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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

本当は怖いコスモポリタニズム

2025年04月17日 12時15分28秒 | 社会
 コスモポリタニズム、あるいは、‘世界市民主義’という言葉は、純真な人々を理想郷に誘うような誘引力があります。人種、民族、宗教等の違いがなくなり、地理的にも人々を隔てる国境も消えた彼方に現れる、‘人類が一つに融合された世界’とも言えましょう。

 しかしながら、コスモポリタニズムは、本当に、全ての人類が共に到達すべき理想郷なのでしょうか。古典的な書物を読みますと、時にして現代人との認識の違いに‘はっとさせられること’があります。本ブログでしばしば紹介してきたモンテスキューの『法の精神』もその一つです。同書は、世界各地の気候条件や地理的条件などによって生じる社会や政治文化等の違いを論じる比較政治学の先駆的な書でもあるのですが、この中に、コスモポリタニズムに関する記述があります。そしてそれは、今日の認識とは些か違いがあるのです。

 上述したように、現代の人々は、コスモポリタニズムを平和主義の思想と見なしています。‘世界が一つ’であれば、戦争と言った国家間の争いも起きませんし、‘人類が一つ’であれば、人種差別や民族差別なども起きるはずもありません。人類を悩ませてきた問題の幾つかが消え去るのですから、これを理想郷とみなす根拠がないわけではありません。しかしながら、コスモポリタニズムの起源がヘレニズム時代におけるアレキサンダー大王の征服事業の一環であった点に思い至りますと、その評価も自ずと変わってきます。

 古今東西を問わず、征服者とは、被征服民を虐殺したり、自らの属する支配民族の言語、慣習、宗教などを押しつけ、その固有性を抹消しようとするものです。女真族が支配者となった清朝が漢人に弁髪を強要し、植民地主義の時代にあって本国の言語が植民地の公用語とされたように(この間、多くの言語が死語に・・・)、こうした政策は、20世紀まで続いてきました。征服者による被征服民の抹殺や強制同化が一般的であったからこそ、被征服民の固有性を認め、両者の融和を図ろうとしたアレキサンダー大王の政策が、後世まで語り伝えられるほどに画期的であったことになりましょう。

 勝者の敗者に対する寛容の精神が、コスモポリタニズムが賞賛されてきた理由であるとしますと、今日、無批判に同思想を礼賛することには重大なリスクが伴います。何故ならば、この思想は、軍事強国による異民族の‘征服’を前提としているからです。今日、コスモポリタニズムを信奉している人々は、どこかの国、あるいは、何れかのパワーによって征服されたいと思っているのでしょうか。何らかの力が働かなければ、政治・行政・法制度も含めて組織的に‘世界を一つ’にしたり、文化、価値観、慣習等において‘人類を一つ’にすることはできないはずです。たとえ、敗者に対して寛容であったとしても、今日の国際社会では、征服、即ち、侵略は、国際法上の犯罪行為です。犯罪行為を前提としたのでは、いかなる美徳も美徳ではなくなります。

 18世紀に生きたモンテスキューは、コスモポリタニズムが、征服事業における被征服者側に対する融和政策の一環であることを的確に認識していました。ところが、今日の人々は、この大前提を忘却、あるいは、見落としているように思えます(あるいは、意図的に無視・・・)。この結果、マネー・パワーをもって世界や人類を一つにして支配しようとするグローバリズムの侵略性も、コスモポリタニズムという美名によって糊塗され、見えにくくなっているとも言えましょう(しかも画一化された近未来の‘グローバル・カルチャー’とは、昆虫食の普及促進や近年のオリンピックや万博の開会式にも見られるように、倒錯的でサタニックなのでは・・・)。そして、グローバリズムをもって不可逆的な時代の流れと見なす人々も、既にグローバリストの術策に嵌まっているのかも知れません。共産革命のようにユートピアを目指したつもりがディストピアにたどり着いてしまうこともあり得るのですから、‘理想郷’というものには、常に警戒すべきではないかと思うのです。

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