”汝の敵を愛せ”は、『新約聖書』において示された最も重要なキリストの垂訓の一つです。その一方で、黙示録は、邪悪な人間に対する天罰を予言しています。それでは、聖書は、人類の敵ともいうべき邪悪な人間をも愛せと教えているのでしょうか。
この問題を一先ずは人間の一般的な心理のレベルまで引き下げて考察してみますと、”敵は愛せても、邪悪な者は愛せない”という一般論に辿りつきます。邪悪な人間とは、自己の欲望や満足のために他者を傷つけたり、利己的な目的のために他者の権利や自由を奪う者であり、邪悪な者を愛せる人とは、自虐的人間であるか、虐待される他者を見殺しにする薄情な人間ともなるからです。つまり、邪悪な者を愛することは、道徳的に褒められたものではないのです。一方、運命の徒によって敵味方に分かれることは珍しいことではなく、力が解決の主たる手段であった時代には、決闘や戦争による決着も正当な行為でした。それ故に、敵に対しても敬意が払われており、武士道や騎士道精神には、命を賭して戦う者同士の相手に対する最大限の尊重があります。こうした人間一般の心理からみますと、第一次世界大戦以降の戦争が、法の支配への過渡期であったが故に、敗戦国の犯罪行為と見なされるに至ったことは、今日まで尾を引いております。犯罪国家、すなわち邪悪な国家に認定されたら最後、敗戦国は、敬意を払われるどころか、罪を負う国家として徹底的に糾弾され、一切の名誉も剥奪されることになったからです(卑怯で残酷な国家イメージ…)。
この結果、徹底的な敗戦国バッシングは、”戦争犯罪国家に対する罰”や”愛国無罪”を名目とした新たな犯罪や違法行為を生むことにもなりました(反日政策、竹島強奪、慰安婦問題…)。そしてそれは同時に、新たに被害者となった敗戦国の国民にも、”邪悪な者は愛せない”とする感情が湧く原因となったのではないでしょうか。
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