万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

皇族の世俗的上昇志向―地位と血統との不一致

2024年08月29日 11時50分32秒 | 日本政治
 皇族の進学問題が波紋を広げた理由は、それが、日本の大学の頂点とも言える東京大学を入学目標に定めていることにもあります。何故ならば、この目標設定、並びに、同校入学に向けた様々な作戦は、並々ならぬ世俗的な上昇志向を示しているからです。

 今日に至るまで、皇族の存在は、『日本書紀』や『古事記』に記されている日本国の建国神話に支えられております。世俗の世界にありながらも、神々の世界から天下った神の子孫とする位置づけであり、市井の人々らしますと‘雲の上の人々’であり続けたのです。こうした天皇は神々の子孫とする観念は、近現代の遺伝学のみならず、敗戦を機に発せられた昭和天皇による「人間宣言」によっても否定されることになったのですが、それでも暫くの間は、国民の中にあって皇族を一般の人々とは異なる神聖なる血筋の人々とする意識は残ったのです。

 実のところ、記紀神話なくして皇族の権威も保ち得ないことは偽らざる真実です。このことは、逆の視点から見ますと、神聖なる血統、即ち、神武天皇に遡る皇統を全く継いでいない、あるいは、一般の国民と同程度にしか皇統の遺伝子を持たないならば、国民が、天皇や皇族を敬う理由も根拠も存在しないことを意味します。天皇や皇族という法律上の地位はあっても、同地位にある人々は、いたって普通の人々であり、世襲制度による出生や婚姻等によって偶然にその立場にある人々に過ぎなくなるのですから。言い換えますと、地位と血統が一致せず、両者が分離するのであり、前者は法律上の地位として権威を纏うことはできても、後者は必ずしも権威とはなり得ず、一般の国民にとりましては‘無関係な他人’ともなりかねないのです。

 そして、こうした現代における地位と血統の不一致、あるいは、分離は、後者が前者の伝統的な天皇の権威を否定するという、由々しき自己否定を伴う自己分裂の問題をも必然的に人々に投げかけることとなります。古くは『魏志倭人伝』に記された卑弥呼とその弟の難升米の関係に見られるように、祭政二重構造が一般的であった日本国にあって、天皇は、神話に由来する権威だけは維持してきた歴史があります。このことは、人々が、天皇に対して世俗の権力とは別次元の能力、即ち、一般の人々が持ち得ない超自然的な能力を求めたことを意味します。それは、天神地祇に祈願して自然災害や禍を鎮める力であり、戦争を勝利に導く祈り力でもあったのでしょう。天皇の権威にとりまして不可欠の成立要件こそ、神秘性を纏った神に連なる皇統に他ならなかったのです。否、現実にあって超自然的なパワーを発揮せずとも、人々が、神々の子孫である天皇にはそのような力が備わっていると‘信じる’ことが、権威の源泉となり得たのです。

 しかしながら、地位と血統が分離し、皇族の皇統が薄れる、あるいは、失われますと、人々は、もはや天皇に対して伝統的な役割を期待し得なくなります。今日の日本国憲法では、天皇を国家並びに国民の統合の象徴と定めていますが、統合の役割も、伝統的天皇観に基づく権威の存続を前提としています。統合には、信仰に類する求心力を要するからです。ところが、現実には地位と血統が分離しており、後者の血統においては国民と然したる変わりはありません。つまり、国民に対して‘超越性を帯びた特別な血統’を主張することは、最早不可能な段階に至っているとも言えましょう。

 今般の秋篠宮家の進学問題も、地位と血統との分離による伝統的な権威喪失を、世俗の権威を手にすることによって補おうとする願望が招いた結果なのかもしれません。世俗の権威ともなりますと、当然に、一般の国民との間の獲得競争が待っています。そこで、前者の伝統的な地位に伴う特別の立場を利用し、自らに有利な方向に公的なルールを変え、制度を整えようとしたのが、今般の秋篠宮家の‘悪手’であったのでしょう。何故、‘悪手’なのかと申しますと、先ずもって、国民の多くが皇族の世俗的優越志向、否、他の国民よりも上に立ちたいとするあからさまな上昇志向を目の当たりにすることで、‘象徴天皇’の名の下で糊塗されてきた地位と血統の分離に気がついてしまうことになりました。さらに、公的な地位を自らの私欲のために利用しようとしたため、国立大学の受験という公平であるべき制度が歪められ、社会的な危機をも齎してしいます。その上、推薦入学に頼ろうとする態度が、一般受験では不合格となる可能性が高く、学力が芳しくないことをむしろ露呈してしまっているのですから、逆効果と言わざるを得ないのです。

 地位と血統との不一致あるいは分離の問題を抱える今日、天皇並びに皇族については、その存在意義を問い直すための国民的な議論を要する時期に至っているように思えるのです(つづく)。

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