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松山市内の銅像巡り12 夏目漱石 像

2014年06月17日 | 伊予松山歴史散策
夏目漱石 像

夏目 漱石、本名、金之助(きんのすけ)は、慶応3年1月5日、東京都新宿区喜久井町に夏目小兵衛直克、千枝の末子(五男)として生まれた。
大学予備門時代、秋山眞之、正岡子規と出会う。東京大学英文科卒業後、明治28年松山中学教師として赴任、漱石の下宿先、愚陀佛庵で子規と52日間生活をし、この時本格的に俳句を学ぶ。明治29年4月13日、松山中学で教鞭をとっていた漱石は、熊本の第五高等学校教授となる。熊本時代から漱石は、「教師を辞めて文学的な生活を送りたきなり、換言すれば文学三昧にて消光したきなり」と正岡子規に手紙を認める等、文学者としての道を考えていたようだ。教鞭を執るかたわら俳句の指導者として、五高生達と近代俳句の会「柴溟吟社」を結成、明治30年10月10日、五高開校記念式典で、教員総代として「夫レ教育ハ建国ノ基礎二シテ師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ」という祝辞を読んでいる。漱石の教え子に寺田寅彦がいた。
夏目漱石は、松山中学の教師と共に山口中学の教師の誘いもあった。もし山口中学に赴任していたならば文豪夏目漱石の誕生はなく、英語教師、夏目金之助として一人の教師で終わっていたであろう。大学予備門時代に、正岡子規と出会い、松山で子規と52日間共同生活をする中で俳句の神髄に触れ、ホトトギスに投稿するよう柳原極堂に勧められ「吾輩は猫である」を掲載、文学の門を潜った。人との出会いはその人の人生を変える大切の事である。
漱石という名は、子規の数ある中のペンネームの一つで、子規に頼んで貰った名前である。


松山市末広町、正宗寺(正岡家の菩提寺)にある夏目漱石の像。


子規堂の前にある坊っちゃん列車客車の前に建っている漱石像。


子規堂玄関先にある正岡子規の旅立ちの像と向かい合って建てられている。


道後温泉本館3階にある漱石の部屋で、床の間に漱石像が置かれている。
漱石は、明治28年松山中学英語教師として赴任、校長よりも高い給料を貰い毎日坊っちゃん列車に乗って道後温泉入浴三昧、松山は東京都に比べて何一つ優れたものはないが、道後温泉だけは東京にない優れものだと大変のお気に入り・・それもそうだ道後温泉本館建築されて一年目の建物で新品ピカピカであったから。


道後温泉本館3階床の間に鎮座する漱石像。


明治28年松山に帰郷した正岡子規は、漱石が下宿していた愚陀佛庵に居候、52日間共同生活をした。2階に漱石が、1階に子規が住み、毎晩句会が開かれた。漱石は、1階が賑やかなのでそっと覗いてみると句会であった。その内漱石も句会にのめり込む。この愚陀佛庵は愛媛県が昭和57年萬翆荘の裏に復元されたが、平成22年7月12日の記録的な豪雨で、松山城に大規模土砂崩れが発生し「愚陀佛庵」が全壊し今は現存しない。
なお、当初の建物があった場所は現在、繁華街の一角で、駐車場となっており、路傍に碑と説明板が設置されている。


愚陀仏庵(ぐだぶつあん)は、夏目漱石が愛媛県松山中学教師として赴任していた時の下宿先で、名称は夏目漱石の俳号・愚陀佛に由来する。愚陀佛庵があった場所は、三越松山店の南側にあり、現在は駐車場となり記念石碑と説明版が設置してある。所在地、松山市二番町三丁目7番地、愚陀佛庵パーキング。


下宿先、愚陀佛庵から(現在の三越松山店裏側)坊っちゃん列車に乗り、毎日道後温泉に通った。現在、坊っちゃん列車は復元され、市内電車の軌道を営業運転している。なお松山市と熊本市については、夏目漱石の代表作「坊っちゃん」・「草枕」の舞台としてゆかりがあることから「夏目漱石でつながる町」として交流をしている。藩政時代、初代伊予松山城主も、初代熊本城主も同じ加藤である。加藤嘉明と加藤清正、血縁関係はないが、賤ヶ岳の七本槍、羽柴秀吉の近習七人と関係がある。
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