EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑紀行 8 静岡市の碑

2015年11月25日 | 伊予松山歴史散策
愛媛県松山市出身で静岡市在住の宇都宮さんからの情報で平成19年5月16日現地取材に車で行きました。
松山市から車で行きましたが、静岡県に入ってから幾ら走っても静岡県で嫌になりました。
洞慶院での石碑取材後は、富士山を一周して帰りました。
御殿場から、河口湖に出て田貫湖で富士山を取り帰路に付きました。
さて、石碑の所在地は、静岡県静岡市葵区羽鳥にある洞慶院の参道に建立されていまして、揮毫は、二人が行っております。
一人は秋山好古でもう一人は豊邉新作です。
篆 書「忠魂」を好古が揮毫し、題書「愛馬追悼碑」を新作が揮毫しています。
建立者は、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵、静岡市の出身で実家は薬局を営み金蔵自身も自宅で馬を飼い可愛がったそうです。
軍人は、皇国から与えられた機器と自分の健康管理に気を付け、いざ有事に備えて日頃の訓練をしていれば良かったが、騎兵隊員は、その上に軍馬の飼育と管理が大変な役割がありました。
軍馬なくて騎兵隊員は陸に上がったカッパであります。
よって騎兵隊員は大変馬を可愛がったと言われています。
秋山好古も東京の自宅で馬を飼っていました。
当時の東京市の一部では自宅で馬を飼ってはいけない条例が施行され好古は、馬を飼ってもいい地区に移転してまで馬を可愛がったそうで、大正13年松山の北豫中学校長として帰郷した時、松山でも馬を飼うのではないかと心配して内緒で東京から馬蹄さんが松山に来て様子を見たが流石に好古も松山では馬を飼わず馬蹄さんは東京に帰ったそうです。
三浦金蔵さんも静岡の自宅で馬を飼い大変可愛がっていたと伝えられています。
その為にこの石碑を建立したのでしょう。
石碑の題書「愛馬追悼碑」の揮毫者、豊邉新作は、秋山好古が最も信頼をした副官で、好古が教育総監時代、騎兵監をしていました。
新作は、新潟県長岡の出身で、有名な長岡藩筆頭家老の河井継之助の従兄弟の子供です。
豊邊新作の父と長岡藩家老、河井継之助は従兄弟同士であります。


静岡県静岡市葵区羽鳥にある洞慶院の参道に建立されている「愛馬追悼碑」
建立は、大正8年4月3日、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵
石碑の大きさ、高さ、1,65cm 横幅、82cm 厚さ、13cm


揮毫は、
陸軍大将正三位勲一等功二級  秋山 好古 篆書
陸軍中将従三位勲二等功三級  豊邊 新作 題書
好古揮毫の石碑は、現在52基発見されていますが、二人が揮毫しての石碑は2基だけです。もう一つは先月、長野県安曇野市で発見された石碑です。(来春取材に伺う予定)
秋山好古 篆書 豊邊 新作 題書とありますが、篆書(てんしょ)とは、 石碑などの上部に篆書体で書かれた題字の事であります。
秋山好古が篆書体で「忠魂」と揮毫して、豊邊新作が題書として「愛馬追悼碑」を揮毫しております。


この石碑の刻印は浅く文字が良く読みにくいです。
秋山好古が揮毫した篆書体での「忠魂」を切り取り表示しました。


洞慶院の境内は広く、駐車場も十分に確保してあり、梅の樹が沢山植栽されていました。花の時期には観光バスで大勢の人が訪れるそうです。梅の名所だそうです。


曹洞宗久住山の寺院、洞慶院の本堂、庫裏をはじめ沢山の建物がありました。


洞慶院の案内図。
静岡市には洞慶寺と言うお寺が有り間違いそうです。


取材後富士山を一周して帰り、その時田貫湖から撮った富士山です。


取材後富士山を一周して帰りました。その時田貫湖から撮った富士山です。
富士山の中腹からダイヤモンド富士になりました。年に2回山頂から朝日が出てダイヤモンド富士が撮影されるそうです。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国カルスト「鳥形山」

2015年11月24日 | 伊予松山歴史散策
先般所要で久万高原町中組(旧面河村)にある三社神社の小野宮司さん宅を伺い天候が良かったので最近行ったことがなかったので面河渓谷に行き、欲張って四国カルスト、それも鳥形山の現在の姿を見たく行ってみた。
鳥形山は、日本最大級の石灰岩の採掘がおこなわれており山の形が年々変わっている。
鳥形山の所在は、高知県吾川郡仁淀川町にあり、標高1,459mあったが、(鳥形山は天狗高原を経て大野ケ原に至る四国カルスト地形で、県立自然公園に属していたが、開発に伴い、県立自然公園の指定を解除された。)現在は採掘により標高12200mになっている。採掘方法は露天掘りで、我が国鉱山最大クラスの重機を導入し、安全で効率的な採掘を行っており運搬には、180㌧ダンプを使用している。採掘された石灰岩が鳥形山から全長23kmを九基のベルトコンベヤーで地下を須崎港まで運搬されている。
日本は地下資源の乏しい国であるが、セメントの原料は100%国内で調達出来る唯一の資源である。
鳥形山の石灰岩発掘は、昭和46年から開始されこの当時の鳥形山をみてその後見てない人々は山が無くなった感じがします。私も3年前に東雲女子大学の主催の自然観察教室で四国カルストに行きましたが鳥形山の姿を見る事は出来なかったので、今回改めて行ってみました。
四国カルスト台地には、「四国カルスト公園縦断線」愛媛県側は県道383号線、高知県側は県道48号線です。高知県側の天狗荘と愛媛県側に姫鶴平が有りますが、その中間位に展望台(駐車場から徒歩8分ほどの所)があります。此処までいかないと現在の鳥形山を見る事は出来ません。
先日(11月20日)行きました四国カルスト台と鳥形山です。
四国カルストは、日本三大カルストの一つで、平尾台(福岡県)・秋吉台(山口県)その中でも標高が一番高く眺望がいい台地である。この大地は、大野ヶ原・五段高原・姫鶴平・天狗高原を総称して四国カルストと呼び愛媛県と高知県に跨っている。


国道33号線久万高原町落出から国道440号線に入り地芳峠から県道383号線に入り約15分走行すると姫鶴平に出る。落出から姫鶴平まで約45分かかる。国道440号線は片側一車線ありいい道であるが、県道383号線は道が狭いので走行気を付けて。


愛媛県側にある姫鶴平、この地から石鎚山をはじめ愛媛・高知両県の山並みが一望できる。天候が良ければ太平洋、宇和海が観る事が出来る。


姫鶴平から見た西日本最高峰「石鎚山・1982m」


望遠で撮った石鎚山。


県境にある中津明神山山頂にある巨大雨量レーダー。
標高、1540m。


四国カルストは四国の屋根と言われ非常に景観の良い所である。


高知県と愛媛県の県境に立つ天狗荘で、フロントが高知県側にあるからか所在は高知県であるのでしょうか?。


天狗荘の建物の前にある県境を表す白線で表示してある。高知県で食事をして、愛媛県で宿泊する。


四国カルストは石灰岩がいたる所に地表に出ている。


さて此れから現在の鳥形山を見る事にしよう。
天狗荘と姫鶴平の中程に見晴台(東屋)がありますが、それより奥に展望台があり「天狗高原」と揮毫された石碑があります。此処まで行く必要ありです。


此れが展望台で面積は狭い場所です。「天狗高原」の石碑在り。


「天狗高原」から見た鳥形山で、左の建物が「天狗荘」その後ろの山の奥に鳥形山がそびえていたが、今は見る影もない。


画像右に白く大地が見えますがこれが鳥形山です。


望遠で撮ると露天掘りが行われている箇所が見えます。
世界の石灰岩生産量は第3位で、米国・中国に次いで、セメントの生産高は世界第2位、中国・日本・米国である。


なおアップに撮ると重機が見えます。
日本各地で石灰岩の採掘が行われているが何時かは無くなる。この鳥形山も地図から消えるでしょう。


更にアップに撮ると。


更にアップに撮ると180㌧ダンプらしき車両が見える。
露天掘りした石灰岩が立坑で下に降ろし23km先の須崎まで九基のベルトコンベヤーで輸送している。全ての設備費は一千億円掛かったと言われている。
興した会社は、日鉄鉱業株式会社です。


四国カルストにも風力発電施設があった。


天狗荘から貰ったマップです。赤丸地点からでないと鳥形山は見えない。・・但し愛媛県側からですので誤解の無いように。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛媛すごいもの博2015松山

2015年11月23日 | 伊予松山歴史散策


愛媛県内最大級の産業の祭典「愛媛すごいもの博2015松山」が11月21(土)・22(日)2日間、「松山市城山公園・やすらぎ広場・(旧伊予松山三之丸)」で、博・食・市が開催された。経済の沈滞打破を目指して地方が元気でないと!!産業の力で、愛媛を元気に、愛媛・松山産業まつり・!!が盛大に開催された。
2日間とも好天気に恵まれ特に21日は、暖かい一日であった。
会場には、博・食・市で博は、愛媛の産業・展示&体験!愛媛の花き展・伝統工芸の実演・グリーン・ツーリズムの体験等!!
食は、産地直送旨いもの食堂!食欲の秋・愛媛県内の選りすぐりグルメが大集合!!
市は、愛媛と松山の特産・物産市!地産地消!旬の果実・野菜・農林水産加工品等の販売!!247の各展示場が設営し、すごいもの博に来た行楽客はお目当てのゾーンで食べ物を買い家族団らんの一時を楽しんでいた。
メインステージでは、21日(土)、吉本のお笑いライブ、「ザ・ぼんちダイアン」、のライブがあり、それゆけアンパンマンショー、爆笑!オンステージ「小島よしお・手賀沼ジュン」22日(日)は、ナノキュンーライブステージ、中村あゆみライブステージ・ダイヤモンド・ユカイのライブ等々があった。
松山市海外友好都市から、アメリカのサクラメント市・ドイツのフライブルグ市・韓国の平澤市、台湾(中華民国)から台北市、国内からは、宮城県東松島市・横須賀市よこすか海軍カレー・奈良県斑鳩町・熊本市・石川県小松空港協議会・千葉県成田空港周辺地域振興協議会・新潟県燕市・東京都新宿・埼玉県東松山市・広島県広島市・呉市・廿日市市・江田島市・の県市からブースを出していた。

21日の様子の画像です。


愛媛すごいもの博2015ゲートに掲示された各展示一覧表。


愛媛すごいもの博2015ゲート正面入り口好天に恵まれ多くの家族ずれが訪れた。


松山市の姉妹都市・友好都市の出展。
アメリカのサクラメント市・ドイツのフライブルグ市・韓国の平澤市。


今年も来ました横須賀市から「よこすか海軍カレー」秋山眞之も食べたであろう―。横須賀市は戦艦三笠公園があり、日本海海戦では秋山眞之が旗艦三笠に乗り専任で作戦を計画した。その関係で松山市と友好都市を結んでいる。


神奈川県横須賀市のある戦艦三笠公園。「皇国興廃在此一戦」その横に立つ「東郷平八郎」。丁字戦法を立案し、「皇国の興廃この一戦にあり各員一層奮励努力せよ・本日天気晴朗なれども波高し」そしてZ旗を揚げた。この名文を草案した陸海軍きっての文才、秋山眞之と深い関係がある横須賀市と松山市である。


此方は、奈良県斑鳩町。法隆寺の街で「柿くへば鐘がなるなり法隆寺」正岡子規が詠んだ有名な句。子規との関係で松山市と友好都市を結んでいる。
斑鳩町は、竜田揚げの発祥の地だそうです。昨日斑鳩町の職員から聞き初めて知りました。地元の方もこの事は余り知られてないそうです。
また立派な子規庭園が造られているそうです。


愛媛県愛南町の観光大使。


此方のお嬢さんは、愛媛県鬼北町の観光大使、しっかりと観光啓発をして帰って下さい。


愛媛すごいもの博2015特設舞台。丁度それゆけアンパンマンショーが行われていて子供ずれの若い親子が楽しく見ていた。


それゆけアンパンマンショー、子供さんに大人気でした。


愛媛すごいもの博2015会場内にNHK松山放送局があり、NHKも愛媛すごいもの博に協賛して局舎広場に特設舞台を設けていろんな行事を開催していた。画像は、その掲示板。


正午近くになると参加者は自分の好みの食を見つけて美味しそうに昼食を取り食卓は何処も満席。


私は、「よこすか海軍カレー」と愛媛県西条市にあるアサヒビールを美味しく頂きました。この日は気温が高く汗ばむ陽気で特にビールが美味しかったです。


「よこすか海軍カレー」を食べた後、何故か引き寄せられるように「伊豫からあげ」店に行って買いました。


「伊豫からあげ」店には画像の承認書が掲示してありました。発行者は「えひめ愛フード推進機構 会長中村時広(愛媛県知事)でした。


「伊豫からあげ」流石に「えひめ愛フード推進機構 会長中村時広」から認証を受けただけあって美味しかったです。その後、宇和島市のやはり愛媛県中村知事が力を入れている、愛媛みかんを飼料に取り入れて養殖している「鯛」です。その鯛の串焼きを食べて会場を後にしました。


伊予松山15万石の二之丸から見た三之丸で、愛媛すごいもの博2015会場です。藩政時代の政治経済の拠点であったが、現在も産業経済の推進の発信拠点です。一時期は陸軍歩兵第22連隊の軍事施設がありました。昭和28年第8回国民体育大会四国国体が開催された時ここで開会式が行われました。2年後、平成29年には第72回愛媛国体が開催されます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東雲女子大学・短期大学 クリスマス・ツリー 点灯式

2015年11月22日 | 伊予松山歴史散策

一昨日(11月20日・金曜日)松山市桑原町にある東雲女子短期大学準教授から上記の点灯式が開催されると連絡を受け撮影に行ってきた。
今年の松山は、温暖で昨日(20日)松山市は最高気温20、3度あり西日本最高峰「石鎚山」には冠雪がない。例年はこの時期は冠雪している。
さて、東雲女子大学の中庭にあるクリスマス・ツリーは高さ10メートルの大樹に、約7,000球のLEDイルミネーションが電飾された。
一昨年は点灯式には全部の電飾に点灯できず不成功であったが、今年は完全点灯出来た。今年はツリーの地面にもLEDイルミネーションが電飾され豪華であった。

点灯式典は午後6時30分から聖歌隊による賛美歌斉唱で始まり、今年から宗教主事さんが変わられ新しい宗教主事、水島祥子さんの招きの言葉があり、点灯式は始まった。今年はオカリナ演奏がされ一層優美な雰囲気の中賛美歌を斉唱の中、クリスマスツリーに点灯された。
今年は今までにない大勢の市民が点灯式典に参加され豪華なクリスマスツリーに点灯されると大きな声援が起こった。その後大学から暖かい飲み物の振る舞いがあった。
今夜の松山は気温が高く最高の点灯式には絶好の天候の下無事終了された。
クリスマスツリーの点灯は、今日から4週間点灯されるそうです。

画像は、昨晩開催された松山東雲学園桑原キャンパスのクリスマスツリーの点灯で、松山市恒例の風物詩となっている。今年もクリスマスツリの時期になった一年の経過が早い。


クリスマス・ツリー点灯式次第。


東雲女子大学の聖歌隊の賛美歌斉唱で「クリスマス・ツリー点灯式」は始まった。


点灯式には大勢の市民が集まり厳かに行われた。宗教主事、水島さんの導きで集まった市民一人一人にローソクが配られその明かりで賛美歌を合唱した。


東雲女子大学の聖歌隊による、賛美歌264番「きよしこの夜」も歌われた。


点灯式に集まった市民。
昨年は、宗教主事から式典中は写真撮影のストロボはたかないように厳重注意があったが、今年の宗教主事さんから注意が無かったので一枚だけ遠慮しながらストロボ撮影をさせて頂いた。


予告なしの点灯に暗闇が一瞬にして明るくなり参加者から驚きの声が起こった。


大学の中庭にある大きな樹と傍にある小さな三つの木にも電飾が飾られ脇役に
徹した演出。


クリスマス・ツリーの上にお月さんがほほ笑んでいるかのように現れた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋山好古揮毫石碑紀行 7 千葉県船橋市の碑 

2015年11月21日 | 伊予松山歴史散策
平成17年習志野市から松山の秋山兄弟生誕地にお越しになった方からの情報を頂き、平成17年9月11日、事前に陸上自衛隊習志野駐屯地に写真取材の申請をして取材した。
石碑の所在地は、千葉県船橋市薬円台三丁目20番1号、陸上自衛隊習志野駐屯地である。
この地は、陸軍騎兵学校の前身である陸軍乗馬学校があった。明治21年東京市麹町区元衛町に創立、同24年に東京府荏原郡目黒村上目黒(現在の目黒区大橋二丁目)に移転、明治31年陸軍騎兵実施学校となり大正5年12月千葉県千葉郡二宮町(現在地船橋市)に移転、翌6年9月陸軍騎兵学校と改称された。習志野は、日本騎兵の中枢だったため軍馬慰霊碑が騎兵学校に建立された。日本騎兵の父と言われた第2代目騎兵学校長・秋山好古大将が揮毫して建立された。
題字は、好古が入院直前、昭和5年10月5日の筆で此れが秋山好古の絶筆である。石碑は、昭和5年11月に建立された。
昭和11年11月1日秋山好古大将伝記刊行会発行「秋山好古」の背文字は、その署名を写したものである。


軍馬慰霊之碑の揮毫は、昭和5年10月5日の筆で、これが好古の絶筆、入院直前に揮毫した。石碑の建立は昭和5年11月である。好古はこの立派な石碑を見ることなく逝去した。
秋山好古は、昭和5年3月、郷里松山の「北豫中学校・現、愛媛県立松山北高等学校」校長を退職し子供と奥様の待つ東京に帰るが、体調が悪化し同年11月4日、東京陸軍病院で逝去、72歳の大往生、教師として社会に出て軍人の生活が長かったが最後は教師として世を終えた。
大正12年4月元帥に推薦せれるも此れを辞退した。辞退した事に付いて大元帥(大正天皇)は大変驚かれ、大元帥は、特旨として官位従二位を好古に与えた。大正13年郷里伊予松山から北豫中学校長就任の強い要請にこたえ6年間校長を務め松山の青少年の教育に功績を残した。好古の信条は「簡単明瞭、質素倹約、」座右の銘は「独立自尊」尊敬する人物は福沢諭吉であった。人間幾つになっても教育が大切・・生涯教育である。72歳を生き抜いて来た好古の生き方に感銘する全国の秋山好古を尊敬する皆さんが今も秋山兄弟生誕地にお越しになって好古が生きて来た過程を思い偲んでおられる。そして兄の生き方を見て育った弟眞之がいた。本人たちも世の為、人の為、故郷の人の為になるようにと育てた両親が凄いと思う。来館された方々もその事を語られる。


揮毫者、秋山好古の名前を切り抜き大きくした。


軍馬慰霊之碑の前にある「軍馬慰霊の塔」


御馬見所(現、空挺館)
軍馬慰霊之碑の前に御馬見所(現、空挺館)がある。
陸軍騎兵実施学校は東京目黒に置かれていた頃、明治天皇は騎兵実施学校の卒業式をはじめ、しばしば実習を天覧された。明治44年高齢になられた天皇のために騎兵操兵・馬場馬術などを展覧するための施設である御馬見所が建てられた。騎兵実施学校が大正5年船橋に移転し、同時に拡大され騎兵学校と改称、此れに伴い御馬見所も解体移築された。この建物に天皇の登台は都合4回に及んだ。御馬見所は晩年の天皇の体力に合わせて設計されており、入口を入ると真っ直ぐ緩やかな階段となり、バルコニーの手前に出るようになっていて内部の装飾は質素な中にも天皇の品位を保つ格調の高いものとなっている。


画像は御馬見所バルコニー内部。


御馬見所(現、空挺館)二階展示室にある歴代の騎馬学校長の写真が掲示されている。秋山好古は第2代目校長を務めた。


此れからの画像は、平成24年10月31日、新潟市の北方博物館と好古揮毫の「忠魂碑」見学に行った時、習志野市にも立ち寄り研修した。習志野市大久保の皆さんが歓迎表示板を創って頂き歓迎して貰った。学園大久保商店街資料館前にて。


習志野市にある東邦大学正門で、旧騎兵第14連隊跡である。


習志野市にある東邦大学校内に秋山好古時代に使われた騎兵隊兵舎が現存しており現在は、柔道と空手の武道場として使われている。明治時代の由緒ある建造物のため、東邦大学は永久保存にする事を決定された。その建物を見学した。


東邦大学漢学の後陸上自衛隊習志野駐屯地を見学した。ここに好古が揮毫しその筆が絶筆となった石碑を顕彰するために伺った。
習志野市学園大久保の皆様と秋山兄弟生誕地の研究員。秋山好古絶筆となった「軍馬慰霊之碑」の前で、好古を偲びながら。


駐屯地の中には、日本騎兵之碑が建立してあった。日本の騎兵は秋山好古が育てその機能が充実した場所がここであるから。


見学を終え陸上自衛隊習志野駐屯地の正面玄関で。


陸上自衛隊習志野駐屯地からJR津田沼駅寄りで、好古が習志野時代に過ごした官舎の後、現在は画像の様になっている。NHK坂の上の雲ドラマで、秋山眞之が白の軍服姿で妻季子の迎えを受け亡くなった母を見舞いに来る場面がありましたが、この地に眞之は来たのです。


習志野から東京に出て最後に青山霊園にある好古の墓所をお参りして今回の研修の成果を報告して帰松した。今回は良い勉強をさせて頂きました。
新潟市、習志野市の皆さんその節は大変お世話になりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする