EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古 北豫中学長の2000日

2012年07月19日 | 伊予松山歴史散策
秋山好古は、福沢諭吉の「学問の進め」を読み感銘を受け教師を目指し大阪師範学校に進み卒業ご愛知師範学校付属小学校に赴任した。伊豫松山藩先輩の、愛知師範学校和久正辰校長の強い勧めで陸軍士官学校に入学し軍人として御国の為に奉公する事となる。特に騎兵隊を組織し育てあげた。

大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、驚いた大元帥(大正天皇)は特旨として官位従二位を与えた。大正13年官位従二位を胸に秘め、郷里伊豫松山の、北豫中学校長就任を要請されこれに応じ、好古は生家に単身で東京から帰ってきた。
昭和5年3月まで北豫中学校長を勤め現在の愛媛県立松山北高等学校の基礎を築き上げた。

昨日(7月18日)から松山市歩行町の秋山兄弟生誕地の展示物を「秋山好古 北豫中学長の2000日」と題して展示を入れ替え公開した。・・松山にお越しの節には是非ご覧下さい。

秋山好古の信条:簡単明瞭・質素倹約・心は穏やかで、気持ちは大らかに・身体が元気な間は働く事、特に自己を犠牲にしてでも、世の為、人の為、御国の為、そして故郷の為に尽くせる人間になる事・・生前、墓造るな、銅像造るな、記念石碑も造るな、家は要らぬ(生涯借家生活)これが好古の信条。

好古は、昭和5年3月まで働き体調が悪くなり校長を辞任、東京に帰り同年11月4日逝去・・享年72歳(数え年)墓所は東京青山霊園にある。


本日から秋山兄弟生誕地の秋山好古に関する展示物を、上記のテイトルで展示公開を開始


好古は、教師志望で大阪師範学校に入学、卒業後愛知師範学校付属小学校の教諭として赴任、伊豫松山藩先輩の愛知師範学校和久校長のたっての薦めで陸軍士官学校に進み日本騎兵を育て陸軍大将、陸軍教育総監を歴任、大正13年郷里の北豫中学校長を昭和5年3月まで務めた教育者・・その展示である


展示コーナーが狭く展示物に制約があり工夫をした展示


好古はもともと教育者で、最後は教壇に再度立ち大往生したいとの思いがあった中、大正13年郷里伊豫松山の北豫中学の校長要請を受け、やはり来たかとの思いで二つ返事要請を受諾した・・幼少時に母の教え:故郷の為に尽くせる人となるようにと・・その言葉通りに




好古中将時代に松山に帰省し講演をしている(教育者としての)


好古の年表他




本日の地元紙に掲載された新聞記事
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松山市梅雨明け

2012年07月18日 | 伊予松山歴史散策
高松地方気象台は17日、四国地方が梅雨明けしたとみられると発表した。昨年よりも9日遅い梅雨明けである。

今日、午後松山城観光ガイド当番で登城した。すると神奈川県川崎市から77歳の男性一人が乗用車を運転し中国地方を観光旅行し、しまなみ街道で今日松山城に来たとの由、川崎市を出て11日目、これから宇和島経由高知市に行き、金刀比羅宮(ことひらぐう)を参拝し瀬戸大橋経由で自宅の川崎市に帰るそうだ。

凄い77歳だと感心した。くれぐれも車の運転には気をつけて下さいとお見送りをした。その他、埼玉県、神戸市、萩市から松山城観光にお越しになっていた。
今日の松山市は、台風の影響で非常に蒸し暑い猛暑であった。松山城観光に来られた人達は暑い、暑い、の連発の言葉。


松山城山麓にあるロープウエー駅舎前で、お出迎えを知る松山の有名人


ロープウエー駅舎横にある伊豫松山藩初代藩主「加藤嘉明」の騎馬像


ロープウエー山頂駅舎でお出迎えをする「記念撮影」仕様


ロープウエー山頂駅舎から本丸に足を進めると最初に目に入る光景、本丸高石垣「17m」この石垣を秋山眞之が幼少時に登った・・度胸がないと登れない


松山城唯一の「隘路」から見る天守


梅雨明けした松山市今日はスカットした青空が広がっていた


天守の上も一杯の青空


松山城一番の撮影ポイント


NO9
青空と積乱雲のコントラストが素晴らしい516、803人の城下町


松山城本丸132mから見た松山中央公園野球場「愛称・坊ちゃん球場」
今ココで全国高校野球選手権大会愛媛大会の熱戦が行われている・・21日には、プロ野球オールスター戦が開催される・・光学ズーム20倍(840mm相当)撮影・・松山城から直線距離で8km

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋山好古揮毫石碑 愛媛県久万高原町に発見

2012年07月17日 | 伊予松山歴史散策
昨日(7月16日)愛媛県上浮穴郡久万高原町中組に発見された秋山好古揮毫の石碑(神社の注連石・しめいし)の取材である。

秋山好古揮毫の石碑が新たに発見された。50基目の石碑。
所在地は、愛媛県上浮穴郡久万高原町中組にある三社神社の注連石に「御大典記念」を昭和3年11月秋山好古が揮毫している。

今年5月に松山市在中の佐伯 健氏が発見された注連石(しめいし)に秋山好古が揮毫したもので、これで好古揮毫の石碑は全国に50基発見され全て取材完了であり秋山兄弟生誕地に写真と説明書を付けて展示します。

なお、注連石の揮毫依頼は誰が何時秋山好古に依頼したか残念ながら不明である。昨日宮司宅を訪れ揮毫依頼の経緯を伺いたく訪れたが不在であった。後日TELでお聞きしてみる。

註:御大典記念とは、
即位の礼(そくいのれい)は、天皇が天子の位を受け継ぎ、皇位を継承したことを内外に示す儀典であり、即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(たいれい)または御大典(たいてん)と称される。
昭和天皇は、昭和3年(1928)11月6日、即位の礼が行われた。


愛媛県上浮穴郡久万高原町中組のある三社神社の注連石に秋山好古が地元の有力者から依頼を受けて「御大典記念」を揮毫した・・建立は昭和3年11月で、昭和天皇が即位の礼儀式を行われた時の記念として・・幟が立っているのは今日(7月17日)この地区の(旧面河村)の夏祭りが開催されるとの由・・注連石の高さ3m70cm


昭和天皇が即位の礼儀式を行われた時の記念「御大典記念」を好古が揮毫した


昭和天皇が即位の礼儀式を行われた昭和3年11月揮毫者・秋山好古謹書とある


愛媛県上浮穴郡久万高原町中組にある三社神社の本殿
三社神社の沿革は、延暦23年(804年-平安時代)6月詔によって、安芸国厳島明神を勧請したという。天正18年(1590年-豊臣秀吉時代)11月三社大明神と号した。元禄3年(1690年-第5代将軍徳川綱吉時代)、安永7年(1778年-第10代将軍徳川家治時代)、明治12年(1879年)三社神社と改称したとある。(愛媛県神社誌による)


三社神社の本殿の中には沢山の絵馬が掲げ展示してあった


三社神社の神紋は、伊予国守護であった河野氏の家紋「折敷に縮三文字」と同じでした


境内の左下には清流「面河川」が流れている・・この水は高知県に入り「仁淀川」となり土佐湾に流れ太平洋に出る・・面河川の上流は西日本最高峰「石鎚山・1982m」である


昨日7月16日午後4時我が家からみた「「石鎚山」で昨日は石鎚山の裏側近くまで行った・・今年の石鎚山、お山開き期間1日~10日まで天候が悪く我が家から雲に隠れ見えなかった
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第94回全国高校野球選手権愛媛大会 開会式

2012年07月13日 | 伊予松山歴史散策
先ず、熊本県・大分県・佐賀県・福岡県の皆様豪雨お見舞い申し上げます。

 今日(7月13日)第94回全国高校野球選手権愛媛県大会が松山中央公園野球場、愛称坊っちゃんスタジアムで開会式が行われ、熱戦が繰り広げられる。
開会式は、午前10時から参加59校のプラカードとキャプテンとが入場行進、鳴り物も(吹奏楽団・松山市内の合同楽団)付で予行演習(選手宣誓も)行い午前11時から開会式が行われた。この頃から小雨が降り出した。

59校の入場行進一同がセンタに勢ぞろい、11時23分主催者の朝日新聞社のヘリコプターから始球式様の硬式球がピッチャープレートを目標に投下したが、投下地点は三遊間に着地した。

センタに勢ぞろいした59校は一斉にピッチャープレート前まで前進し、国旗掲揚、大会旗(栄冠は君に輝く」の演奏の下掲揚。前年度優勝高から優勝旗返還、主催者挨拶、審判員注意、選手宣誓が行われ雨中の開会式は無事閉幕した。

今日の第一試合、12時30分から県立松山南高校対県立松山中央高校の試合が開始しかし2回裏ツーアウト松山中央高校攻撃途中豪雨となり試合中止明日に延期となった。
毎年、開会式を見に行っているが雨中の開会式は始めてである。今年は各地で豪雨が発生凄い被害が出ている。愛媛県の梅雨明けは未だ県大会試合は予定通り出来るのか?・・明日から県下4球場で甲子園を目指す。

愛媛県大会は、第一シードが宇和島東、第2シードは松山商業、第3シードが小松校、第4シードは川之石校、何処が愛媛県代表になるかが楽しみである。
一番面白い準準決勝戦を観戦に行くつもりである。

註:25,00人収容の 松山中央公園野球場(松山市営球場:愛称・坊っちゃんスタジアム)は、両翼:90.8 m・中堅:118.9 mの国際規格の球場で、ここで世界女子野球選手権大会も行われ、10年前に四国で初めてプロ野球オールスター戦も開催され、平成24年7月21日にプロ野球オールスター戦が開催される。・・地方球場で2回開催は松山がはじめて名誉の事である。
7月21日にプロ野球オールスター戦開催の為に改装された。正岡子規も喜んでいるだろう!!


ライトスタンドに掲示された大会表示


松山市内高校吹奏楽部合同の奏でる入場行進曲で最初に日章旗が入場


入場行進の行進曲を奏でる松山市内高等学校の吹奏部員・・始めは、「栄冠は君に輝く」・・いい曲である。
「雲は湧き 光あふれて 天高く 純白の球(タマ) 今日ぞ飛ぶ  若人よ いざ まなじりは歓呼にこたえ いさぎよし 微笑む希望 ああ栄冠は 君に輝く」高校吹奏楽部合同の吹奏楽団・・何故か女子生徒が多い


秋山好古が北豫中学校長時代に基礎を作り上げた学校、県立松山北高等学校も堂々の行進


参加59校センタに集合


愛媛県大会開会式に使用する始球式使用のボール、ヘリからピッチャープレートを目標に投下


始球式使用のボールをヘリからピッチャープレートを目掛けて投下するも三遊間に落ちた


センタに勢ぞろいした59校は一斉にピッチャープレート前まで前進


ホームベース近くに参加校59の主将が校旗を持ち寄り選手宣誓者を囲む


今年の選手宣誓は、新居浜高専の「印南魁人主将」が行った・・立派な選手宣誓であった


第一試合に先立ち始球式をする上甲愛媛県副知事


上甲愛媛県副知事が投じた球はなんとストライク


第一試合、松山南高校対松山中央高校2回裏ツーアウト時に豪雨となり試合中止明日の第一試合に延期


中継する愛媛朝日放送のセンターカメラ、白い筋は雨


愛媛朝日放送の美人キャスター、いい応援団のコメントをとるため、はりきっていたのに!!雨で試合中止残念・・また明日から頑張って下さい


第94回全国高等学校野球選手権愛媛大会組合せ表

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松山市の路地 その3立花町

2012年07月10日 | 伊予松山歴史散策
今回の路地散策立花町も松山市大空襲の戦災に遭ってない。
松山市の商店街の中心地であった湊町や大街道は、空襲によって焼き尽くされた。そのため湊町、大街道の商店主は、戦火を免れた立花町に間口を借りて商売をはじめたので、戦後直後の一時期松山市の中核商店街が、立花に移るという現象が見られた。・・立花橋~伊予鉄道立花駅の間(590m)の、旧国道33号線両側に商店が集中していた。

昭和20年12月26日には、市駅前に伊予鉄マーケットが、また翌昭和21年いよや百貨店が湊町3丁目に開店するとともに、同年10月6日には、三越百貨店松山支店が一番町に出店した。
このようないわゆる老舗の百貨店やスーパーの開店に刺激されて、湊町・大街道にあった各商店が、それ以後徐々に営業を再開し、再び松山市の商店街の中心地は、湊町・大街道に移動し、松山市の中核商店街の復興がみられるようになった。

そのため立花商店が衰退していき現在は繁栄当時の面影がなくなった。

今回はこんな商店の遍歴のあった立花町の路地を散策した。現在、立花町は住居表示が施行され立花一丁目~立花六丁目に区割りされている。

立花町の沿革を見てみると、立花は温泉郡立花村⇒明治22年12月15日に温泉郡素鵞村大字立花⇒大正15年2月11日松山市に編入、松山市大字立花⇒昭和5年10月2日に南立花町・西立花町に区割り⇒昭和40年10月1日町名変更により立花町一丁目~立花町六丁目となり⇒昭和51年7月1日第12次住居表示実施により⇒立花一丁目~立花六丁目となる。なお立花六丁目には旧温泉郡朝生田の一部が編入している。

註:国道33号線⇒起点高知市・県庁前~終点松山市・市役所前=距離122,9km、現在はバイパスが出来て松山市内の路線が変更されている。


戦後松山市民の需要路線(国道33号線)として復興に一番寄与した立花橋建設、画像は、昭和29年撮影、四国88ヶ所第46番札所「浄瑠璃寺」の住職「尭音」は、社会事業家としても知られ、寺の復興後は托鉢の日々をすごしその浄財で岩屋寺から松山へいたる土佐街道の八力所に橋をかけ、松山寄りの立花橋は大水のたびに流出していたのを、岩国の錦帯橋の構造を研究し、架橋に成功している。いまも立花橋の近くに尭音の供養塔が立っている由緒ある橋である


現在の立花橋で道路は国道33号線バイパスが完成した為県道に指定変更


立花橋北側堤防に、明治22年4月建設時の立花橋の橋名板が保存されていて真ん中に住職「尭音」の供養塔が建立されている・・画像真ん中に見えるのが供養塔で橋名板4個が四角形で保存されている・・橋名板は四個あり、1、橋名(漢字・楷書)2、完成年月3、路線名4、橋名(ひらがな)となっている


昭和32年当時の立花商店街で旧国道33号線(別名土佐街道)


現在の旧国道33号線立花商店街、更地となっている所もあるし、駐車場にもなっている


旧国道33号線、左の細い道は旧土佐街道で現在は市道となり市が管理維持している


さて立花町の中に入ってみよう・・トンネルの路地がある、これは伊豫鉄道横河原線が石手川に掛かる橋梁を渡る為土塁で線路を建設しトンネルで道路として利便性を図った施設


道後、持田と路地散策をしたが、画像のような三叉路はなかったが、立花には三叉路の路地が沢山ある


このような狭い路地が幾つもあった、右側は慶長7年(1602)加藤嘉明が伊豫松山城築城時に、普請奉行「足立重信」に命じて河川の付け替え工事をした石手川(旧湯山川)の南岸堤防下の路地


立花五丁目の路地で,両サイドの地主が新たに家屋建築時に中心から2m控えて建設し4m道路が確保


立花町には戦前建築された建物が残っているその一つで、そして立花町には高層ビルはない


松山市役所前の交差点が国道33号線の終点で建設省が建立した石碑がある
この石碑には、3面に国道11号線終点、国道56号線終点と揮毫してある・松山市役所前交差点は三国道の終点地点である
国道11号線は:起点が徳島市で高松市を経由、国道33号線は:起点が高知市、国道56号線も:起点は高知市で宇和島市を経由して松山に入る

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする