法大師を指すことが多い。

真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬し、その入定は死ではなく高野山奥の院御廟で空海は今も生き続けていると信じられ、「南無大師遍照金剛」の称呼によって宗祖への崇敬を日夜確認しているという。


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