宗教の主たる役割とは、この世にあって悩み苦しむ人々の魂を救うところにありました。如何に汚れた世の中であり、自らが悲惨な境遇に置かれていたとしても、神や仏の御心に従って誠実に清く正しく生きていれば、死してその魂は必ずや天国や極楽に迎え入れられるとする信念が、人々の心に安らぎと救いを与えてきたとも言えましょう。また、逆に、この世で栄華を極めたり、支配者として君臨した人でも、神や仏の教えに背き、悪事に手を染めたり、他者の命を粗末にしたり、それが何であれ、他者に属するものを奪い取るような人は、地獄に落ちるとされたのです。古今東西を問わず、人類が共通して天国と地獄という存在を想定するようになったのか、これもまことに不思議なことなのですが、ここで注目すべきことは、宗教では、天国や極楽浄土のみならず、地獄という存在が、善悪の区別と一致する形で観念されていることです。
一般的には、天界とは、善人の魂が美しい光景の中で穏やかに心地よく過ごすところとされ、地獄は、天界とは逆に悪人がその罪や邪悪な心の故に責め苦に遭う場として説かれています。こうした地獄の一般的なイメージは人々を震え上がらせるのに十分なのですが、その一方で、古代エジプトのように、死後の裁きにおける、自己の魂の消滅や喪失宣告として捉えられている場合もあります。古代エジプトにおいて墓場に埋納された『死者の書』では、死後、人々はオシリスの前で審判に付され、死者の心臓を天秤にかけて一枚の白い羽と釣り合えばアアル(天国)に上ることができ、反対に重い場合、即ち、道徳規範に反した罪がある場合には、アメミットという名の怪獣に心臓を食べられてしまい、同時に魂も消滅してしまうと記されています。
魂が永遠の存在であるならば、その消滅ほど恐ろしいものはなく、地獄絵に描かれている地獄そのものよりも、恐怖すべき罰であったのかも知れません。自分自身が消滅するのですから。もっとも、生前の罪に対する死後に受ける罰としての魂消滅論に近い考え方は、キリスト教にあっても見受けられます。それは、‘悪魔に魂を売る’という行為です。このテーマは、ゲーテの『ファウスト』でお馴染みともなったのですが、自己の利益のために道徳規範に反する行為を行なった者は、この世で自らの欲望や願望を実現することはできても、その魂は悪魔の所有となり、地獄に連れて行かれるというものです。つまり、‘魂を売る’という行為は、自らの魂を失うことを意味するのです。
死後の世界については誰もが証明できない不可知な領域ではあるものの、宗教というものが、人々のそれ自身の魂に安寧をもたらす役割を担っているとしますと、ここで、一つの疑問が生じてきます。それは、カルト的な新興宗教への入信とは、悪魔に魂を売る行為なのではないか、というものです。元統一教会であれ、創価学会であれ、報じられるところに依りますと、その信者の人々は、人間の一人に過ぎないはずの教祖に心酔し、教団の指令に従って行動しているようです。その組織的行動は、選挙における投票行動、特定の候補者への支援活動、誘導的な消費行動、イベント等への動員、同調圧力の醸成など、様々な分野に及んでいます。理性や良心に照らして自らの意思で行動するのではなく、組織の命じるままに動いているのです。この‘組織的行動力’が、組織票を欲する政党や政治家に利用される要因なのですが、新興宗教団体は、信者という、魂、否、自己を失った人々を、現代にあって大量に出現させているとも言えましょう。全体の中に埋没し、‘自分’というものを持たない人々は、それ故に組織されやすく、政治的にも利用されやすいのです。
個々人を天国への導きとなるはずの宗教が、組織のための組織となって自己喪失という地獄への道となりかねない現状を、新興宗教に入信した人々は、どのように考えているのでしょうか。宗教ビジネスが蔓延るように、利権に目がくらんで現世利益のために入信している人々は、まさしく、自らの魂を売っているようにも見えます。しかも、新興宗教団体には、人類支配のために世界権力によって設立された‘実行部隊’であり、日本国を含め、国家体制を全体主義や権威主義体制に追い込む装置であるとする疑いがあります(世界権力は、目指す目的と到達する結果が逆となるメビウスの輪作戦が得意であり、教団とは、これらの体制のミニ版でもある・・・)。宗教が人々の魂を救い、天界に導くのではなく、その消滅を意味するならば、新興宗教団体の存在は(設立の新旧に拘わらず、政治あるいは経済的な目的のために組織的行動する教団も同類・・・)、現世にも死後にも地獄をもたらすという意味において、宗教の逆機能ではないかと思うのです。
一般的には、天界とは、善人の魂が美しい光景の中で穏やかに心地よく過ごすところとされ、地獄は、天界とは逆に悪人がその罪や邪悪な心の故に責め苦に遭う場として説かれています。こうした地獄の一般的なイメージは人々を震え上がらせるのに十分なのですが、その一方で、古代エジプトのように、死後の裁きにおける、自己の魂の消滅や喪失宣告として捉えられている場合もあります。古代エジプトにおいて墓場に埋納された『死者の書』では、死後、人々はオシリスの前で審判に付され、死者の心臓を天秤にかけて一枚の白い羽と釣り合えばアアル(天国)に上ることができ、反対に重い場合、即ち、道徳規範に反した罪がある場合には、アメミットという名の怪獣に心臓を食べられてしまい、同時に魂も消滅してしまうと記されています。
魂が永遠の存在であるならば、その消滅ほど恐ろしいものはなく、地獄絵に描かれている地獄そのものよりも、恐怖すべき罰であったのかも知れません。自分自身が消滅するのですから。もっとも、生前の罪に対する死後に受ける罰としての魂消滅論に近い考え方は、キリスト教にあっても見受けられます。それは、‘悪魔に魂を売る’という行為です。このテーマは、ゲーテの『ファウスト』でお馴染みともなったのですが、自己の利益のために道徳規範に反する行為を行なった者は、この世で自らの欲望や願望を実現することはできても、その魂は悪魔の所有となり、地獄に連れて行かれるというものです。つまり、‘魂を売る’という行為は、自らの魂を失うことを意味するのです。
死後の世界については誰もが証明できない不可知な領域ではあるものの、宗教というものが、人々のそれ自身の魂に安寧をもたらす役割を担っているとしますと、ここで、一つの疑問が生じてきます。それは、カルト的な新興宗教への入信とは、悪魔に魂を売る行為なのではないか、というものです。元統一教会であれ、創価学会であれ、報じられるところに依りますと、その信者の人々は、人間の一人に過ぎないはずの教祖に心酔し、教団の指令に従って行動しているようです。その組織的行動は、選挙における投票行動、特定の候補者への支援活動、誘導的な消費行動、イベント等への動員、同調圧力の醸成など、様々な分野に及んでいます。理性や良心に照らして自らの意思で行動するのではなく、組織の命じるままに動いているのです。この‘組織的行動力’が、組織票を欲する政党や政治家に利用される要因なのですが、新興宗教団体は、信者という、魂、否、自己を失った人々を、現代にあって大量に出現させているとも言えましょう。全体の中に埋没し、‘自分’というものを持たない人々は、それ故に組織されやすく、政治的にも利用されやすいのです。
個々人を天国への導きとなるはずの宗教が、組織のための組織となって自己喪失という地獄への道となりかねない現状を、新興宗教に入信した人々は、どのように考えているのでしょうか。宗教ビジネスが蔓延るように、利権に目がくらんで現世利益のために入信している人々は、まさしく、自らの魂を売っているようにも見えます。しかも、新興宗教団体には、人類支配のために世界権力によって設立された‘実行部隊’であり、日本国を含め、国家体制を全体主義や権威主義体制に追い込む装置であるとする疑いがあります(世界権力は、目指す目的と到達する結果が逆となるメビウスの輪作戦が得意であり、教団とは、これらの体制のミニ版でもある・・・)。宗教が人々の魂を救い、天界に導くのではなく、その消滅を意味するならば、新興宗教団体の存在は(設立の新旧に拘わらず、政治あるいは経済的な目的のために組織的行動する教団も同類・・・)、現世にも死後にも地獄をもたらすという意味において、宗教の逆機能ではないかと思うのです。