松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

教育メモ④

2009-06-15 14:00:18 | Weblog

Q グループ学習、個別学習について
A 「一斉授業」の基盤に立ってこその個別化
子どもの学習・行動が変容していく過程である典型が、一斉授業にあるとすれば、その学習形式が個別の学習形態の基礎ともなるはずなのである。そのような教師や子どもの訓練を抜きにして、学習の個別化や多様化をいたずらに実施しても、ほんとうに成果がえられるかどうかはなはだ疑問である。

Q 一斉授業と子どもの発言について
A 発言する子どもが少ないとか全員が活躍していない、といったたぐいの議論がある。これもやはり集団のなかの相互作用を全く無視した議論である。発言しない子どもは、全くなんの学習をしていないのではない。それどころか、この間にこそ本当の学習をしているのである。
 教師と他の子どもたちのやりとり(コミュニケーション過程)は、も ちろんそれに直接参加する子どもの学習を含んではいるが、実はそれ以上にほかの子どもたちの学習活動にとって重要な刺激として働いているのであり、それ自体がひとつの教材とさえいえるほどである。だから発言が多かったからとか、多くの子どもの学習活動がとりあげられたからといって、その授業がよい授業だったというこにはならない。逆もまた真である。一時間中ほとんど発言しなかった子どもが最も深く考え、よい学習をしていたことはしばしばある。
 跳び箱のうまく跳べない子どもを、他の子どもの前で何回も繰り返し指導して跳べるようにしてやる過程は、ほかの子どもにとって時間のむだどころか、単純な運動をめいめいが平板に繰り返すより、はるかに密度の高い学習となる。
 合唱練習の場合など、ひとつのパートを丹念に指導していると、それを黙って聞いていた他のパートが、何もしないはずなのに、ずっとうまくなってしまったというような例もよく知られていることである。

Q 他の学校の参考になるもの、影響を与える研究会とは
A 他の学校が明日からでも取り入れていけるような実践は、一般的にはどこでもやっている実践であるといえよう。それでは、本当に教師や子どもは変わらない。 今までの多くの研究会に参加してきたが、概してその実践は形式的、概念的なものが多く、見る者を感動させたり、驚かせたりするものは少なかった。ゆえにその実践に憧れ自分や自分の学校の授業に取り入れていくというようなエネルギーが湧かなかった。従って何度も何回もそれらを参観しても、そのことにより自分の授業が変わったり、子どもが変わっ たりすることがなかった。
「追求方式の授業」は授業に具体性とリアリズムがある。およそどんな学習であれ、具体性やリアリズムを欠いては子どもに真の学習が成立するはずはない。 

Q 「授業」概念の形骸化について
A 「与えられたカリキュラムをこなすのに精一杯」、この「ノルマの消化」ということがなによりも教師の意識を占めることによって、授業はその固有の内実(授業でこそ果たされうる教育機能)の側面がともすれば忘れられがちとなる。
いまや授業という言葉は「教授=学習過程」という本来の意味よりも、第一義的には「管理=経営」的な従属的意味の方が強まりつつあるとさえいえよう。
少数の例外はあるが、一般的に「授業によって子どもを変えることができる」という信念の乏しいことである。
教師は極端にいうと「知識」(より正確には「情報」)の伝達のパイプとしてしか捉えられず、教授の質の問題は抜け落ちてしまっている。
したがって授業の質を変えようと思ったら、なによりも上から下ろされて来るカリキュラム=教材の量や質を変えるしかないということになる。

Q 学習課題につて
A 日常性においては、われわれはふつうことばの本来の意味で「考える」ということをしない。「思考」とか「判断」とかいっても、既成概念や一定の反応形式(つまり習慣)に依存して行動しているのである。これが破られて、はじめて本来の思考が起こる。それにはわれわれがある「事件」に遭遇し、あるいは「危機」に追い込まれることが必要である。そうした非日常的場面においてのみ。われわれはふだんことばの表面しか接していなかった物事や世界と、リアルに対面することになる。
これは決して、いわゆる「問題解決学習」を採用せよということではない。そうでなくては、通常はあたりまえあるいは、自明とされているようなこと、あるいはそんな意識にさえのぼらないようなことのなかに最も本質的な課題のひそんでいることを、学習過程の要所要所で発見していくことを指すのである。

Q 教材解釈について
A 日常的な授業を変革していくために、いかに教材のとらえ方が重要かということがわかるであろう。「よい」教材を選んだとしても平板で一般的な「借りもの」の解釈をとおりいっぺんに行っていたのではどうにもならない。まず教師は自分の主体をかけて教材と「出合う」ことが必要である。
授業で本質的に必要なことは、いったいこの教材で何を教えたいのか、なぜこれを選 ぶのか、ということがぎりぎりまで考えぬかれていることである。それは単に将来なに かの役に立つから、とういうような功利主義のレベルを超えた何ものかを持っていなければ教育にならないであろう。単に「そこにあるからだ」式の授業には、子どもも教師もともどもにあきあきしているのである。
そこで大切なことは、子どもにとってどうだから、という以前に、まず教師自身にとってどうだから、という視点、つまり教師と教材との共感(出合い)がもっとも重視されねばならないであろう。


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1 コメント

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今日.... (totoro)
2009-06-15 17:38:30
今日、U先生が久しぶりにこの「松明」を読んだと言っていました。

目の前の仕事に追われ、目の前の子どもの指導に追われ、なかなか思うような学級に育たず.......と、思っていました。でも、この「松明」を読んで、また一歩ずつ前進したいと思いました。

H先生の絵、すごいですね。みんなも、それぞれの持ち場で頑張っているのだと勇気づけられました。

と言っておられました。

まさに、「松明」は、私たちの道しるべです。
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