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松山市内の銅像巡り14 V・Aボイスマン大佐 像

2014年06月02日 | 伊予松山歴史散策
V・Aボイスマン大佐 像

ワシリー・ボイスマン大佐は、ロシア帝国太平洋艦隊の戦艦ペレスヴェートの艦長。
ロシア帝国は、朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部を支配し、南下政策を試みそれを阻止しようとして発生したのが日露戦争である。時は、明治37年2月8日であった。ロシア帝国は、日本海制海権確保するために皇帝ニコライ二世は、明治37年10月15日、ロシア帝国太平洋第2艦隊を、明治38年2月16日、太平洋第3艦隊が、リバウ軍港から出航した。これが俗に言われる「バルチック艦隊」である。艦隊編成は、戦艦8隻、巡洋艦6隻、特務艦船、病院船等総勢38隻の大艦隊であった。日本海制海権を確保されると日本本土から満州への輸送は不可能になる。世界最強のロシア陸・海軍に全滅させられる日本は、ペリー来航以上の国難で日本中が不安になった。敗れると日本は、ロシアの植民地になってしまう。

それを阻止しないとロシアに奪われ、日本本土から満州への輸送は不可能になり、孤立した日本陸軍は、世界最強のロシア陸軍に全滅させられる。戦争に敗れた日本は、ロシアの植民地になってしまう。
 こういう意味で、バルチック艦隊の来航は、ペリー来航以上の国難であり、日本中が不安になった。これを是非とも阻止しなければならなかった。
そして、5月27日、対馬沖で東郷平八郎率いる日本の連合艦隊と遭遇、海戦を繰り広げたのが日本海海戦、3日間にわたる海戦の結果、第2・第3太平洋艦隊のうち、ウラジオストックになんとか逃げ込めた駆逐艦以上の艦艇はただ2隻のみ。これが日本海海戦(明治38年5月27日〜28日)である。開戦時に連合艦隊はZ旗を掲げた。「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」という意味を持たせて掲揚した。この文案は名文家として有名な連合艦隊専任参謀の秋山眞之であるとされている。また、敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」この文案も眞之である。
さて、話が脱線したが、松山のロシア兵墓地に建立されたV・Aボイスマン大佐は、捕虜は、かならずしも戦争が終わるまで収容所に抑留されていたわけではなく、日露戦争では、医療従事者、あるいは兵隊としての勤務ができないほど負傷した捕虜などは、戦争中であっても帰国が許さた。 負傷していたワシリー・ボイスマン大佐に帰国を促したが、大佐は「兵と共にいる」と辞退し、松山で病気で無くなった。当時は「ロシア人の武士道」として賞賛され立派な墓石と銅像が建立された。松山市では、毎年ロシア兵墓地で慰霊祭が開催されている。


画像は、平成6年10月、ロシアから寄贈されたV・A・ボイスマン大佐の胸像この右に、昭和41年4月20日に松山市がV・A・ボイスマン大佐の記念碑を建立した。
参考事項:V・A・ボイスマン大佐は、日露戦争で秋山眞之が作戦参謀として戦った日本海開戦のロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(通称、バルチック艦隊)の戦闘艦艦長で、明治38年9月21日松山の収容所で亡くなった。


地元の老人会、婦人会、勝山中学校生徒会の皆さんは、長い間墓地の清掃と供養を続け保存に努め現在も活動は継続されていて、松山での好意が世界に知られ最近は、ロシアからゆかりの人達が訪れこの行為にたいし敬意を表し日露友好が深まった。


この尊い行為に感謝するためにロシアの作家V・グザーノフは捕虜兵士の精神的支柱であったV・A・ボイスマン大佐の胸像を建立することを提案し、ロシア側でE及びN・ジーコフ、A・ジーロフ、V・キーリン及び彫刻家V・ムハチョーフの諸氏の協力により像が寄贈される運びとなった。 地元では、これを「日露友好のかけ橋」とされている。墓地には松山で亡くなった98名のお墓があり、献花が絶えた事がない。


V・A・ボイスマン大佐墓石右側に画像の文字が刻印されている。


「ロシア人墓地」は日露戦争で捕虜となり、亡くなったロシア兵が埋葬された墓地で、当時ロシア兵はすべてロシア人だと思われていたため、これまでそう呼ばれてきた。しかし、日本・ポーランド共同研究チームの調査により、埋葬されている98人のうち12人がポーランド人であることが確認されたため、ロシア大使館や地元保存会に了承を得て、平成25年1月から、松山市は、呼称を「ロシア兵墓地」に変更した。


松山市が掲示している説明版。


日露戦争が始まった明治37年、松山の捕虜収容所に連れてこられたロシア人捕虜たちを迎えたのは、松山の人々の「もてなしの心」。彼らは道後温泉入浴や買い物などの自由な行動を許され、「マツヤマ」は他の収容所のロシア人捕虜にとって憧れの地となったのだ。
一方で、負傷兵が多く運び込まれた松山では献身的な看護も及ばず98人の捕虜が命を落とし、“ロシア人墓地”に手厚く葬られた。長い年月を経て、墓地は一時荒れ果ててしまうが、立派な姿に蘇らせようと松山市民の「もてなしの心」が再び立ち上がった。


ロシア兵墓地は、何時も献花が絶えず墓地は綺麗に清掃がされている。墓石は全て祖国ロシア、ポーランドを望むように建てられている。
今年の慰霊祭は、平成26年3月25日、在大阪ロシア連邦総領事館、ロシア兵墓地保存会、勝山中学校、清水ゆうゆう姫山会、日露親善協会愛媛支部、清水地区女性会、商工会議所女性会、清水地区民生児童委員会、(株)ジョイ・アート他(約50名)の参列者の元、第54回 松山市ロシア兵墓地慰霊祭を実施しました。墓地所在地は、松山市御幸町一丁目531番地2 にある。


明治39年当時のロシア兵墓地。


松山に収容されたロシア兵は、自由な収容所生活が許され、道後温泉入浴、ピクニック等々を楽しみ、時には地元民と自転車競走を楽しんだ。
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