愛媛県松山市出身で静岡市在住の宇都宮さんからの情報で平成19年5月16日現地取材に車で行きました。
松山市から車で行きましたが、静岡県に入ってから幾ら走っても静岡県で嫌になりました。
洞慶院での石碑取材後は、富士山を一周して帰りました。
御殿場から、河口湖に出て田貫湖で富士山を取り帰路に付きました。
さて、石碑の所在地は、静岡県静岡市葵区羽鳥にある洞慶院の参道に建立されていまして、揮毫は、二人が行っております。
一人は秋山好古でもう一人は豊邉新作です。
篆 書「忠魂」を好古が揮毫し、題書「愛馬追悼碑」を新作が揮毫しています。
建立者は、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵、静岡市の出身で実家は薬局を営み金蔵自身も自宅で馬を飼い可愛がったそうです。
軍人は、皇国から与えられた機器と自分の健康管理に気を付け、いざ有事に備えて日頃の訓練をしていれば良かったが、騎兵隊員は、その上に軍馬の飼育と管理が大変な役割がありました。
軍馬なくて騎兵隊員は陸に上がったカッパであります。
よって騎兵隊員は大変馬を可愛がったと言われています。
秋山好古も東京の自宅で馬を飼っていました。
当時の東京市の一部では自宅で馬を飼ってはいけない条例が施行され好古は、馬を飼ってもいい地区に移転してまで馬を可愛がったそうで、大正13年松山の北豫中学校長として帰郷した時、松山でも馬を飼うのではないかと心配して内緒で東京から馬蹄さんが松山に来て様子を見たが流石に好古も松山では馬を飼わず馬蹄さんは東京に帰ったそうです。
三浦金蔵さんも静岡の自宅で馬を飼い大変可愛がっていたと伝えられています。
その為にこの石碑を建立したのでしょう。
石碑の題書「愛馬追悼碑」の揮毫者、豊邉新作は、秋山好古が最も信頼をした副官で、好古が教育総監時代、騎兵監をしていました。
新作は、新潟県長岡の出身で、有名な長岡藩筆頭家老の河井継之助の従兄弟の子供です。
豊邊新作の父と長岡藩家老、河井継之助は従兄弟同士であります。
静岡県静岡市葵区羽鳥にある洞慶院の参道に建立されている「愛馬追悼碑」
建立は、大正8年4月3日、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵
石碑の大きさ、高さ、1,65cm 横幅、82cm 厚さ、13cm
揮毫は、
陸軍大将正三位勲一等功二級 秋山 好古 篆書
陸軍中将従三位勲二等功三級 豊邊 新作 題書
好古揮毫の石碑は、現在52基発見されていますが、二人が揮毫しての石碑は2基だけです。もう一つは先月、長野県安曇野市で発見された石碑です。(来春取材に伺う予定)
秋山好古 篆書 豊邊 新作 題書とありますが、篆書(てんしょ)とは、 石碑などの上部に篆書体で書かれた題字の事であります。
秋山好古が篆書体で「忠魂」と揮毫して、豊邊新作が題書として「愛馬追悼碑」を揮毫しております。
この石碑の刻印は浅く文字が良く読みにくいです。
秋山好古が揮毫した篆書体での「忠魂」を切り取り表示しました。
洞慶院の境内は広く、駐車場も十分に確保してあり、梅の樹が沢山植栽されていました。花の時期には観光バスで大勢の人が訪れるそうです。梅の名所だそうです。
曹洞宗久住山の寺院、洞慶院の本堂、庫裏をはじめ沢山の建物がありました。
洞慶院の案内図。
静岡市には洞慶寺と言うお寺が有り間違いそうです。
取材後富士山を一周して帰り、その時田貫湖から撮った富士山です。
取材後富士山を一周して帰りました。その時田貫湖から撮った富士山です。
富士山の中腹からダイヤモンド富士になりました。年に2回山頂から朝日が出てダイヤモンド富士が撮影されるそうです。
松山市から車で行きましたが、静岡県に入ってから幾ら走っても静岡県で嫌になりました。
洞慶院での石碑取材後は、富士山を一周して帰りました。
御殿場から、河口湖に出て田貫湖で富士山を取り帰路に付きました。
さて、石碑の所在地は、静岡県静岡市葵区羽鳥にある洞慶院の参道に建立されていまして、揮毫は、二人が行っております。
一人は秋山好古でもう一人は豊邉新作です。
篆 書「忠魂」を好古が揮毫し、題書「愛馬追悼碑」を新作が揮毫しています。
建立者は、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵、静岡市の出身で実家は薬局を営み金蔵自身も自宅で馬を飼い可愛がったそうです。
軍人は、皇国から与えられた機器と自分の健康管理に気を付け、いざ有事に備えて日頃の訓練をしていれば良かったが、騎兵隊員は、その上に軍馬の飼育と管理が大変な役割がありました。
軍馬なくて騎兵隊員は陸に上がったカッパであります。
よって騎兵隊員は大変馬を可愛がったと言われています。
秋山好古も東京の自宅で馬を飼っていました。
当時の東京市の一部では自宅で馬を飼ってはいけない条例が施行され好古は、馬を飼ってもいい地区に移転してまで馬を可愛がったそうで、大正13年松山の北豫中学校長として帰郷した時、松山でも馬を飼うのではないかと心配して内緒で東京から馬蹄さんが松山に来て様子を見たが流石に好古も松山では馬を飼わず馬蹄さんは東京に帰ったそうです。
三浦金蔵さんも静岡の自宅で馬を飼い大変可愛がっていたと伝えられています。
その為にこの石碑を建立したのでしょう。
石碑の題書「愛馬追悼碑」の揮毫者、豊邉新作は、秋山好古が最も信頼をした副官で、好古が教育総監時代、騎兵監をしていました。
新作は、新潟県長岡の出身で、有名な長岡藩筆頭家老の河井継之助の従兄弟の子供です。
豊邊新作の父と長岡藩家老、河井継之助は従兄弟同士であります。
静岡県静岡市葵区羽鳥にある洞慶院の参道に建立されている「愛馬追悼碑」
建立は、大正8年4月3日、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵
石碑の大きさ、高さ、1,65cm 横幅、82cm 厚さ、13cm
揮毫は、
陸軍大将正三位勲一等功二級 秋山 好古 篆書
陸軍中将従三位勲二等功三級 豊邊 新作 題書
好古揮毫の石碑は、現在52基発見されていますが、二人が揮毫しての石碑は2基だけです。もう一つは先月、長野県安曇野市で発見された石碑です。(来春取材に伺う予定)
秋山好古 篆書 豊邊 新作 題書とありますが、篆書(てんしょ)とは、 石碑などの上部に篆書体で書かれた題字の事であります。
秋山好古が篆書体で「忠魂」と揮毫して、豊邊新作が題書として「愛馬追悼碑」を揮毫しております。
この石碑の刻印は浅く文字が良く読みにくいです。
秋山好古が揮毫した篆書体での「忠魂」を切り取り表示しました。
洞慶院の境内は広く、駐車場も十分に確保してあり、梅の樹が沢山植栽されていました。花の時期には観光バスで大勢の人が訪れるそうです。梅の名所だそうです。
曹洞宗久住山の寺院、洞慶院の本堂、庫裏をはじめ沢山の建物がありました。
洞慶院の案内図。
静岡市には洞慶寺と言うお寺が有り間違いそうです。
取材後富士山を一周して帰り、その時田貫湖から撮った富士山です。
取材後富士山を一周して帰りました。その時田貫湖から撮った富士山です。
富士山の中腹からダイヤモンド富士になりました。年に2回山頂から朝日が出てダイヤモンド富士が撮影されるそうです。