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西区・港区の戦争遺跡を歩く~関西地図の会主催

2006年08月25日 | 行事のご案内&報告

 7月9日(日)、〈関西地図の会〉主催の戦跡ウォーキングに参加、大阪市西区・港区内に残る戦争に関わる場所を訪ね歩きました。
 西区は明治時代に大阪府庁、大阪市役所があったところで外国人居留地など大阪の政治・経済の中心地でした。港区には一大娯楽施設「市岡パラダイス」や築港高野山もあり、戦前はたいへんな賑わいをみせていました。一方、大阪港には全国各地から軍隊が集結し、アジアへ船出していく一大出征基地でもありました。米軍の空襲(大阪大空襲)の標的になり、西区の約8割、港区のほぼ全域が焼き尽くされした。
           

1.JR環状線西九条駅近くの公園に集合、参加者は50人あまり。ガイドは西区平和展副会長の大森輝夫さんです。公園を出発、まず最初のポイント、安治川トンネルに向かいます。 
   

2.安治川トンネル 此花区と西区の間を流れる安治川の川底に作られた安治川  トンネルは1944年9月建設、西区側にも此花区側にもエレベ-タ-で約17メ-トルの河底に降り、通路を通って対岸で地上に出るようになっていました。当時は車両用と歩行者用のトンネルがありましたが、昭和52年に車両用が閉鎖されました。しかし、歩行者用トンネルは利用頻度が高まり、トンネルとともに西大阪の名物の一つとして今も市民に利用されています。


3.八紘一宇の碑 中央大通りの歩道上に今も「八紘一宇」の石碑が残っています。高さ1mぐらいで碑文には「昭和9年9月21日 関西風水害浸水水位標」と書かれ、室戸台風の時の水位線が95cmを刻んでいます。近くの九条東小学校にも「暴風水害記念誌」がはめ込まれており、当時の高潮のひどさを語り伝えています。

4.波除警防団員戦死者の碑 碑文には「昭和20年の大阪空襲にさいし、当波除  地区において不慮の死をとげられた諸霊に謹んで哀悼の意を捧げここに慰霊  の碑を建立する 波除連合赤十字奉仕団」と書かれています。

5.港区戦災死者有縁無縁精霊碑 「1945年3月13日と6月1日の大空襲により2500余人が犠牲になった」と碑文に書かれています。そのうち市立運動場など公の遺体収容所で荼毘に付された2080人の名簿が「港区空襲犠牲者過去帳」として銅版の箱に密封されてこの碑に奉蔵されています。

6.市立運動場跡 1923年、第6回極東選手権大会のために作られた27000人余収容できるスタジアムがここにありました。(現在の大阪市立中央体育館一帯)戦時中は捕虜収容所として使われ、空襲の犠牲者の多くがここに集められ火葬されました。写真は昼食を終え午後のコースの説明を聞く参加者。

7.港住吉神社 日露戦争での功をたたえる「軍馬の像」があったが、戦中の金属類供出でなくなり、今は台座だけが残っている。鳥居の隣には日露戦争で使われた軍艦の30㎝砲弾2発が「砲弾の碑」として残っています。

8.築港高野山(釈迦院) 戦前は「東の四天王寺、西の築港高野山」と言われ、大変な人出でにぎわった。戦争がはじまると宿坊は軍隊の宿舎となり、遺骨の帰還時の法要を営むなど出征基地の本山的役割を果たしました。大阪大空襲で建物は消失、戦後現在の場所で再建、空襲の熱に焼かれた石像や石碑が残っています。写真のご夫人はかつてこの地に住み、今回戦後初めて、61年ぶりにこのお寺を訪ねてこられた参加者の方です。

9.住友赤レンガ倉庫群 屋上には高射砲が置かれ部隊が駐屯していました。終戦後、倉庫の1室に「咲いた花にスパイは踊る」「一瞬の油断不測の大事を勝ず」などのスローガンを書いた伝単が貼られていたのが発見されています。

10.中央突堤(大桟橋) ここから膨大な部隊、武器弾薬、軍馬、物資が船積みされ、大陸に向けて船出していきました。また遺骨や多くの傷病兵もここに  戻ってきました。

11.天保山の獣魂碑 豚や鶏が処理され食料として戦地に向けて船積みされたこ  とを供養して建てられました。

12.明治天皇観艦記念の碑 日本一低い山(海抜4.5m)の頂上近くに建てられて  います。

●参考図書 大阪戦跡ガイドマップシリーズ 各巻900円
  

●関連サイト
  港区戦争展  

     大阪市教城北支部


 

 

 

 

 

 


 

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