秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

落合集落 田圃と稲穂の風景

2005年07月30日 | Weblog
この地方は急峻な山間地であり平地が
少なく、民家は山の斜面にへばり付いている。

穀物類はソバ、粟、稗、を主に作っているが
そういう中にあって米は貴重なものであり
何とか作れないかと苦労している。

むかしの古く細い生活道を歩いているとかなり
高いところに石垣を積み上げてあまり広くない
平地を作っていた場所に時折出遇う事がある。

そうゆう場所は大抵水通りが良いところである
大変な苦労をして水田を作り上げていたのだが
今ではすべて荒地と化して、昔の面影のみが
哀れである。

落合集落にも水通りの良い場所があり水田を
維持している民家があった。
うれしい事である、ご苦労が多いと思われるが
作り続けていってほしいものである。
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落合集落 石垣とソバ畑

2005年07月28日 | Weblog
江戸中期頃からの民家と石垣が残る
風景は住民の方たちの地味な努力で
続いているが、それにソバ畑もある。

秋口になるとそろそろソバの種まきが
はじまる。
奥祖谷のソバは気候の温度差が厳しく
また土地が痩せているためか生育状態が
緩やかで実が締まり肌理が細かいのが
特徴である。

里歌を口ずさみながら石臼で実を挽き
打ち立ての蕎麦を食するのが土地の方たちの
楽しみの一つでありまた他の地に居る子供や孫
親戚に送るのである。

最近 ある住民の方から集落の空き地全部に
ソバを植え、花が咲いたらさぞ綺麗だろうなあと。
ただ お年寄りが多いから土地の耕し、種まき
刈り取りがとてもじゃ出来ないと嘆いていた。

そばで聞いていた友人がそれは良いことじゃないか
集落がそばの花でいっぱい埋まったら素晴らしい
土地の耕し、種まき、採り入れはその時期、その時期に
ウーハーに手伝って貰えばいいではないかと。

その方は隣近所の者と話してみようと云っていた。
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落合集落 石積み風景

2005年07月22日 | Weblog
江戸中期頃からの石垣も年とともに
傷みが酷いところも出てくる。
原風景を残そうと住民たちは県内外の
方の手を借りて石垣の修理をした。

遠くは大阪、小松島、大学生、
「ちいおり」庵の外人さんが駆けつけて
土地の方たちと共に汗を流した。

土地の石積みベテランの方の指示で次々と
石が積み重ねられてゆく、祖谷弁と英語が
入り乱れて爆笑あり、和気藹々のうちに
石垣の修理が終わった。

このような地道な住民の方々の努力で
日本の原風景 落合集落は続いている。
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日本の原風景 落合集落

2005年07月20日 | Weblog
この地に於いて日本の原風景を色濃く
残している落合集落は江戸中期から
明治にかけて造られた民家や石垣が
多く残っている。

国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を
目指す住民は熱心に現存の風景を後世に
残そうと取り組んでいる。

落合集落の風景は対岸の中上集落の上の
林道から眺めるのが美しく感動である。
県内外から写真の愛好家がたくさん見えて
四季折節の風景を撮影している。

集落に一歩足を踏み入れて民家や石垣を
訪ね歩き、土地の方と立ち話をすれば
懐かしい日本の原風景を心ゆくまで
味わう事が出来る数少ない集落である。
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三嶺 天狗の庭

2005年07月18日 | Weblog
四国の山の中でも三嶺は自然が手付かずに
残って美しい山の一つであるが、道路、林道
事情が良くなって登山者がオーバーユースに
なって問題も出てきた。

大正14年の夏 北川淳一郎率いる松山高等学校
山岳部が剣山ー天狗塚を縦走した頃のことが
北川淳一郎の「山の話」に記述があるので引用したい。

当時 松山から汽船で菊間、菊間から国鉄で伊予三島
バスで阿波池田で泊まり。
貞光まで汽車、すぐ徒歩にかかり一宇村でテント泊
桑平から夫婦池、テント設営。

三嶺から天狗の庭の記述
「だが、私は全体の山容から云ってもその位置が剣から天狗塚
までの中央に聳えていることから云っても、これ「三嶺」が
剣山脈の盟主であることを認めざるを得ない。
頂上の岩つつじの茂生している間に三角点がある。ここから
三嶺の全容を見渡す事ができる。大きな岩が不規則に群って
いるところを初め、一切のもの、一切の佇まいが、私たちをして
高山の頂上に立っている崇高感を抱かしめる。

荒削りで、豪放だが、しかも細心で周到な叡智を以って
つくり上げられた景、それはまことに造化の無限の智と
無限の力の芸術品である。

なお 東の尾根が非常に急峻で幅が狭いのに対して
西の尾根は遥かに天狗塚まで延びている長尾根で
とてもなだらかで幅が広く緩やかだ。

私はこの殆ど前人未踏の処女峰の真価が一般に
認識されることを望んでやまない」

「三嶺から天狗塚までの間、約一里半、その中 三嶺から
次の1816m小ピークまでは素晴らしく美しい。
私は ここを「天狗の庭」と命名せずにはいられなくなる。」
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菅生風景 太郎笈と次郎笈

2005年07月16日 | Weblog
菅生家に伝わる源氏の白旗は
八幡太郎義家 自ら書記して
新羅三郎義光が小笠原義清の長男
甲斐守清光と次男信濃守次郎遠光に
手渡し、平家追討の御旗となった。

清光遠光兄弟は祖谷に入り四国の屋根
剣山を突破して土佐にまで急迫した。

急峻な剣山脈を突破した証として
剣山を太郎笈と呼び西南の峻峰を
次郎笈と称したと伝えられている。

兄 清光は多年の名家の菅生家が
絶えたのを惜しみ、自ら菅生家を
名乗ったという。
源氏の白旗は以後菅生家に伝っている。

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菅生風景2

2005年07月15日 | Weblog
数々の平家伝説をもつ東祖谷山であるが
また源氏裏面史をも蔵している。

約1300余年前天平宝字7年に菅生王が阿波守
となって阿波の国府に下向され、のちに
祖谷の里に引きこもられ豪族 菅生家が
始まり、いまの菅生の地名となって残っている。

その屋敷は菅生湿原に接して手前に大きな
松の木と赤瓦屋根の家が建っている所が
菅生家の屋敷跡と云われているそうな。
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菅生風景

2005年07月14日 | Weblog
菅生陰、、むかし菅生湿原があった所に
林道を挟んで山手に剣山円福寺がある。

剣山円福寺は剣山登山口の見の越にもあるが
菅生の剣山円福寺が本寺筋になり、後に
見の越に進出したもののようだ。

菅生剣山円福寺の祭日は旧8月17日でむかしは
踊りや相撲が夜に入っても賑やかに行われて
あちらこちらから「菅生の17夜に行かんかえ」
と声をかけていたそうな。

いまも境内に土俵が設えてあるから相撲は
行われているのであろうか。
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菅生小学校

2005年07月12日 | Weblog
祖谷川を挟んで菅生小学校が建っている
本校舎は鉄筋二階建て、運動場も広くて
何年か前までは生徒もたくさん通学して
いたのであろう。

学校でお話を聞こうと訪問したが
折悪しく給食の時間帯であった。

通学している生徒は一、二年生はいなくて
三年ー六年生の計8名で複式の一学級のみであると。

アットホームな懐かしい感じがした風景であった
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菅生今昔

2005年07月11日 | Weblog
菅生集落 祖谷川を挟んで対岸に
菅生小学校がある、鉄橋を渡るが
そこにむかしかずら橋が掛かっていた。

明治44年に 小井出国光 という方が
写真を撮っている。
菅生小学校に保存されているが貴重である

写真で見ると今のかずら橋と違って
非常に素朴な感じである。

明治36年頃 東祖谷山村には 釣井、栃ノ瀬
若林、(浦戸)、林、落合、久鬼、西山
(大宮)、久保、菅生 の十箇所にかずら橋
が掛かっていたそうな。

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失われた菅生湿原

2005年07月09日 | Weblog
いやしの郷温泉へ行く手前に埋立地がある
ほんの15年ほど前には湿原であった。
葦が生い茂り、その中にカキツバタ、ノハナショウブ
などが群生していて春秋綺麗な風景であったそうな。

昔 湿原は底なし沼のようであったが水田として
利用されて平地の少ないこの地では貴重であった。
水田にするには竹を四角に編んでいきその上から
苗を植えていたそうだ、昔の苦労が偲ばれる。

菅生の里歌に
「菅生よいとこ一度はおいでよ、
底のない田で米とれるよ」と歌われている。

むかしの言い伝えに
菅生屋敷の さま姫が沼地に足を滑らせて沈み込んで
亡くなり、遺体が浮いて来なかったそうだ。
浮いてきたのは かんざしと袈裟だけであったと伝えられている。

むかしの悲しい言い伝えも はたまた春秋の花々と葦の
美しい饗宴も今となってはまぼろしである。
人間のちょっとした油断、、、虚しい思いである。



       

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天狗塚といざり峠(天狗峠)2

2005年07月05日 | Weblog
いざり峠におけし坊主という4歳位の子供が
時々登山道に現れて「抱いとくれ」とか
「背中に負うておくれ」とせがむそうだ。
子供だから重くなかろうと負うと凄く重くて
負いきれたものではない。
「負縄が短いきに、長い負縄を持って来るわ」
と言って難を逃れた者もいるそうだ。

西山の沢村信義という人もスゲ草を取っている時に
女の子のおけし坊主に遭い、ほうほうの体で逃げ帰ったそうだ。

いざり峠を歩くときは子供のおけし坊主に気をつける事だ
いまでも出会うかもしれないよ。
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天狗塚といざり峠(天狗峠)

2005年07月03日 | Weblog
この地に むかし天狗と大男がいた
連れ立って山登りをしていたとき、天狗が
「向かいの寒峰に足がとどくか」と言うと
大男が「朝飯まえだ、この通り」と寒峰を踏みつけた。
天狗が「寒峰と土佐の白髪山を跨いでみい、跨げまい」
大男は即座に二つの山を跨ぐと、天狗が「腰を伸ばしてみい」
と言うと大男は勇んで立ち上がると頭が天井の雲につかえて
腰を挫いて座り込んでしまったという。
大男は歩く事が出来ず、いざってしまったそうな!
天狗は山に腰をかけ 「天狗塚だ!」と言って長い鼻を
自慢そうになでて、それ以後大男の座り込んだ山を
「いざり峠」と名づけたということである。むかしばなし、、、、
コメント (1)
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