映画『折り梅』を ビデオに録って
亭主と見たのは 年が明けてからだった。
興味もあるから 録るには録ったが
見る気がしなかった。
というより、怖かった。
以前 脳内出血で倒れた 千秋実という俳優が
復帰して ボケ老人を演じた映画を
(たしか、『はないちもんめ』というタイトル)、
姉は 泣けて泣けて まともに見られなかった、
と言っていた。
もちろん 脳梗塞で倒れた父と
二重写しに見えてしまうから。
テレビで放映したのは いつごろだったろう、
私と亭主は 恐る恐る デッキにテープを入れた。
吉行和子の演技が光っていた。
役者ではない人が 不自然で 気になった。
お寺の境内にある 痴呆(認知症)の老人たちの
デイケア施設に通う人たちは
演技をしていなかったと思うが、
自然体で、そして やはり 呆けた顔に見えた。
(実際は役者さんたちだったかもしれないが。)
何人もの通所者や職員が
本堂や墓石が見える境内で 風船バレーに興じていた。
見始めて間もなく、
吉行和子の演じるお婆さんが どんどんボケていく。
それを見るのは 恐ろしい気分だ。
でも これは映画で、演じられているものだと
わかっているから 見ていられる。
そして 亭主が 初めて口を開いた。
「ウチのお婆ちゃんは 早く施設に入れることができて、
よかったな。」
いいはずはないのだ、母親がボケたのだから。
けれど 映像の中の演技は
そういう家族をひとり抱えてしまった家族が
(嫁を演じていたのは 原田美枝子)
どんなに大変かを 映し出していた。
亭主も私も ほっとしていた、というところはある。
「あんなふうになっちゃってからじゃ、
大変だったな。」
私は 画面に目を向けたまま 深く頷いた。
歌手の加藤登紀子演じる先生の言葉がある。
「人は 誰かに 認められている と 思えなければ
生きてゆけません。
そばにいる人に ありのままでいいんだ と
受け入れてもらう事が 必要なんです。」
この言葉は なにも 認知症の人に限ってのみ
言えるものではない。
実は
私は本当に必要とされているのだろうか、
存在する価値があるのだろうか、
何にも役に立ってやしないんじゃないか、
本当は いなくてもいいんじゃないか、
と思っている私には
特にこたえた。
義母やら 自分自身やら・・・・・・。
悲しく胸を打つ言葉だった。
亭主と見たのは 年が明けてからだった。
興味もあるから 録るには録ったが
見る気がしなかった。
というより、怖かった。
以前 脳内出血で倒れた 千秋実という俳優が
復帰して ボケ老人を演じた映画を
(たしか、『はないちもんめ』というタイトル)、
姉は 泣けて泣けて まともに見られなかった、
と言っていた。
もちろん 脳梗塞で倒れた父と
二重写しに見えてしまうから。
テレビで放映したのは いつごろだったろう、
私と亭主は 恐る恐る デッキにテープを入れた。
吉行和子の演技が光っていた。
役者ではない人が 不自然で 気になった。
お寺の境内にある 痴呆(認知症)の老人たちの
デイケア施設に通う人たちは
演技をしていなかったと思うが、
自然体で、そして やはり 呆けた顔に見えた。
(実際は役者さんたちだったかもしれないが。)
何人もの通所者や職員が
本堂や墓石が見える境内で 風船バレーに興じていた。
見始めて間もなく、
吉行和子の演じるお婆さんが どんどんボケていく。
それを見るのは 恐ろしい気分だ。
でも これは映画で、演じられているものだと
わかっているから 見ていられる。
そして 亭主が 初めて口を開いた。
「ウチのお婆ちゃんは 早く施設に入れることができて、
よかったな。」
いいはずはないのだ、母親がボケたのだから。
けれど 映像の中の演技は
そういう家族をひとり抱えてしまった家族が
(嫁を演じていたのは 原田美枝子)
どんなに大変かを 映し出していた。
亭主も私も ほっとしていた、というところはある。
「あんなふうになっちゃってからじゃ、
大変だったな。」
私は 画面に目を向けたまま 深く頷いた。
歌手の加藤登紀子演じる先生の言葉がある。
「人は 誰かに 認められている と 思えなければ
生きてゆけません。
そばにいる人に ありのままでいいんだ と
受け入れてもらう事が 必要なんです。」
この言葉は なにも 認知症の人に限ってのみ
言えるものではない。
実は
私は本当に必要とされているのだろうか、
存在する価値があるのだろうか、
何にも役に立ってやしないんじゃないか、
本当は いなくてもいいんじゃないか、
と思っている私には
特にこたえた。
義母やら 自分自身やら・・・・・・。
悲しく胸を打つ言葉だった。