秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

春に備えて準備万端

2006年09月30日 | Weblog
肥ぐろに 雪見春待つ 秋の風

祖谷地方の秋の風物詩となっている、肥ぐろは傾斜地が多くて稲作が出来にくい
春に畑に撒く肥となるのがススキである。

晩夏に刈り束ねたものを今頃に畑に立て束ねる、肥ぐろと呼んでいる

雪が積もると冬の風物詩となり、春になれば小さく切って肥になる。
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秋雲と次郎笈とススキと

2006年09月28日 | Weblog
秋雲を 行司として 背比べ

すっかり秋の風情へと変わってゆく塔ノ丸の装い
霧が流れて秋空と雲、風はあくまでも透明で心地よい。

稜線に歩をすすめ、ススキの林立のなか目を移せば
意気がりのススキが次郎笈相手に背比べだ。
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祖谷山系を高みの見物

2006年09月27日 | Weblog
林道 西山ひょうご石ー麦生土線は秋空に澄み渡る
平均標高800mを走る林道は車の行き来も少なく
静かにゆっくりと寛げる。

祖谷山系の盟主 矢筈山はサガリハゲに隠れるが、落合峠ー落禿ー前烏帽子
寒峰と続く山頂と稜線は見事である。

前烏帽子の三角錐は林道からの高みの見物に花を添える。
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小島峠地蔵祀り

2006年09月24日 | Weblog
「小島峠より菅生見ればよ 相も変らぬ徳島よの」

祖谷の里唄に歌われている小島峠の地蔵祀りがあった
旧小島峠に祀っている何百年も経つお地蔵さんにお参りして林道脇の広場で
お坊さんの祈祷で護摩が焚かれて祀りも最高潮に執り行われた。

言い伝えに 菅生屋敷の旦那が徳島から「おしま」という名の女を連れて
峠にさしかかると「おしま」が寂しさのあまり泣き出した。
旦那が「此処から見える菅生も徳島の内じゃあ、何も変わらないではないか」
と言って慰めたと言う。
その後「おしま」の運命がどうなったかは判らないが、菅生集落の人達が
お地蔵さんを峠に祀って「おしま」を偲び、小島峠と呼んだと言う。

近在より大勢の人達がお参りして昔を偲んだ一日であった。
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流れる霧と白骨樹

2006年09月23日 | Weblog
秋の装いを呈してきた山は朝方の冷え込みで霧が流れる

空気は澄んで清々しい、ゆっくりとした足取りで歩く山がいい
眺めては立ち止まり 空気を気遣う。
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焚き火の傍でよもやま話

2006年09月21日 | Weblog
今日 大家の奥さんがお墓参りと畑の整理に池田から帰ってきた

道の下の畑を整理しながら焚き火を始めたので、下りて行き焚き火を眺めながら
奥さんとよもやま話をしばらくした。

74歳ぐらいだが、昔はやはり苦労されているようだ
昔の現金収入はタバコの葉、蕎麦、他家の手伝いなどが主なもので中でもタバコの葉作りは久保周辺80軒のうち70軒が作っていたそうだ、煙草収納所は最初は
大枝集落に後に下瀬に移ったのだが、その頃は車の道は無くまして車も無い時代であったから、タバコの葉を一貫、二貫と背負って収納所まで運んだそうだ。

大家の奥さんも小学校5年ぐらいから手伝い始めたと、夜明け頃に収納所に着くように家を出て赤道を親と一緒に歩いたそうである。
帰って昼食を済ますとまた背負って収納所へと日に二回通ったそうだ。

結婚してからも子供を養うために日に二回通って現金を稼いだと、だから今のお母さんのような子供の虐待、子供殺しなどのような事など考える暇も無く、する暇もなかった。
ほんとにいまは生活が豊かになって暇が有りすぎるから入らぬ事を考えるのではないかと。
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山里はススキ、ソバの花でいっぱい

2006年09月18日 | Weblog
里はソバの花、ススキでいっぱいだ。
台風13号は各地で甚大な被害を出したが、この地方は強風が多少ありそばの花に影響が少しはあるかもしれないが大した被害も無く運動会や小島峠のお祭りが延期になったぐらいでやれやれである。

17日の「西山ひょうごいし」はススキ野原と台風くずれの山景で綺麗であった。
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阿佐集落は平家屋敷

2006年09月03日 | Weblog
祖谷大枝名に落ち延びた平国盛主従は阿佐名に移り屋敷を構え阿佐氏を姓とした
平家屋敷は前方が明るく開けた平坦地で南は阿佐谷に臨んで急斜面、北、東は高く
険しい山を控えた天然の要塞となっている。

祖谷の人々は昔お屋敷のご主人を「おやかた様」と呼び道で出会ったときなど
邪魔にならないように脇によけ土の上に座って挨拶したようだ。

いまの平家屋敷は文久二年(1862)に再建されたもので東祖谷の文化財に指定されている。寄棟造、茅葺きで桁八間半、梁行五間半、下手に一間半に三間半の庇がついている。
間取りは一般民家と異なり中廊下が中央梁通りにあり前後に分割され、奥が生活の場所となり前は役所目的に使用されていたようである。
正面中央に大玄関があり正客の出入り口、下屋敷、上屋敷と続き右に上段の間があり当時の格式を示している。
阿佐家八屋敷のうち、現存しているのはこの平家屋敷と西祖谷の徳膳屋敷のみのようである。(祖谷の語りべ)から抜粋
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800年の時を越えて落人の里

2006年09月01日 | Weblog
大枝集落 文治元年(1185)大晦日屋島の合戦に破れた平家は平国盛を大将に
兵100名で安徳帝を奉じて幾つもの峠を越え寒峰の中腹を踏み分けて大枝名に落ち延びたと説あり。

帝がご所持していた御鉾を納めた鉾神社、平家守護神の鉾を納めて鉾杉を植えて
平家の再興を祈願してすでに800数十年、大枝集落はいまも平家伝説の里として
息づいている。

近年中腹から移築された茅葺き屋根の武家屋敷(喜多家)が建っており
毎年秋(10月)には ジャズフェスタIN祖谷 のイベントが行われる。

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