「お客さん、失礼ですが、こんな雪の日に観光ですか」
温顔の初老のおじさんが、玄関先で迎えてくれた。
僕のスニーカーには重たい雪が貼り付いていて、彼は僕とスニーカーを交互に見て、一瞬ぽかんとしていた。
入ってすぐに囲炉裏の部屋がある。旅番組で見たことがある光景だ。
おじさんは、ストーブの前に新聞紙を重ねて敷いて、その上にスニーカーを置きながら、背中ごしに僕に呟くように話した。
「たつみ時化いうて、必ず雪が降る…」
「たつみしけ?って何ですか」
僕は囲炉裏の前に座りなおして、囲炉裏の赤々と燃える炭火で、手のひらを温めていた。
右奥の台所らしき場所から、上品な面持ちのおばさんが出てきた。
「いらっしゃいませ。こんな吹雪の日に大変だったでしょ。私達の夕飯の残り物で良かったら、食べて下さいよ」
僕の前には豆腐のお味噌汁と野菜の煮物と見たことのない漬物が、出てきた。
おじさんは、僕の前に座り炭を足しながら、目を細め食べなさいと促した
湯気のあがる味噌汁を一口飲んだら、自然と涙がでてきた。涙を人差し指で押さえて、ご飯を口に入れたら、又涙が溢れてきた。
おじさんとおばさんは、黙って僕を見ていた。
「たつみ時化と言うのは、祖谷地方の風習でなあ、12月の辰と巳にする、新仏さんの正月でな、なんでか必ず空が荒れる…時化る…」
2時間位、おじさんとずっと囲炉裏を囲んで、話し込んだ。僕の身の上話を、おじさんはやっぱり唯頷きながら、聞いてくれた。
囲炉裏の中の小枝が小さく響きながら燃え、壁の柱時計が、9回鳴った。
母を失ってから、日常の何気ない時間の隙間で、母が見え隠れする。こうして、誰かと話していたり
バスに揺られていた時間も、母と交わした言葉や、母の最期の時間が、パズルの欠片が舞い降りるみたいに、
僕の頭の中に降り注いでくる。その度に胸が苦しくなって、行き場のない悲壮感に苛まれる。
「明日は除雪車が出るから、東祖谷に私の車でお伴しましょう
これも何かのご縁でしょう、今日はゆっくり休んでください」
おじさんはそう言いながら、隣の自宅らしき場所に帰って行った。
僕は庭に出た。雪は止んでいる。
異空間の様な世界が視界に広がっている。
漆黒の闇は雪明かりで照らされ、対岸には薪の燃え残りの様な民家の灯りが、ぽつりぽつりと灯っていた。
無音の夜があることを、僕は生まれて初めて知った。