自ら学びの場へ~元気が出る研究会
◎行かされる研修
大阪の子の学力が低いのは、先生の指導力がないからだとカンカンになって、教職員の研修が行われている。高い壇上から、お前ら呼ばわりで説教されたこともあるという。
先生たちは、この研修をぜひ受けたい、と自発的に参加したわけではなく、半ば行かされて来たという人が多い。疲れ果てて眠っている人もいる。教育の技術向上ばかりが語られて、子どもの顔が浮かんでこないと言う。帰りには、自分は力のない教師なんだ、とがっくりして重い足を引きずりながら家に向かうと言う。
◎子どもの顔が浮かぶ
人間相手の仕事である我々教師は、学ぶことを忘れたら、教育はマンネリ化して死んでしまう。講演や出版をすると、すばらしい実践をしてきたのだと錯覚されるが、それは違う。この仕事、そう簡単にうまくいったりはしない。
ただ言えることは、学び続けてきたということだけは確かなようだ。自ら文献を広げてそこから学ぶ。子どもや親から学ぶ、職場の仲間からも学ぶ。
だが、これだけでは、井戸の中の蛙になってしまう。私は、作文教育の会、文学教育を学ぶ会、美術や体育の研究会、生活指導研究会、発達研究会、また、臨床教育学会や教育方法学会などの研究会にも足を運んできた。行かされる研修ではなく、自ら学びたくて、身銭をきって出かけてきた。
こういう研究会やサークルに行くと、何と言っても子どもの顔が浮かんできて、反省もしたり、子どもを見直してかわいくもなり、早く子どもに会いたくなって、元気が出る。私は、かけがえのない仕事をしているんだ。まだまだやれることはある。なるほど上手くいかなかったのは、こういうわけがあったのかと実践を振り返り、問題が見えてきて解決への見通しが生まれてくる。やはり元気がでる研修会なのだ。学ぶことは、自分の中に優しさを刻むことなんだと実感してきた。
日本の教育界の大きな財産の一つに、民間教育研究団体の活動がある。多くの優れた実践がそこから生まれ、日本の教育の牽引車の一つになってきたことは、まちがいない。
私自身、新卒以来「なにわ作文の会」というサークルで今も学び続けている。サークルが結成されて今年で60年、先輩たちが営々と築き上げてきたずっしりと重い歴史がある。私もここへ足を運び出して46年目だ。
◎若い仲間も参加
今このサークルに若い仲間がたくさん集まって来ていて、まさに元気をもらい、学び直させてもらっている。
新卒以来10年間学び続けている久美子先生は言う。週末疲れて、家でゆっくりしたいとも思うが、職場の先輩が例会に誘ってくれたからと参加するようになった。先輩の先生たちが、子どもが「かわいい」と言いながら楽しそうに報告したり、ベテランも悩みを語ってくれる姿に、これまた驚いたと言う。以前は、行ける時は行く程度の参加の仕方だったが、今は毎月参加している。
高学年をもった時の実践がうまくいったと満足感を感じていたが、「それは、本当に子どもがしたい活動だったのか」と批判を受け、目が覚めたと言う。「きっちりさせなあかん」「あなたの指導は甘い」などの言葉に焦り、知らぬ間に自分の軸が大きくずれていたのだと気づいたからだ。その時から彼女は、何を置いてもサークルへ学びにやって来る。ホンマモンの学びの姿勢だ。
3年目の壱眞先生も実に意欲的だ。「なにわ作文の会に来たら、初めての人も涙を流しながら自分の話が聴いてもらえる。自分が表現できる場所なんだ」と言う。
彼は、いつも、たくさんの人に声をかけて一緒に行こうと誘う。「ここに行くと、子どもが好きになれるよ。日記や作文を読むと子どもが見えてきて、出会い直しができる。僕は、先輩方の子ども観にふれることで、いつも元気になって子どもたちのところへ戻れるのだ」と。
行かされるのではなく、自ら主体的に参加する研修会、子どもの顔が浮かび、帰る時には元気になって学校へ足が向かう研修会こそが今求められている。
20代の精神疾患の病欠者が全体の7割とも言われている時だからこそ、ぬくーい人間関係の中で、元気の出る学びの場が必要なのだ。
(とさ・いくこ 和歌山大学講師・大阪大学講師)