『白雪姫』と言えば、19世紀にグリム兄弟がドイツに伝わる昔話やおとぎ話を収集したグリム童話の中でも、特によく知られている代表的な作品です。今日に至るまで、かわいらしい挿絵が描かれている絵本のみならず、映画化やアニメ化されて全世界の人々に親しまれてきました。ところが、今般、ディズニー社が実写版のミュージカル映画を作成したところ、思わぬ物議を醸すこととなりました。
グリム童話は、1812年、即ち、ドイツ諸国がナポレオン体制の頸木を脱し、ドイツ・ロマン主義運動が高まりを見せていた時期に出版されています。同運動は、後年のドイツ統一へと繋がってゆくのですが、ドイツという極めて政治性を帯びた民族性が強く意識されながらも全世界に広く読まれるようになったのは、同作品の中に、人類共通の普遍的な要素が含まれていたからなのでしょう。否、‘遠い昔’のみならず、‘遠い国’のメルヘンであるからこそ、他の諸国の人々に‘夢’を与えたのかも知れません。時空における現実との遊離感や距離感が、人々のロマンティズムを掻き立て、おとぎの世界に誘ってきたのでしょう。そして、悲劇的な境遇や苦難を乗り越えてハッピーエンドで終わる、あるいは、悪者が懲らしめられる勧善懲悪を基本とするストーリー展開が、ドイツ人ではなくとも多くの人々の共感を呼び、安心感を与えたことも、グリム童話が、世界的な‘ベストセラー’となった理由とも考えられます。
本来であれば、グリム童話は、‘実際にはこの世には存在しない’という前提があってこそ、誰もが楽しめる作品であったとも言えましょう。ところが、今般の映画化された『白雪姫』は、実写化に伴って、非現実的な物語の世界に‘現実感’を与えてしまったようなのです(なお、本記事は、実写版を視聴したわけではなく、同映画に対する批評記事から推測して書いています。悪しからず、お許しを)。
実写映画『白雪姫』については、その批判点は一つではありません。白雪姫を演じたレイチェル・ゼグラーの個人的な政治的なスタンスをはじめ、様々な方面から批判や意見が寄せられています。その中の一つが、現代リベラリズムの問題としてしばしば指摘されているポリティカル・コレクトネスを中世のおとぎ話に持ち込んでいるというものです。確かに、今般の作品は、原作とは著しく違っています。白雪姫の命名の理由を変えてまで‘雪のように白く’はない白雪姫を登場させ、その人物像も、人々が描く穏やかで優美なプリンセスではありません。自我の強い積極的な活動家であり、将来、即位した際には、リーダシップの発揮が予測されるタイプなのです。そして極めつきは、‘白馬の王子様’が、実写版では、何と、山賊の青年というのです。
最後は、同青年が白雪姫に感化されて‘改心’するという、現代風のハッピーエンドで幕となるようなのですが、同ストーリーの展開、否、原作の改竄に‘違和感’を抱く人は少なくないことでしょう。そして、この違和感は、同作品が、現代の価値観をおとぎ話に持つ込むことで、逆におとぎ話にリアリティーを与え、現実に引き入れてしまったところに起因しているのかも知れません。何故ならば、自ずと今日の王族や皇族の現状と重なってしまうからです。
もちろん、今日の王族や皇族には、君主の座にあって国家を治める政治的な権力はありません。しかしながら、イギリスや日本国をはじめ幾つかの諸国では、立憲主義の下で‘世襲君主’の形だけは維持しており、現代にあっていわば過去の世界を残していると言えましょう。そして、今日の王室・皇室報道に見られるように、王族や皇族のパーソナルな側面や活動に関心が向けられており、実写版白雪姫と共通するのです。婚姻関係を見ましても、‘山賊’とまでは行かないまでも、マフィアなどの犯罪組織との繋がりや品位に欠ける人物でも王族や皇族の一員になることができるのです。
過去に舞台設定された空想の世界がリアリティーをもって今日にその姿を現わすとき、それは、違和感をも越えて現実的な脅威となり得ることを意味します(現代の価値を過去に持ち込んだつもりが、逆に、過去の問題が現代に持ち込まれてしまう・・・)。それが善意であったとしても、個人的な意思をもってリーダーシップを発揮する王族や皇族は、民主主義を損ないかねませんし(グローバリストが望む独裁やパーソナル・カルトの容認に・・・)、プリンセスやプリンスが気に入りさえすれば、配偶者は犯罪者であれ何であれ誰でもよい、とする価値観を押しつけられているようにも感じられるからです。実のところ、多くの人々が皇室や皇室に対して抱いている疑問を、同映画がそれとなく描き込んでいるとしますと、これは、まさに現状に対する風刺となりましょう。果たして、ディズニー社の意図はどこにあったのか、興味深いところなのです。