第二次大戦末期、米軍の空襲では淀川にかかる交通の要所、長良橋と赤川鉄橋とともに柴島(くにじま)浄水場が狙われた。阪急千里線・崇禅寺駅前に浄水場のコンクリート壁面がえぐれた弾痕が保存されている。1945年6月7日の大空襲で浄水場は爆弾、焼夷弾によって沈殿池の一部が破壊、送水ポンプ場の焼失、重要送水管の破壊で市内への送水が不可能となった。
浄水場の駅側壁面の大きな弾痕が保存されている
高射砲陣地があった西淡路
柴島浄水場や延原兵器工場を守るため、昭和10年頃、現在の西淡路5丁目に高射砲陣地が作られた。砲台と弾薬庫が設置され10人ほどの兵隊が常駐した。
砲台は半円を描くように6基が並び、2基は92年にマンション建設のため取り壊された。2012年7月に2基が取り壊されて宅地として売りに出された。19年11月に残る2基が撤去されてしまった。現在、砲台跡地で残る建物は指揮所だけだ。
2019年11に撤去された西淡路の高射砲の砲
高射砲陣地指令所の一部が民家の屋根として使われている
長柄橋橋脚の弾痕がモニュメントに
府立柴島高校は戦後に設立された新設高校だが、戦災を受けた中心に位置する。正門を入った一角に「奪われし者の叫び」の像とその左側に旧長柄橋橋脚の弾痕石によって構成されたモニュメントが設置されている。83年夏、彫刻家金城実先生の指導のもと生徒達自身の手によって創られたものだ。
府立柴島高校の校門には1983年、彫刻家・金城実氏の指導で生徒たちが作った戦災モニュメント「奪われし者の叫び」の像と、空襲で弾痕が残る長柄橋の橋げたも設置してある
大空襲の激しさが刻まれるお寺
この地域の空襲の激しさがお寺や墓地に深く刻みつけられている。
天六方面から長柄橋を渡ってすぐ、浄水場に接するように善教寺がある。6月7日の空襲で当時の辻本真純住職は、上本町にあった勤務先の盲唖学校で2日続きの宿直にあたっていた。帰宅すると夫人は機銃掃射を受けて亡くなり、末の娘も負傷していた。寺に収容された妻を含む58人の遺体は火葬して葬られた。狭い境内と墓地に数十個もの焼夷弾の殻が残っていたという。寺の近くに埋葬されていた58人の遺体を13回忌に掘り出し「柴島浜町戦災犠牲者慰霊塔」を建立して改葬し霊を弔っている。
善教寺に建てられた「戦災犠牲者慰霊塔」
阪急柴島駅前の法華寺は6月15日の空襲で焼夷弾が3発当たり、一瞬にして焼け落ちた。当時10数人の遺体が運び込まれたがまともに見られない悲惨さだったという。古い墓石が赤黒いのは焼けた痕なのか。その異様さに気付くはずだ。
法華寺は6月15日の空襲で焼夷弾3発が命中し全焼、機銃掃射で穴をあけられた六世住職の墓が境内に残っている
室町幕府の将軍足利義教と細川ガラシャの墓があることで知られる崇禅寺には、大空襲で命を落とした500余人を葬る「戦災犠牲者慰霊塔」がある。びっしりと刻まれた名前が空襲の激しさを物語っている。近代的な建造物が空襲を受けた寺院であることを改めて思い起こさせる。本殿の脇に空襲の焼け瓦でつくられた塀がある。
崇禅寺の墓地に建つ戦災犠牲者慰霊塔
東淀川区戦没者之碑は2005年に建てられた
空襲の焼け瓦でつくられた塀(崇禅寺)
山口墓地は近郊7つの共同墓地で、6月7日、ここに逃げ込んだ多くの人々が機銃掃射で撃たれ命を落とした。身元不明者は無縁仏として葬られている。
また、正確には淀川区になるが、浄水場西側の出入口近く、阪急京都線とJR京都線が立体交差する高架に機銃掃射の跡が残っている。
山口墓地には6月7日の空襲時の身元不明者が無縁仏として葬られている
JR京都線高架下に残る機銃掃射の弾痕