万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

疑われる理由を考えるべき-疑惑提起への適切な対応

2024年06月10日 10時36分53秒 | 社会
 一般の社会にあっても、疑いを提起しただけなのにも拘わらず、感情的な拒絶反応が返ってくることがあります。その大半は、‘疑われるのは侮辱である’、‘私を信じないのですか’、あるいは、‘このような疑いを持つとは、あなたを見損なった’といった反応であり、悪いのは、一方的に‘疑った側’ということにされます。一方が疑いを投げかけた途端、対立関係、もしくは、あたかも“加害者”と“被害者”があるかのような関係に転じてしまい、これまで良好であった人間関係が完全に崩壊することも珍しくはないのです。それでは、疑いの提起は、疑う側のみに非があるのでしょうか。この問題、所謂‘陰謀論’による疑惑封じにも通じています。

 確かに、大抵は何らかの‘よろしからぬこと’をめぐるものなのですが、自らが他者から疑われることは、不愉快なことです。ですから、疑惑の提起が、提起された側の負の感情を引き出すことは理解に難くはありません。とりわけ、それが、根も葉もない事実無根の事柄であれば、なおさらのことでしょう。また、疑う側も、疑惑の提起に伴うリスクを認識しています。日本社会は信頼社会とも称されていますので、不信感の表明は関係性を壊しかねないと共に、提起した疑惑が間違っていれば、自らの信頼性をも損ないかねないからです。それ故に、疑いの提起に慎重になるのですが、この‘疑う’という心の働きは、事柄の重要性に差こそあれ、誰もが日常的に行なう精神活動であり、自らの安全を護るためにも不可欠とされます。このため、懐疑を否定する言動には、幾つかの問題点があるように思えます。

 まず、その疑いが事実であった場合です。この場合、疑われた側が、素直に事実として認めるとは限りません。むしろ、他者からの疑いの提起は、事実を突きつけられたことでもありますので、それが‘よろしからぬこと’であれば、保身的な動機からその事実を否認することでしょう。さらには、事実そのものの否定のみならず、‘疑われたという事実’までも消すために、疑うという行為そのものを否定しようとするかもしれません。また、‘攻撃は最大の防御手段’とも言われますように、疑いを提起した側を非難し、責め立てるという反応もありましょう。何れにしましても、事実であった場合の方が、余程、激しい否定的な反応が返ってくるのです。

 それでは、事実ではない場合はどうでしょうか。この場合は、疑惑の提起を受けた側がそれを否定するのは当然の反応です。むしろ、最初の反応は、怒りよりも、思いもよらぬ事を聞かされた驚きかも知れません。そして、一端、心が冷静さを取り戻しますと、何故、こうした自らに対する疑惑が生じたのか、その原因や疑うに至るプロセスを知ろうとする人の方が多いのではないでしょうか。‘誰から、何処で、何時、聞いたのですか’など、疑問点を聞き返すなど、疑惑の根拠を尋ねるかもしれません。そして、詳しい内容を知った上、これらの情報を否定し、同疑惑を払拭しようとすることでしょう。この証明のために、あらゆる証拠を示そうとするかもしれません。この結果として、疑惑を提起された側の怒りの対象は、提起した本人ではなく、疑惑を呼ぶような虚偽の発言をしたり、偽情報を発信した第三者に向かいます。あるいは、疑惑の原因が、‘誤解’を生じさせるに足る本人の言動や当時の状況にあるのであれば、これらの誤解が解ければ同時に疑惑も消え去るのです。疑惑が生じた理由やプロセスが明らかとなれば、疑惑の提起を受けた側も、同疑惑には、それなりの合理的な根拠があることを理解することでしょう。疑惑を抱くに十分な根拠が存在することが分かれば、無碍には疑惑を提起した人を批判できなくもなります。

 以上に述べたように、反射的な否定反応は、事実であった場合でも虚偽であった場合でもともに起きますので、疑惑を提起した側にとりましては、最初は、どちらであるのか判然としません。しかしながら、その後に続く反応によっては、それが、事実であるのか事実ではないのか、大凡は判別できるようになるかも知れません。後者の場合には、疑惑を提起された側も、自らの潔白のために事実を明らかにしようとするからです。事実ではないことが証明されれば、疑惑が晴れるのです。その一方で、一方的に疑惑の提起を拒絶したり、封じようたり、あるいは、事実を解明しようとしない場合には、限りなく怪しいと言うことになりましょう(疑惑は事実であった・・・)。

 今日、信頼社会とされてきた日本社会にあって、むしろ、信頼性の尊重が悪用されてしまうケースが目立つようになりました。疑うことが不道徳と見なされる嫌いもありましたが、内心において疑いながら、それを表に出さずに現状を黙認していますと、本人のみならず、社会全体の安全性が損なわれる事例も少なくありません。民間レベルのみならず、国家レベルでも、国民が政府を信頼した結果、同調圧力の下でワクチン禍が拡大してしまいました。そして、‘陰謀論’による懐疑心や言論の封殺をはじめ、政府やマスメディア等による一方的かつ全面的に否定しようとする態度は、指摘された疑惑が事実である可能性を否が応でも高めているのです。

 それでは、疑惑が提起された場合、どのように対応すべきなのでしょうか。最も適切な対応とは、懐疑心を正当かつ自然な精神活動とした上で、それが事実であろうとなかろうと、あらゆる疑惑に対しては、感情的に反発するのではなく、事実解明を第一とすべきと言うことになりましょう。同方法を解決の基本原則としますと、陰謀論であれ、何であれ、他者の懐疑心を否定したり、事実解明を拒むことは、自ら事実であることを認めたと見なされても致し方ないのではないかと思うのです。

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