秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

新緑の鮮やかさに林床の小さき花たち

2021年04月29日 | Weblog
鮮やかな新緑の山にちょっとお邪魔してしずかに、ゆっくりと
登山道を歩いて自然の息吹を身体いっぱいに、いただくと
す~と溶けてしまいそうになるものである

林床のあちらこちらに、小さき花たちを眺めてしずかに挨拶をする
そうしたちょっとした気づきに、こころなしか、花たちも
答えてくれるように思われて、なにか、ほっとした心地がするものだ

自然界の少しの仕草に、少しの気づきに、草木の生き様を傷つけないように
気配りしながら山歩きをしたいものである























































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菜菜子の気ままにエッセイ(2021・新緑のお時間です)

2021年04月17日 | Weblog
前略。
新緑と牡丹桜のコントラスト。
風は緑色。桜色。とにかく自然は水彩画。大パノラマの世界でございます。

多忙な1日が終わり、かなり疲弊しながら帰宅し、取り敢えずつけるケーブルテレビ
(毎月、2200円が取られる)毎日のお悔やみ欄を確実に知る為には欠かせないチャンネルだ。
で、そのテレビ画面に、聖火リレーの三好市のダイジェストが流れていた。

池田阿波踊りから、始まったんだねー。毎年拝見させて頂いている、さつき連のまさこサン。粋な男踊り。
味があるなあ。こんな味は、熟練した職人技とおんなじだ。毎年拝見しては、ホッとする夏のお顔。
(スーパーで会った時は、特に何も感じないで、普通に挨拶する)
などと、感心していたら、ランナーの中に見たことのあるお顔。

そうだったんだ。一年過ぎてすっかり忘れてしまっていたけれど、聖火ランナーに選ばれていたんだ!
そう、92歳の最高齢ランナー、東祖谷在住の、なかい○先生。
中学の時の家庭科の先生!
散歩されているお姿は、時々お見かけしていたけど、聖火ランナースタイルを見たのは初めてで、
(度々ある筈がないが)なんか、ドッキリ!ビックリ!
沿道の方々に余裕で手を振りながら、笑顔でゆっくりと走られている。
なんか、感動した。涙腺が緩んだ。

散歩されている姿を見て、特に感動はしなかったが、なんだ?この大袈裟な感動感!
オリンピックマジックか!
感動しながら、思い出していた。
中学の頃の家庭科のお時間。
家庭科室があったんだ。確か2階の隅だったか。広い教室だった。
広い教室だったから、真面目に授業を聞いていなくても、判らなかった。

先生はいつも、低めのお声だった。
低めのお声で、丁寧に話された。
で、食後の私の体内ダラダラウイルスが、みるみるうちに活性化され、多分退屈しない為に、
マンガを書いていた。詩も書いていた。手元を隠して出来ることは、何でもやっていた。
何故か、時々睨まれたみたいに、感じた時もあった。あれは、バレていたのか?
先生に付けたあだ名、もう絶対に言いませんっ!ごめんなさーい。
その先生が、こんなに長生きされて、オリンピックの聖火ランナーって。
あの時、誰が予想出来ただろう。
だから、未来は面白い。とにかく、みんな生きていて。


ヴヴヴ星人が逝って、5年が過ぎた。
この時代に、ヴヴヴがいたら、多分テレビの毎日のニュースを見ながら、呟くんだ。
『しもでは、いそげえな病気流行るのうやー、しものしは、よわるの』
そう、言いながら、煎餅をボリボリ、膝を掻き掻き、お茶を飲む。
で、ワクチンのハガキが届いたら、こう言うんだ。
『みなが するようにするわ。打ったらええんだろ。また、言うてくれえよ』
面会出来ないままに、家族を看取る人。
普通が出来ない、もどかしさ、悔しさ。
本当に意地悪な、現実になった。

ふと、思った。
敵はウイルスだ。闘わないほうが、秘策かも。
闘うから、更なる闘いのウイルスが生まれる?
闘わないで勝つ方法は、あるのか?
逃げる、籠る。無視する。
無駄に出掛けたりしないのに、相変わらず中途半端な貧困は続いている。
感染爆発地帯で頑張っている友人に、心よりエールを送り、拙い新緑を添えて、
本日のご挨拶とさせて頂きます。

       うつるなよー  〆
            















































































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爽やかな芽吹きの色彩に花たちも彩を添えて

2021年04月11日 | Weblog
淡いパステル画のような色彩の山々を眺めて、登山道に
足を踏み入れれば、す~とさわやかな風に身を包まれて
しずかに、ゆっくりと、春の花たちを見つめて歩く

わずかに芽吹きを展開している木々や、いまなお、枯れ木のままの
樹木に、小鳥たちが囀りながら飛び回って遊ぶ姿に生きている実感を
覚えながらも、昨今のコロナ禍にウロウロしているわが身の哀れさに
植物たちの悠然とした振る舞いに我がこころの貧しさを覚えて慄然とする

年老いているわが身であれば、ただ、生まれて、生きて散ってゆければ
これほど良いことはない、その先に何にも無かったところで
驚く事は無い、もともとそのようなものだから
















クロモジの花





ハシリドコロ





キランソウ





フデリンドウ





ギンリョウソウ





イチリンソウ
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菜菜子の気ままにエッセイ(お涅槃と神と仏と時々わたし)

2021年04月06日 | Weblog
前略。
更新しない時は全く更新しないのに、書く時は立て続けに書く。
(書くと言うより、人差し指で弾く)
読者様の予想を裏切ってごめんなさいね。
先週の日曜日は、小雨降る肌寒い1日でした。
祖谷の毎年の4月の行事。集○寺で催される
『お涅槃』でございました。

真言宗の檀家の方々が1日、集○寺に集まります。一斉に集まっても住職様が大変なので
各集落ごとに時間が決められていて、その時間に集まります。
各集落には、お世話人様がいて、その方々がお涅槃の数日前に、真っ新な手縫いされた白い布
おねはん袋を住職様から預かり、檀家の家に届けてくれます。

当日はその袋に千円を入れ、別にお供えとして、お布施を添えます。
お供えは、義務ではないので、個人個人の自由でございます。
袋には手書きで、集落ごとに決められた時間が、書かれてあります。
お供えをすると、白い紙に金壱萬円○○様と書いたのが
天井下の小壁の部分にズラリと貼られていきます。

貼って欲しいから、お布施をする人はいないと思いますが
お世話人の方々が手間をかけて、書いて貼って下さいます。
私は不謹慎な奴で、御座います。
壁をグルグル眺めながら、足し算をしておりました。

10000、5000、10000、他人のお金を数えていたのですが
旧字で書いているので、数えるのが大変になって途中で辞めました。
後ろから見たら、あいつは首の肩こり体操をしている、変な奴だと思われたと思います。

で、今年のお涅槃が近づいているのに、私のもとには袋が届いておりませんでした。
今年始めて届かなかったので、お世話人の方に電話をしたところ、我が家のは最初から
住職様に頼まれていなかったとのことでした。
去年のお涅槃は、準備はしていたのですが、当日になると用事が出来て行けなくなって
頼む人にも間に合わなくて、結局出席できませんでした。

で、袋はそのまま我が家に残りましたので、住職さんが今年の新しい袋を準備する際に
去年に合わせて準備し、我が家のが無かったことになったみたいです。
ややこしい説明になってしまいました。書いてる私も、ややこしい。私の性格もややこしい。

お涅槃の前日にはその事の詳細は分からなかったので、私は前日、住職様に電話して、聞きました。
『すみません、私のところにお涅槃袋が届いていないんですが、去年私が行かなかったからですか?』
わたくしは、本当に聞きにくい事を、ストレートに聞く、大人げない無礼者でございます。

住職様の第一声、
『あー、そうでかー、ありゃりゃ〜、すぐに明日、届けますわ〜』
『大丈夫です。もったいないから、袋はいりません。明日行ってもいいんですねー』
そんな感じでお涅槃は無事に終わりました。

この些細なハプニングで、私はちょっと考えてしまいました。
私の中に沸々と眠っていた、ややこしい症候群が目覚めたのでございます。
ずっと、自分で疑問に思っているからです。
仏教ではお坊さんが来てくれないと、お葬式はできません。当たり前のことです。

私達檀家には、お坊さんは絶対的な訳で、お経を上げなければ成仏出来ないと
それが絶対であると思いながら漠然と生きて来ました。ある意味、宗教に支配されているのです。
で、想像力が豊かなので、私がお坊さんなら、私はうつ病になるのではないかと、思いました。 
人生を全うし亡くなった方を、成仏させなければ、ならないのです。

私がお坊さんなら、
『今日の御念仏で、成仏?出来ただろうか?』
『もし、成仏出来ていなかったら、どうしよう?』
『最近生活不摂生だったけど、今日のお経、大丈夫だろうか?』
人間の病気を治すほうが、判りやすい。

検査結果で、答えは見えるから。
それと違って、御念仏により、成仏できたか?出来なかった?か。
誰にも分からない。
お坊さんにも、解らないのではないだろうか?全国のお寺の関係者の皆様、失礼をお許し下さい。
だって、本人が現れて、
『ありがとうございました。成仏できました。』
とは、絶対に言わないから。

どんな悪人もお葬式で、お経をあげたら、成仏出来るのだとしたら、どんな悪どい生き方をしても
安らかにいけると言うことになる。地獄に落ちた人も、取り敢えずは、お経をあげて貰った筈だ。
宗教に纏わる話は、深過ぎて、宇宙の果てを、個々に議論するくらい難しい。宗教は終わらない永遠のテーマだ。
神様について、長女と電話で話した。
母ちゃんは、何気なく言った。
神様はみんなの心の中に、存在するんだよ!きっと。
自分自身が自暴自棄になりかけても、自分の中の神様が止めてくれるから、道から外れないでいられるんじゃあないかな?

神様は自分自身なんだ!と
わたくしは思う。
悲惨な出来事が続くと、誰もが
『神も仏もない!』と嘆く。
大事なことは、それを超えて生きる強さだと思う。
そう、神様は自分自身なのだから、嘆くより、神様と共に泣き、前に前に進むんだ。と 母ちゃんは思う。

新緑がチラチラと、自然界の新たな命を覗かせています。
桜から葉桜へ、
山笑う季節は、すぐ傍まで訪れています。
自然界の一本一本の木に、ささやかに咲く小さな花達に感謝して、
今夜も四国のゴマ粒よりまだ小さい小さな山奥の場所から 叫んでみる。

コ○ナのどつぼれよ〜、
  いつぞ、バチが当たるぞ!
  たいがいに、どこぞ行けやー!

       アーメン















































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花散りて新緑にしずかな心地こそすれ

2021年04月05日 | Weblog
雨上がり、花みな散りて若葉となり、賑々しきは去り優しい風景は
なんとなく落ち着きの心地こそする
じっと目を凝らして、はて、こんなところに在ったのかな、と

今まで、気づき、が無かった、迂闊だよね、と一本のタラの芽を
シゲシゲと眺めたり、道中の新緑の山々を眺め、今を盛りの花たちに
小鳥たちに立ち止まっては耳を澄ませたりの感覚で外界の風景を
楽しむことに、今を生きているよなあ、とつくづく実感する





























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