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秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

奥祖谷冬点描

2009年12月29日 | Weblog
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。(三好達治 雪)

先日の寒波に奥祖谷の名峰は白銀の世界と化して、剣山(太郎笈)次郎笈
三嶺、天狗塚、寒峰など剣山系、祖谷山系は見事な風景を見せてくれたが
山麓には重いドカ雪となり土地の人たちの生活は大変な苦労を強いられ、
あまりのドカ雪は歓迎されない。

雲上寺の宮の内和尚は孫のもりや諸々の用事に振り回されて下界の生活に
どっぷり浸かり、腑抜け同然の鈍ら坊主に成り下がってしまった。
和尚は、ながーく山歩きがしたいがために筋力を鍛えようと前々から
運動をしていたのは良いが、やり過ぎてアキレスの筋を少し痛めてしまい
しばらく山歩きを自重する羽目に。

テラオの兄さん
「ほれ、ガイナことしよるけんじゃ、和尚が山へ行かんと天地がひっくり
返るわ、自重する云うけんど、いまにこっそり行くじゃろうて」

yoriyan「なぬー、なんちゅーこっちゃあ、少しは年を考えんかいな」

コテージの管理人「ストレッチを間違えたろう、甘く考えたな、
こうするじゃがな」
持つべきはいい友だちであるとつくづく和尚は思ったものである。

白銀の名峰を目の前にして歯軋りする和尚はなんとも情けない顔をして
縁側で自棄酒を煽って慰めた。


本格的な厳冬期に入るここ東祖谷は秘境のチベット、四国の北海道と云われるほど
不便で厳しい生活を余儀なくされるが、土地の人たちは逞しく楽しく生き抜いて
春を迎える。厳しい自然環境を生き抜くにはしぜんと物事を深く考え、注意深く
工夫して豊かな生活で暮らそうとする。
概して人は便利に楽に暮らしていると不満、不平が多くなり、欲望が際限なく
なり、怠惰に雑念に埋もれて人生を終わるものだが、山里では自然界が
許してくれないものである。
厳しい自然界と生活がハングリー精神を育み、真摯な精神を育んでいる。
ここ奥祖谷では人はしぜんと優しくなり純朴になり豊かな心を持つように
なってゆくようである。
わが人生も奥祖谷に関わり出して久しいが、このまま精神を磨いて豊かな心を
持てるように、たそがれ期に入った人生を生き抜きたいものである。


祖谷の女

1 山に憧れ 祖谷に来た
  真白き三嶺 仰ぎ見て
  急げラッセル 樹林帯
  ひとり佇む 君がいた
  可愛いエクボ 祖谷の女

2 霧氷耀く 雪道を
  励ましあって ラッセルだ
  息を弾ませ  山頂に
  赤いヤッケが よく似合う
  山を愛する 祖谷の女

3 夕陽に染まる 四方の峰
  祖谷の灯りが 見え隠れ
  麓に住みし  君ならば
  明日もきっと 逢えるだろう
  赤いヤッケの 祖谷の女




寂寥とした廃家






ひょうごいし 二連の赤い屋根廃家 





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遠い日の約束(母の命日に寄せて)  SA-NE

2009年12月27日 | Weblog
フラッシュをたいたような、鮮やかな秋の蒼空が、窓の彼方に輝いていた。祖谷川から、吹き抜けてくる風は、ケヤキの葉の隙間を静かに渡っていた。母と私の傍らには、スヤスヤと眠る、生後数ヶ月の双子の娘達。
暫く空を見上げながら、私はふと手を止めて、呟きました。
「なあー、なあー、母さん、あの世って、あるんかなあ?父ちゃん、天国におるんだろか?」
不意に尋ねた私に、母は、布オムツをたたむ手を止めて、小さく笑って言いました。
「ええ、ところじゃけん、帰ってこんのだろうの…天国あったか、父ちゃんおったか、母さんがいつか、逝ったら、〇〇〇にだけ、知らせてあげるわ」

「それって、一番かたい話じゃなあ、母さん、まだまだ先でええけん、絶対に教えてよ!約束だよ!」

母と娘の一生で一度きりの約束は、そんなたわいのない、話の始まりでした。

それから、数年後、
母の身体を、脳梗塞の後遺症が蝕んでいきました。
平凡という名の、幸福な時間の贈り物は、少しずつ、形を変えていきました。
私を待っていたのは、「介護」の、世界でした。
一生懸命であればあるほどに、苛立ちは募り、私自身、心も体も病んでいきました。
介護を経験する、誰もが直面する、現実です。
脳梗塞、心筋梗塞、そして、血管の壊死による、左足の切断。
父が亡くなった時、泣き崩れる、小さな母の背中に、誓ったことがありました。
最期の時間を、見届ける為に、母の側で離れないで暮らして行こう。ずっと一緒にいて、母の人生の、最期を見届けるんだ。
「傍にいるよ!一人じゃないよ!」
そう言って、母を見送るんだ、と。
10年に及ぶ、自宅介護。施設入所。
そして、最期を迎える場所になった、二年間の入院生活。
母の生命を繋いでいたのは、チューブによる栄養と、数本の点滴の管でした。
医師に告げられていた次に状態が悪化したら、気管切開による生命維持装置への切替。


八年前の、12月23日。年末恒例の、ボランティア作業。大凧を取り付けた、その足で私は母のもとに出掛けました。

危篤を数回、脱するたびに、私の心は限界を迎えていました。
「母を連れて、自分も命を絶とう、これ以上、母を苦しめたくない」
そればかりが、頭の中を、巡っていました。 あの日、午後6時頃、私は容態の落ち着いていた、母の病室で半日を過ごし、別れ際、母の顔を摩りながら、
「母さん、また来るね、帰るわ…」と言葉をかけました。
一瞬、母の視線は、確かに私を捉え、
小さく微笑みました。
私の感じた、サヨナラの予感は、悲しい事に適中し、それが、母と娘の40年間の最期の時間になりました。
私が、病室を出て、祖谷に帰り着くと、母は、呆気なく息を引き取りました。
母の最期の時間を共にしたのは、当然、私ではなく、同室の身寄りのない、アルツハイマーの老婆でした。
凍てつく、森閑の冬の夜でした。


葬儀が終わり、慌ただしく49日の納骨を終えた夜。
私は、母と交わした、17年前の約束を確かめる為に、母の遺影のある部屋に、一人布団を敷き、夜を迎えました。
主人と高校生に成長した、娘達は、私の意味不明な行動を見ながら、寝室で、優しく笑っていました。

深夜、12時を過ぎ、時計の針の音だけが、部屋に響いていました。
「母さん、覚えてる?今日が、約束の日だよ。きちんとおしえてよ!父ちゃんに会えたか、あの世はあったか…」
1時、2時、時間が過ぎていきました。 私は、神経を集中しながら、必死で母の気配を探しました。
深夜、2時を時計の針が廻り、それから私はそのまま、眠ってしまいました。


気が付くと、夜が明け、カーテンの外は、明るくなっていました。
しばらくして、娘達が寝ぼけまなこで、遺影のある部屋に、入ってきました。
「なあ、なあ、母さん、ばあちゃんに会えた?」
「それが、母さん、2時頃から寝てしまって、会えんかった。やっぱり、あの世って、ないんだろうか…」
私がそう言うと、
娘は、母の遺影に微笑みながら、確かめるように、話しかけました。

「ばあちゃん、ばあちゃんは約束通り、出て来たんだろ!出て来て、母さんを起こしたんだろう。母さんが、爆睡してて、起きてくれんかったんだろう、ナア?ばあちゃん。」
娘の視線の先の、母の写真は、あの秋の日だまりの時間の時のように、小さく微笑んでいました。

あれから、七年。
母との約束は、未だに曖昧なままです。
父の傍が、余りにも居心地がいいのか、
一瞬でも、離れたくないのか、
それとも、単純に忘れてしまったのか、
答えはすべて、空にあるんでしょう。
ねえ、母さん。


一年間、
時々おじゃましました、私のつたないエッセイを、読んで下さった、読者の皆様。
ありがとうございました。
来年の皆様の、
時間が、温かな笑顔で充たされますように。そして、貴方の愛する方が、永遠でありますように。
愛の形は違っていても、人は愛によって、いつの時代も、生きられるのです








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菜菜子の気ままにエッセイ   

2009年12月25日 | Weblog
聖なるクリスマスイヴから、一夜が明けました。祖谷の今日の冬空。
「クリスマスイヴ?それがドウシタ?」
なんて、一瞬でも脳裏をよぎった方々は、失礼ですが、「高齢者?」
昨日、完成し、掲げられた大凧の前で、車に跳ねられそうな危険を顧みず
必死で携帯カメラを撮る、私に青年が言いました。
青年は、昨日、大凧を掲げるお手伝いを、テラオの兄さんに頼まれた、一村人です。
必死で写す、私の真横に立ち、一言、言いました。
「凧と一緒に、並んだら?写してあげようか?」

青年よ!正確に言えば、高校の後輩君。私はそこまでは、凧に執着していません。あしからず。
でも、素直でピカピカのハートの持ち主です。ありがとう。
毎年、凧を掲げるのに、鉄のパイプが必要です。テントが風に、飛ばないように、それが目的です。
今年も、無償で貸して下さった、〇石土建の社長様、ありがとうございました。何のお礼もできません。
自慢じゃありませんが、会計残高は、常にゼロのてんごの会、会計はもちろん私。

ゴメンなさいね。私、ケチですから。

パイプを取り付けた、大凧は、非常に重たいです。作業も、大変です。昨日の気温は、3度。
大変、危険な、大変な大変な作業でした。
ボランティア精神、百パーセント全開で、頑張りました。
見返りを求めない!世の為、帰省客の為、全国秘境愛好家の為に!頑張りました!
頑張りました。



私以外の三名の男子が。

私は、モチロン♪
金稼ぎの、通常のお仕事に行きました。

仕事帰りに、テラオの兄さんに車で会いました。私は、声をかけただけです。
「今から、写メ撮っとくわな♪オチカレ様♪」
テラオの兄さんは、単純に答えました。
「綺麗なよ~、見てみ~」


来年は、頑張ります。来年こそ、女子も男子の肉体労働に、参加して、
男女参画運動の輪を、秘境祖谷から、全国に発信します。
今年の凧のテーマは、今までずっと、続いてきた、
「もんてきたかえ」
を始めて止めまして、
「たいがーいに、もんてこいよ」
にしました。祖谷の方言です。
いい加減に帰ってきなさいよ の意味を持ちます。
故郷、東祖谷を離れて暮らす、中々帰れない皆々様、
今年は帰って来なよ。故郷は、帰る場所なんだよ。
故郷は、いつも温かく黙って迎えてくれる、たったひとつの、胸なんだよ。

などと感慨に、浸りながら、私のクリスマスの夜は、ふけて行ったのでした。

夕方、クリスマスケーキを、ワメイの妻、T子ちゃんに頂きました。
「二人で、食べてね♪」
お供えして、鈴を鳴らしたら、何の声も聞こえなくて、やっぱり涙が落ちました。

クリスマスイヴは、自分の幸福度を、確かめる時間なのかな?
三年が経ち、あの日々と違う淋しさに、真っ直ぐに包まれています。
蒼い、蒼い空に、たったひと握り浮かぶ、白い雲の固まり。今の私の、感じるままの、寂しさです。

「たいがいに泣けよ」
と笑っているかしら?
東祖谷出身者の皆々様。
「まっこと、たいがいにもんてこいよ」
待ってるよ。天空の気高き山々が。
待ってるよ。
君の愛する者達が。








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菜菜子の気ままにエッセイ   

2009年12月21日 | Weblog
日曜日朝、9時から作業を始めました。
テラオの兄さんと、ワメイの妻「EXILEアツシ命」のT子ちゃんと、私の三人です。
メンバーのもう一人の、トンカツじゃない、「婚活中」のひでさんは、積雪にて、自宅から、下山出来ないとの事。
イケイケギャルの、
(社会福祉士の試験に続き、今月ケアマネ試験合格、いずれも、一発合格)
超努力乙女の、A子さんは、悲劇の新型インフルエンザで、自宅待機!
結局、三人で真面目に、制作しました。
行程は、今回はきちんと、写しているので、順番に見て下さい。
あっ、今日、
ここのブログの主さまも、帰省する予定だったのですが、雪の為に断念しました。

まず、今回の絵が、一番難関でした。
一つ間違えると、
「猫」に見えます。
今回だけ、サンプルを参考にして、適当に書きました。(テラオの兄さんが)
黄色の色の、面積、大変な量です。
文字の枠を、埋めなければ行けません。
本当に、本当に大変な、作業です。
頑張りました!
(ワメイの妻が)


私…わたし…
私はと言えば、
えーと………


あっ、寅の目の部分を書きました!
テラオの兄さんにペンキを、渡しました。
赤色と白色を混ぜて、ピンクにしました!
そして、
指示を送りました。

「もうちょっと、黒、濃い方が、締まって見えるよ!」
「活彩」って、入れるからね。
「青も入れるよ!」

しばし、流れる時間。
「コーヒー飲もうよ!」
「休憩しょう、殆ど書けたし!」
「ブラックで、いいよね!」
私一人が、ハイテンション!
持参した、コーヒーを入れるわたし。
持参した、お菓子を出すわたし。


「なんか、もうすぐ、お昼だね。昼食にしよう!」
とわたし。
素早く、持参してきた、
「カップヌードル」をチョンチョンと開封し、素早く、「お湯注入」

じっと我慢の三分間!
持参してきた、パンをだすわたし。
私は、パンとヌードルの同時進行で、食べているのに、二人はまだヌードルの、蓋を開けない。

「なあー、麺伸びるよ~」
私は、二人の容器の中の麺が、ドロドロになるのを、超心配してあげる、
(めちゃくちゃいい人!)

「あ~、お茶!お茶!」 とわたし!
ダッシュで、お茶の用意をするわたし。


しばし、楽しいランチタイム♪


という事で、
完成しました。
数日後に、掲げます。美味しかったよん。三人で食べた昼食!

本日の一句

「てんごの会、気がつきゃみんな、独身貴族」












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菜菜子の気ままにエッセイ   

2009年12月20日 | Weblog
外は、静か~な気配。鳥の声もしない。カーテンの隙間から見える、窓の外は異様に明るい。

「降ったのね…」
「サブい…」

起きるのに、勇気がいる。マイナス2度か、3度?
部屋ごと、凍ったみたい。頬っぺたが痛い!「頑張って起きよう!
山々の写真を撮りに、いざっ、マイナスの世界に、出動!」
こんなに綺麗な、白銀の世界。
これを伝える為に、携帯電話を、リニューアルしたんだもの!
家の前の、長靴を越える、重たい雪をスコップで掻き、軽トラエンジン全開!
道路には、数台分のタイヤの後。バリバリ凍結~

凍結なんて、無視無視!
私には、「今日の祖谷」を伝えなければ為らない、使命がある。
見よ!今日の祖谷!
これぞ四国の北海道!見よ!マイナスの世界!
秘境の越冬極限生活!

を伝える気持ちは、100パーセント、いえっ、それ以上あったのですが……

ごめんなさい。
結局、早い話しが、布団からでる勇気のないままに、一瞬、
ダッシュで部屋のファンヒーターをオンにして、ダッシュで布団に隠れ、
まるで、忍びの忍者そのものの、超スピード行動力。

こんな日に使わない、携帯電話なんて、
「豚に真珠」
「坊主にかんざし」
「秘境に大駐車場…」みたいなもので、次回は真剣に頑張ります。ごめんなさい。

今日の寒さは、やっぱりきつい!
一日中、軒下に氷柱が、規則正しく、起立していました。
宅急便の方達が、
顔色が悪かったです。合言葉は、おんなじでした。
「降ったのう!」
「雪掻いても、手にあわんのうや!」
私のセリフではありません。あしからず。

今日は、これから13年位続いています、恒例のボランティア行事、新年恒例の、「大凧」書きに行きます。
メンバーは、
いつもの「てんごの会」の高齢化したメンバー数人です。
5メートル×7メートルの真っ白な巨大特注シートに、絵を書くのです。ペンキで、色を付けます。
それを、毎年、京上の橋のつきあたりに、掲げます。
それで、帰省客を、迎えさせて、頂いてます。
毎年、シート代金、ペンキ代金、五万円以上の費用は、テラオの兄さんが、自腹を切っています。
偉い!と感服します。
出来上がったら、また報告します。
待ってて、くださいね。本日の一句
「新携帯、操作方法、ヤヤコシイ、じっと、手を見る」



少し暖かくなって布団から這い出し使命を果たした菜菜子さんの携帯写真
落合集落が大雪にすっぽり埋まっているよう。 おお!サブー





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冬の風景

2009年12月17日 | Weblog
今年は師走に入っても異常に暖かい日々が続きどうしたことかと
訝ってみても、明快な答えが返ってくるわけもなくて、COP15に
尋ねたところで、世界の政治家達の頭の中では自国の損得ばかりが
渦巻いて混沌としたカオスに陥って痴呆になっていれば、介護師を
派遣して、グループホームにぶち込まねばなるまい。

などと、夢見ていたところに寒波がやってきて少しは例年並の寒さを
取り戻して雪の風景となった。


菜菜子さんの携帯写真から今日の祖谷雪風景








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菜菜子の気ままにエッセイ   

2009年12月15日 | Weblog
大きな枯れ葉が、風に流されながら、ゆっくりとゆっくりと、彼方で冬の空間を、泳いでいる。
羽のない、一羽の鳥のように、静かに静かに、舞い上がっている。背景には、セピア色の祖谷の山々。
羽がなくても、飛べるんだ。
身を任せれば、柔らかく飛べるんだ。
キリッとした、冷たい風。ピリッとした空気。ようこそ、冬将軍よ!

いざっ、老犬の散歩の時間。夏に死にかかった事もあり、私の「ゴン」への過保護度は、超スペシャル!
夜中のムダ吠えには、めちゃくちゃ、睡眠不足になり、育児ノイローゼならぬ、老犬パニック症候群!
散歩時間は、一時間余り。
あいつは、わがままになった。
コース変更を勝手にする。
行った事のない、道を率先して進んでいく。
年寄りと、病人と、男前と、死にそうな犬には、めちゃくちゃ気が長い私。
ゴンのリードを引きながら、お付き合い。

今日、初めて歩いた道は、在所の上から、在所の下に繋がっている、幅30センチ程の細い道。
普段は、ほとんど利用されない道。石垣の上の畑の道。落ちれば、2メートル位。道の下の畑の端には
茶の木がある。

人間なら、85才は過ぎている。
白内障、ヘルペス、聴覚の衰え。
しかし、しかし、
食欲は旺盛!
徘徊のように、歩く、歩く、
抱かれる事は、大嫌いで、自力で車に乗り込む。
「ゴン、走るな!」
「阿呆か!走ったら転ぶよ(私が)」
親の言う事を、無視して、ゴンはダッシュする。


一瞬、ゴンが視界から消えた。
「ヘッ?」
物事を把握するのに、Ⅰ、2秒かかった私。

茶の木の間から、
ゴンの「顔 」だけが飛び出していた。
確実に、落ちていた。
「ゴーン、右手出して~」
「ゴーン、足、枝に掛けて」

などと、言っても、通じる筈がないので、
言わずに、ゴンの救出にあたりました。

48年、生きてきて、
様々な形で、人や犬を救出してきましたが、犬の頭を、茶の木から救ったのは、初めての体験でした。
ゴンは、怖かったのか、錯乱していたのか、なぜか、平坦な道を高ーくジャンプしました。

茶の木に、落ちた老犬は、ヒラヒラとは、飛べませんでした。
身を任せれば、ずんずん、下に沈んでいきました。

自然は優しい。
犬は 葉っぱよりも重い。

そろそろ、白いものが、舞い降りて来る季節。冷え込んでます。
色のない、白黒の世界。
コンクリートと、人間に疲れたら、深呼吸しに来ませんか!
問わず語りの自然が、365日。
あなたを待っています。
(グゥワン)


菜菜子さん 携帯写真






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冬の風景 圧倒の三嶺

2009年12月12日 | Weblog
湖の両岸に圧倒的に圧し掛かる気高き三嶺を眼前に見据えたとき
身震いにも似た想いに暫しぼう然とした。

これほどまで圧倒的な質量と力強く男性的な雄姿を祖谷の麓から
眺望できるとは。
広々とした川原と湖を前景にのびやかに、ゆったりとした気分で
穏やかな冬の日差しに酔いながら、一時を過ごしたものである。







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冬の風景 孤高の天狗塚

2009年12月09日 | Weblog
青むらさきに浮びかがやくシルエット 孤高の天狗塚は久保集落の中ほど
山梨の古木を前景に、日本画のように観るのが好きである。

左に天狗峠を、右に牛の背を従えて奥深くに孤高として屹立する
祖谷の名峰である。

そのむかし、山頂に天狗住み、峠を行き交う人々に悪さを為しとも云うが
東の雄 三嶺までの縦走路は大正の中頃、松山高校の山岳部長北川淳一郎
によって「天狗の庭と命名せずにはいられなくなる」と云わしめたほど
美しい日本庭園の如きである。





久保集落の山梨の古木を前景に、菜菜子さんの携帯写真による今日の天狗塚


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冬の風景 夜話

2009年12月06日 | Weblog
情報伝達が何でもありの時代でなかった昭和16年ごろ、ラジオの放送に
よって、祖谷の民謡が全国に放送されたことにより世に知られるように
なった経緯と軽妙な寸評はなかなかの随筆である、紹介しよう。


祖谷民謡の放送  喜田 徳 著  抜粋

昭和16年の夏であった、わたしはちょうど祖谷に帰っていた。徳島放送局が
京都、高知の両放送局と連合して山と海に因んだ民謡の放送を企画した。
その撰に入ったのが祖谷の粉挽き節であった。
いったい民謡の歌詞になる素材は、その土地の口碑や伝説に採るか、民俗の
推移や人情のあやを織り込むかにある。
祖谷といえば平家というほどなところだけに平家一族の流離の哀愁を、土地の
風物に結びつけるのは当然である。

祖谷地方は食生活に恵まれなかった、大麦や裸麦を火で乾燥してこれを石臼に
入れて粉にして常食とした。
石臼をまわしながら、調子を合わして歌ったのがこの民謡である。

京(みやこ)おもえば 月さえくもるヨ
とんで行きたや アノ空へヨ
        サア ヨイヨイヨ

おん痛わしや平家の公達も、地下びとに成り下っては、一切平等である、そのかみ
殿上に侍つた栄華の夢を追い、有為転変世をはかなんでの朗詠ならぬ地下びと唄で
あろうと祖谷的な明解を施している。


月に一度のサワリが  なけりゃヨ 
   主に仇足ふましゃせぬヨ
      サア ヨイヨイヨ

さぞや公達百姓も落胆されたことであろう、千山万岳ならぬ幾つかの峠を越えて
きた逢瀬に、とたんに契機を阻むものありと聴かされて、後朝も索漠と別れる
ふたりシルエットが感じられる。


粉挽け粉挽けと ひかせておいてヨ
  荒い細いの ナショたてるヨ
      サア  ヨイヨイヨ

愛人を持つ娘に軽い嫉妬を感じている家族や近所の人達の、揶揄的なレジスタンス
といったものであろう。
ナショは祖谷の方言で、非難する、なんくせつける、小言という言葉。


臼よはよまえ はよもうてしまえヨ
    門でまつ殿 夜が更けるヨ
      サア  ヨイヨイヨ

夏ならまだしも、零下何度の戸外で待つ身もさることながら、臼よ早くまわるように
と念じている娘の心は氷っていたことであろう。


臼のシャクリ挽きゃ 荒い粉が下るヨ
    旅のお方にゃ 出されまいヨ
     サア  ヨイヨイヨ


臼をうまくまわせばよいが、手もとへ強く引くと、その部分だけ荒くなる
それでは客人に出されないというのであろう。
が、好きになった娘へ母が心を配る言葉とも受け取れように。

謡われる曲はひどく哀愁がこもったもので、秋の夜 民家を訪れる旅人などが
聴くと、いつかやるせない想いを身近に漂わせる。

祖谷は必ずしも平家の落人で形成されたものではない、しかし花顔の乙女が
唄っているのを聴いているうち、こういった否定はわけもなくかき消されて
祖谷は落人の里だと思い込んでしまうから、奇妙である。
放送の夜、長い伝説と口碑の力に感心したのである、あれから、
はや15年が過ぎている。


発行者 祖谷刊行会、徳島県文化財専門委員会  書物「祖谷」昭和31年発行






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冬の風景 夜話

2009年12月05日 | Weblog
戦後まもない食糧難に嫌気がさして浪花の大都会から芋食を腹いっぱい
食べたいがため、東祖谷に飛び込んだX線技術者夫婦の活躍を紹介しよう。


X線技術者の落人生活     平井 正雄著  抜粋

「深山幽谷とはここを指すのであろうか」昭和23年3月、大都会の騒音のなかで
育った私は妻と共に京上の土を踏んでこう思った。
朝から晩までほこりと音響に疲れ、食生活にノイローゼになっていた私どもは安堵の
感が湧いてきた。
ここの診療所のX線技術者になろうとは夢想だにしなかった、運命の神様の悪戯だったか
いや、正直いうと食生活へのあこがれだった。闇買いに悪鬼羅刹とならうより、のんびりと三度の芋食で腹を膨らましたいといったその頃の都会人が持つ共通の具現であった。

ある夜のこと「こんばんは」と眉目秀麗の青年が訊ねてきた、徳さんで通る中学の先生
である。徳さんは話が弾むと親指と中指で額を挟む癖があり先ほどから何十回となく
挟んだり外したりしていたがやがて「楽団をふくんだ軽演劇団を作って山の人たちを
あっと云わそうじゃあないか」と瞳をキラキラさせていった。

この山に来て日が浅い私は、戦い敗れて惨めな国に愛想をつかした青年が拠り所の無い
心の空虚へ何かを充たそうとあせっていることが映っていた。
「面白いわね、わたし断然賛成よ」と妻はわたしが云おうとするところを万事引き受けた
ような顔で、編み物の手を休めて答えた。
そこへ「こんばんは、平井さんお茶を一杯くれんかい」と「光ちゃん」で通用する愉快な
青年がはいってきた。四者会談のすえ、話は纏まって実行の一歩を踏み出した。

当時落合集落で郵便局長の大上さんをリーダーとする渓流連盟という団体があって、楽団の編成が進んでいた。徳さんはこの落合と京上を一つに併せた音楽同志会を結成した。

会の名を祖谷文化協会と改めて会長は徳さん、副会長は大上局長と私、企画は徳さんの弟
芳文さん、阿佐正勝村長を顧問に、河井岩夫、庄司為市、木村唯夫、松原秀一さんといった人々が大変な力の入れようで、いまも忘れられない。

疎開してきたヴアィオリニスト松村淳先生が応援に駆けつけてくださるし、ときおり
商用で入山する楽器なら何でもOKという重宝な人、栃の瀬出身の鳥首さんも参加して
まずは楽団の編成も出来、吉田豊、田辺猛、曽我部露子さんたちが、歌手となって
ヤンヤの喝采をはくす役となり、おまけに久保で開業している婦人科医の松原先生までが
「赤いリンゴに唇よせて」を希望する盛況であった。

村民は「おれのへぜひどうぞ」といった引き手あまたで、菅生から和田まで夜に
昼にと駈けずりまわった。
歌に寸劇にと演じて村民を喜ばせた団員は、演劇が終わると深夜の渓谷沿いの道を
三々五々と我が家に帰ってゆく、1銭の報酬も受けなければ一椀の食を求めてもない
みんな黙々と与えられたキャストに忠実であった。

このような企画と実施が村の人々の心をなごやかにし、青年の荒んだ気持ちを矯正
したことかわからない。
とにかくみんなが喜んでくれたことだけは事実であった。村の人たちは「若い人に
こんな犠牲を払わせてはすまん」とばかりにご祝儀が集まって、私のメモを取り出して
みると、後援資金 1万3千3百二十円也、支出 9千4百6拾円也とある。

25年に私はこの村を去って浪花に帰ったが、再び徳島に戻って、いま、地形も祖谷に
似る那賀川渓谷の宮浜に仮寓している。
夜になって山の斜面に点々と明かりが灯ると妻は云う「よかったわね、祖谷に居た頃は」
浪花から来た夫婦ものは、祖谷びとの人情の濃やかさに惚れ込んでしまったからである。

発行者 祖谷刊行会、徳島県文化財専門委員会  書物 「祖谷」 昭和31年発行




菜菜子さんの携帯写真 久保 クヌギ林も冬枯れて
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冬の風景 夜話

2009年12月04日 | Weblog
冬の夜長に無いようでありそうで戦前のおはなしを紹介しよう。


八坂義矩著  赤旗異変から抜粋


古い話であるが、昭和11年の初夏のこと、当時の徳島新聞では旧家の奥深く
秘められている家宝を一堂に集めて展示会を企画した。
私は阿佐家の赤旗を借り出してくることを担当せしめられた、というのも愚妻が
阿佐弘之氏の妹であるので私の顔を立ててくれるという儚い思いであった。

阿佐家の広間で対談二時間あまり、当主と膝談判であったがなかなか宜しいとは
云ってくれず難渋したが粘りに粘った結果、弘之氏も遂に兜を脱いだ。

「大旗は駄目ですが、小旗なら外に出してもよろしいですが、いままで外に出した
ことがありません。外に出すと良くないことが起こる心配がありますからな」と
云うので、私は「そんな馬鹿なことを、それは迷信の類です」と云って小旗を借り
出すことに成功して展示会は大盛況であった。

愚妻の母はあのような単調な山暮らしであるので毎年春と秋の気候のいい時期に
徳島市に出てきて娘や孫の顔を見て一ヶ月くらい居て山に帰るのが常であった。

展示会から一年後の5月末、何時ものように徳島市から山に帰る母を駅に見送って
元気に帰っていったのだが、私たちはそれから3,4日後に母の訃報に接しようとは
夢にも思わなかった。
このとき私の胸の底にあのときの「御旗を外に出すと不吉なことが起こるというが」
と云った義兄の言葉が思い浮かんだ。
しかしそんな馬鹿なことが起こるものか、一度は死なねば為らぬ命、偶然の一致だ
決して母の死と旗とは関係ないものだと自問自答して自分の心を慰めている。

それからまだ話はある母の死後、妻はそのショックで強度の神経衰弱になってしまった
身の回りのことや何やかやで家政婦を雇い病院通いは人力車、薄給の身では忽ち経済的に
困窮してしまった。

軍国主義華やかな時代、病弱の妻を気遣いながら従軍を命じられて南方を点々としたが
幸いにも半年ほどで帰ってきたときには妻は大分良くなっていてありがたかったものである。
赤旗を借りたばっかりに、母は亡くなったのであろうか?また妻が病気になったのか?
私は今でも否定しているが、何か割り切れないものが、15年後のいまも残っているのは
事実である。

発行者 祖谷刊行会、徳島県文化財専門委員会  書物 「祖谷」昭和31年発行より。





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冬の風景 

2009年12月02日 | Weblog
12月に入っても暖かい日々が続いている、何時もの年であれば
麓であっても小雪が舞う日があったり、偶には積雪に為ること
もあるのだが(去年は11月19日に大雪、)暖冬ぎみかな。

落合集落の雪景色もお預けだが、土地の人たちにとっては何かと
仕事が捗り、ありがたいことである。

今日の落合集落の風景を菜菜子さんの携帯写真から。




コメント (3)
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