秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

奥祖谷秋点描 暮らしの山里 秋風吹き抜けて

2015年09月27日 | Weblog


さまざまなものごとはいろいろな変化をしてきて、いま、この状態にあるんどよね
でも、いまある状態はそんなに長続きはしないだよな、すぐに変化することもある
なかなか変化しないものもある、が、それが知らぬ間に変化しているんだね

個々のものごとは他のものごととちょうどよいバランスを取っているんだよね
だから、いまある状態に敬意を表してていねいに扱わないといけないよな

このようにものごとが次々と変化して流れているのを思うにつけても
空間と時間を軸に過ぎ去っていくひとの人生もそうなんだろうね

よろこびも、たのしみも、おもしろみも、かなしもも、くるしみも、いかりも
始まっては治まり、始まっては治まり、の連続したり、途切れたり、その間が
短かったり、長かったり、激しかったり、秘かであったり、形を変化させて
人の人生を形作っていくんだよね

それは、海を渡り歩く生きた波と波なんだよな、どこともなく現れては彷徨う波は
美しいものであったり、荒ぶれた感情を顕にして襲い掛かったり、子守唄のようであったり
腹立たしさ、悲しさ、失意、寂しさ、悔しさを押し寄せてきたりと戸惑うばかりだよね

そんな波でも必ずといっていいほど、そのすき間、すき間があり切れ間があり
途切れる瞬間があるものだよね
そんなときはしずかで、なぎの状態なんだろうね、そのときどきをみつけてはこころを
精神を、身体をおだやかに休めて次に来る波に備えておきたいね

そうこうしているうちに、人生のたそがれ、ゴールが近づいてくるものだよな
そうなれば、占めたものだ、やがて、波が徐々に小さくなりおだやかになって
小さく、小さく、形も崩れて、やがて治まるんだよな
波は必ず治まるものだ、治まらない波はないんだよ 、だから、だいじょうぶなんだよね




























































































































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菜菜子の気ままにエッセイ( テキトーシローとジャズな季節 )

2015年09月23日 | Weblog

筆無精が続き、失礼致しました。皆様、お変わりありましたか?無事でお過ごしでしたか。
祖谷地方は、恒例の『秋』を、静かに迎えておりますよ。
秋祭り※プチ高齢者が、大活躍
運動会※貴重な貴重な子供達が 大活躍

いつの間にか創られた連休※しもの人達が、大活躍。一方通行みたいに、祖谷の道を、ガンガン走る。
狭い道での出合い頭、しもの人は、ジッと動かない。
しもの人が、少しバックしてくれたら、スムーズに通行出来る場所でも、しもの人は、取り付かれた何か?
みたいに、ジッとして、動かない。疲れてる日は、イラッとするから、こちらも、すぐには バックしない。

とりあえず、運転席のしもの人のお顔を、キッと睨んでから、ブツブツ言いながら、バックしてあげる。
この場合の独り言は、決して、『バックも出来んのが、祖谷の道を走るなよ!!たいがいで、ええわ~!!』
などと、汚い言葉では、ありません。悪しからず。快く 対向できないのは、全ては 国の 責任だ。

生活が豊かだと、「ゆとりもりもり」で、爽やかに対向出来るのだけど、格差社会を 毛穴で感じる昨今、
疑問ばかりが、やたらと増えて、この国は、従順な勤勉な、お人好しの方々で、健やかに?成り立っている。オカシイ・オカシイが、堂々巡りをしても、個人のチカラでは、どうにもならない。強いリーダーは、今、どちらで育っておりますか?

で、いつものお知らせですよ。
10月3日 土曜日
東祖谷の大枝の武家屋敷で、ジャズフェスタイン 祖谷が 開催されます。
詳細は 主様が 丁寧に 告知して下さいます。多分。
で、真面目に 当日のマクロビオティック料理を、頑張るのは、
『頑張っていても・ガンバっていない様に見える・テキト~シロー・メチャテキトー』
の K四郎。

先日、開催されました、うだつマルシェの、ジビエブースで、 マタギラーメンを 250食 完売して、
頑張らなくても、完売できちゃった~♪頑張らない~頑張らない~と
多分 今頃 図に 乗っている頃だと、思います。

あれは、1ヶ月位前。我が家の前を 一台の軽トラが通り過ぎた。
運転手は テキトーシロー。
チラッと ワタシを見て 一旦停止して、軽トラからユルユル降りてきた。こいつが、
わざわざ車から降りて、話す時は、頼み事か、選挙運動くらい。手の内は、見破られておるわ~
エエイッ、愚か者が~で、斯く斯く然々
『○×△○◎で、鹿肉のチャーシューお願いします』
「その日って、運動会の明くる日じゃよ。チャーシュー炊くのなら、運動会が終わった夕方からじゃよ」
優しく 答え 了解してあげる ワタシ。

『えっ?20日って、運動会?』
シローは 東祖谷小中学校の運動会の日程を、知らなかったみたいだ。
で、テキトーシローは、手帳を取りだし、日程を確認しながら、独り言を言った。
『運動会かぁ~ハイハイそれは、行かないとねぇ~』注※イケイケギャルや、つむじんこちゃんから、
お誘いを正式に 受けていないのに、確実に予定に組み込むテキトーぶり。

そして 運動会は とと虫夫婦)、 オトベエ夫婦、テラオ(独身)ワタシ、うし女2名(独身)、
そして テキトーシローにて、賑やかに終わりました。子供達のキラキラの笑顔が、親の原動力なんですよね。幸せを実感出来た、1日でした。ありがとうね。
で、
3時から、シローと二人で、チャーシューを炊く。
鹿肉五キロ
しし肉 五キロ

ひたすら アクをとる。
『ワタシが、コツコツするから、何か明日の準備したら?』
相変わらず 優しく 言う ワタシ。
テキトーシロー 明日の準備の為に 1時間半くらい何かしら やっていた。
グツグツ 静かにお肉の炊ける音
ほとんど 無音。
どこからともなく、スズメ蜂一匹。
どこからともなく、ハエも一匹。
スズメ蜂も ハエも 気がつくと、いなくなっていた。
チャーシューの味付けをする。
鹿肉の大鍋
しし肉の大鍋
今回の鹿肉、しし肉チャーシューは、ワタシには 初チャレンジ。

完成した頃に どこからともなく、シローが帰ってきた。
別々の小皿に二種類のスープを入れ、味見をしてもらった。
シロー 一回目のスープをペロッ。
ご満悦のお顔で、
『オイシイデスヨ~鹿の味が、ちゃんと、ついてますよ~』

……
……
「Kシローさん、今飲んだの、しし肉じゃよ」
……
Kシロー、笑ってごまかしている。
再び どこかに 消えた。
テキトーシローの テキトーさが 更に パワーアップしていた。オソルベシ?

で、ジャズに来てみてね。同じ屋根のした 様々な人生を歩いている方々が、数時間 同じ空間で
ひとつの調べを 共感する。
時間の贈り物。素敵な空間。
祖谷は 全てが舞台です。そんな 祖谷を 感じて下さいませ。
草 々
追伸 チケットは買え♪











































































2014撮影






















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奥祖谷秋点描 暮らしの仲秋 災害は舌の乾かぬうちに来る

2015年09月18日 | Weblog

堤防決壊、なんとも遣り切れない災害ですね、どこで暮していても安全な場所はない
昨今の自然災害にプラス原発災害と余分なものまで背負って暮らす世のなかになり、住み辛いことですね

福島の原発震災の後処理など何も見えてこないし廃炉に至っては何十年、或いは100年単位で
処理しなければならないことを思うとその膨大な金額を国民の負担となるのは目に見えている
が、再稼動することは、いま、生きている人たちの欲望でもあるのであろう

すべての原発が再稼動ともなれば、増えてくる放射能ゴミをどのようにするのだろう
いままでのゴミでさえ、どのように処分するのかさえ、何も決まってないし、見通しも付いてない
有耶無耶のままに、後世に付けを押し付けるつもりでいるわけだよね、いま、生きているぼくらは
なかなか悪賢くて見切り発車が好きで責任逃れの上手い世渡り上手なんだよね

世のなかの動きや暮らしはネットの急速な普及でずいぶんと変ってしまいました
世界の情報が瞬時に居ながらにしてわかるようになり、どのように動いているのか
ある程度わかるようになり、便利になったのか、不便になったのか判らないけどね

ただ膨大な情報をやりくりして、判ったような、判らないようなことに、何事も有耶無耶にして
やり過ごそうとする社会風潮になったよな、ものごとがそのように流れても普段の暮らしに
なんら不便なこともなく、困ることも格段ないよな

そんなんで、中身がどうなっているか、見えないけれど、何かすれば何かが出てくる
そのようなことが、あまりにも多くなって、ひとの生き方や働き方までずいぶんと
わかりづらくなってしまったよな

ブラックボックスのようなものが彼方此方にやたらとできて、なにか強力な力のようなもので
監視されて暮らすような窮屈は大変だろうなとつくづく思いますな
難しい世のなかについ、弱音を吐きたくなるよね

ひとむかしも、ふたむかしも前のようなシンプルな世のなかや暮らしが懐かしく
なってきますね

しかし、これも世の流れであれば所詮いたしかたないもの、そのままやり過ごして
時間がながれてゆき、最後のゴールに行き着くのでしょうか、きっとそれでいいのだよね

なにげなく撮った写真にすばらしいものが写っていたりして、こころときめかしたり
豊かにしてくれるものであったりしたものならいいのだけどな
でも、なかなかそうもいかないのも人生そのものなのかもしれないよね






咲き初むなべて無垢なり薄かな






























































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奥祖谷秋点描 (番外)松山近郊花の名峰皿が嶺(1271)を歩いて 

2015年09月13日 | Weblog


久方ぶりに九月の空が拝めそうな予感がして花の名峰を歩きに出かけたが朝が早かったためか
雲行きが怪しくなりだした
雨が降る予報ではなかったが、気乗りがしないまま、まあ、予報を信じて歩いてみよう
愛媛の山々は総じて鹿の被害がほとんど無くて、木々や笹など下草が生茂り気持ちよい
山歩きがいまのところ出来ていていいよね

仲秋の皿が峰はひさしぶりで、秋風も爽やかに、もう、随分と歩きやすい季節になったよな
自然林の匂いと花々に囲まれて楽しい時間をすごすことができた



竜神平雲おきて花野あり








































































































































































































































































































竜神平





















愛大小屋






















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奥祖谷秋点描 仲秋の秋 あまだれを聴きて過ぎ行く

2015年09月10日 | Weblog

秋雨前線がはやくから居座りつづけて、九月の青空を見ることなくあまだれを聴きし日が
ずーと続いているよね
ずいぶんと涼しくなって、過ごしやすい、早朝など寒いと思うときもあるね

ひとは生まれてきたからには最後には必ず死ぬよね
生まれてきて死なないひとは絶対にいないよな、この原則に例外は無いよね
わかりきったことだけど

生きている期間は長寿のひとも居るし、ちょっと短いよなというひともいる
それに、ひとり、ひとり、違う人生を生きている、誰ひとり同じ人生ってないよな
これも、あらためて云うこともないか

わき目もせずに一生懸命に生きている人などもいて傍目にも、ああいいよなあ
がんばっているよなと思うよね、ひとそれぞれだけどね

みんな、じぶんを信じてがんばって生きているのは気持ちのいいものだよな
たのしいこと、くるしいこと、かなしいこと、いろいろあるけど、生きて行く時間と
いっしょに、ゴールに近づいていくんだよね

そんななかで、東祖谷に生きているお年寄りの生き方には前々からいいよなと思っていた
どういったらいいのか、なんか丁寧に生活して、丁寧に生きているって感じなんだよね

山里のお年寄りの人たちはゆったりとした時間のなかで、じぶんにできることを
これまた、ていねいにして、楽しんで生きている
ものごとを手いっぱい抱え込むこともない、その時期にすべきことを一つづつ好きな時に
じっくりと身体と相談してていねいにしていくんだよな

今日出来なければ明日があり、明後日がある、殆どのひとは明日がどうなるかなど思わない
2,3、年先はどうなっているか、時には思うこともあるだろうけど、くよくよせずに
大らかであり、楽天的であり、ていねいに生活して丁寧に生きているって感じがするんだよね

何十年と同じことをしているのだろうが、長年の経験、体験、培った智慧で微妙に違う気候を
丁寧に感じとってものごとを適切な時期にちゃんとしているのを見るといいよなあと感心する




名も知らぬ千草を摘みてたなごころ













































































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奥祖谷秋点描 仲秋の秋は深まりて

2015年09月05日 | Weblog

仲秋の秋もさわやかになるといろいろな事柄や風景も次々と変り行くものだよなあ
自然の移り変わりを肌で感じる楽しい季節だよね

ひとは生れ落ちた瞬間から自由なじぶんという個性のある才能と価値をひとしく持って生まれる
じぶんはじぶんであるという自由を持っていて、個性ある才能と価値には優劣、損得でものごとを
判断しない特質を備えている

世の中に出てくると何時しか個性のある才能と価値、自由を見失って他者から与えられた
(親、学校教育、社会常識の規範など)それぞれの価値観で以てじぶんを縛ってしまって
ものごとを判断してしまう
この価値観はものごとに優劣、損得をつけてじぶんを他者より優位に立とうとするよな

ぼくらはあのひととは価値観が合わないから嫌だ、付き合えないとか、考え方が違うからと
端から排除して、優劣をつけて正当化してしまいがちだね

与えられ、得られた価値観を共有できるひと、考え方の合う人、要は相性の合う人との交流ばかりに
なっていたりして、気がつけばじぶんから世界を狭くしている
ひとつの価値観や枠組みに囚われると本来の自由なじぶんの才能と価値をいつしか失くしてしまいがちだ

ある村にAというひとが来て、村人に「この村は暮しやすい村だと聞きましたが、、、」
村人「今までの村は暮しやすかったですか?」
A「はい、暮しやすくて、やさしかったですよ」
村人「そうですか、だったらこの村も暮らし易いよ、みんなやさしいですよ」

しばらくしてBというひとがやってきて「この村は暮らし易いかね?」
村人「いままでの村は暮らしやすかったかね」
B「最悪でしたよみんな不親切でしたよ」
村人「ああ、そうかね、そしたらこの村も最悪ですよ」

という寓話をある記事で読んだことがあり、得られた価値観の違いから
こころの持ち方まで違ってしまうよね

ひとがひとしく持って生まれてきた、最初のじぶんという自由な個性のある才能と価値で
もう一度ものごとを眺めると、案外、ものごとを許容できるものとして受け容れられるかもな

そうすれば、こころ豊かになれるし、おおらかになれて、ひとって捨てたもんじゃあない
いいよなあ、と思えるかもしれないよね


 



ブルースの掠れし歌や長き夜に





踏み入りて花葛ありや荒れ途ぞ





































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奥祖谷秋点描 仲秋の山里は爽やかに 

2015年09月02日 | Weblog

仲秋の声を聞くと、身体にも、ああこれから秋が深まっていくよなあとの
思いになる、大気も澄み渡り爽やかになり暮しよい時候にほっとするよね

夏の疲れが出始めているが、身体と気分を新たにして秋を楽しみたいものだ
食欲の秋、うま酒の秋となり、食べすぎ、飲みすぎには気をつけねばと思う

50歳代半ばすぎまで割合とルーズに生活していた、接待、付き合いで
あまり飲めない酒で飲み屋街を渡り歩き午前様になること毎日であった
まあ、高度成長期であり、交際費は使い放題であり、仕方ないこともあった

その付けは覿面に身体にきた、ぶくぶくの肥満体になってしまった
このままでは成人病になるのは目に見えている

以前から高校の同期会が2,3年おきにに開催していて、時折出ていた
さすがに50歳代になると、健康の話が多く話題にのぼりだしていた

同期には医者になった者がかなり居て、みんなはじぶんの身体について
よく質問していたものだ
ぼくも懇意なやつに、肥満を解消するのにどうすればよいかを聞いた

彼は朝飯、昼飯はしっかり食べて夕食は控えめに質素なものにすればよい
朝と昼は食うや喰わずで晩は豪華に肉や酒のグルメの食習慣をやめて
逆にする食習慣を身につけることだよ

要するに昼間は活動してカロリーを消費して多少の不足気味にする
晩は質素にして控えめに取りカロリーを0かマイナスに維持するだけだよ

運動はよくすることだ、また、予防医学を取り入れて身体を管理すれば
ある程度元気で老後を迎えられるよとの持論であった

彼の持論をぼくはやってみることにした、さすがに夕食控えめはしんどかった
酒は元々あまり飲めないから、それほどではなかった

運動については、それまでアユ釣りを毎週のように本場の高知に出かけていたが
同好の知り合いが亡くなったのを機会に山歩きに転向した

以後、5年あまりの間に肥満は完全に解消した、体重は一定をキープしている
予防医学について彼に病院と医者と病気の上手な付き合い方を教わった

50歳を過ぎれば一年に一回は体のすべての検査をする、良い病院とホームドクターを
見つけ、病気が見つかれば大事にならないうちに治療することなどであった

病気を大きくしないことを彼は力説していた、大事になってからでは医者も神様ではないから
助けてくれと云われてもどうしようもない

なによりも、これから楽しみにしている余生を入院や病院通いに費やすことはもったいない
何のための老後か判らないことになってはつまらないではないか

と云われれば、ぼくにはお気に入りの奥祖谷通いや山歩きを目標にしていたので
身体の管理には気を使って今日まで元気でこれたと思っている

いま、思えば彼の一言がきっかけであった、また、それを素直に曲がりなりにも
ある程度で実行したのもよかったのだろうと思っている
別に、変ったことをしたわけではない、ごく普通の生活習慣を維持しただけなのだが




仲秋の雲広ごりてたなごころ



名峰を盃に浮かべて秋燈下


































































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