松山市末広町に正宗寺があり、境内に子規堂がある。
子規堂は、湊町四丁目(中の川)の子規歌碑(旧邸跡に建立)の場所にあった。「くれなゐの梅散るなべに故郷に つくしつみにし春し思ほゆ 子規」この歌は伊藤左千夫が病床の子規を慰めるため紅梅の盆栽を送ったが、これを見、望郷の念にかられて詠んだ歌である。
正岡家が東京に移った後、取壊される旧宅の一部用材を使って正宗寺境内に建てた。その後二度火災にあい、現在のものは旧宅の間取りを模して再建された。内部は子規の遺墨、遺品が多く展示してある。また俳句のメッカといわれるにふさわしく、子規の毛髪塔(下村為山・しもむらいざん筆文化切手の横顔)や同じ為山筆の内藤鳴雪の髪塚、虚子の筆塚、ホトトギス発行600号記念の句碑などがある。
笹啼が初音になりし頃のこと 虚子 朝寒やたのもとひびく内玄関 (子規筆)、子規は、この朝この句を残したのが、玄関だったという位置に、寒竹を植え、その傍に可愛い句碑が建っている。一宿は時の住職、仏海師、子規の友人で毛髪塔を建てた。
また、境内には昭和40年11月、伊豫鉄道から寄贈された、坊ちゃん列車の客車一両が展示してある。
註:仏海師は当時の正宗寺の住職
松山市末広町にある「正宗寺」境内に再建されている「子規堂」
子規は明治16年17歳の時東京に旅立つ時の銅像が子規堂玄関に建立されている
子規堂内部で子規幼少時代使っていた部屋の一部を再現
仏海師住職が建立した「子規の毛髪塔」
子規の毛髪塔の左に内藤鳴雪の髪塚と真ん中下に、与謝野晶子の「子規居士と 鳴雪翁の 居たまへる 伊豫の御寺の」の歌碑がある
子規没後100年記念碑「名月や 寺の二階の 瓦頭口」 子規
子規毛髪塔の左前に、高浜虚子筆塚碑がある
松山市花園町にある正岡子規誕生邸跡の記念碑、二歳まで生活した・・後ろに復元された坊ちゃん列車が市内電車軌道を走行している
子規は誕生地から二歳の時、湊町四丁目「この地に移転する」明治16年、17歳で上京まで過ごした
「くれなゐの梅散るなべに故郷に つくしつみにし春し思ほゆ 子規」この歌は伊藤左千夫が病床の子規を慰めるため紅梅の盆栽を送ったが、これを見、望郷の念にかられて詠んだ歌である。子規初めての歌・・この記念碑は、昭和26年子規50年祭の時建立した
子規は明治16年17歳の時、東京大学を目指し旅立った・・親友の秋山眞之は子規が旅立った11ヶ月後に上京
子規は東京根岸で若くして亡くなる・・生前からの希望で静かな田端の大龍寺に眠っている
東京都北区田端の大龍寺に眠る「子規の墓」、明治35年9月19日没 享年34歳
松山市北立花町にある俳誌「ホトトギス」創刊の地の記念碑、ホトトギスは、子規の友人で当時南海新聞(現愛媛新聞)にいた柳原極堂がこの地で明治30年1月創刊した、同年10月東京に移し高浜虚子が引き継いだ・・日本一長寿の俳誌
子規堂は、湊町四丁目(中の川)の子規歌碑(旧邸跡に建立)の場所にあった。「くれなゐの梅散るなべに故郷に つくしつみにし春し思ほゆ 子規」この歌は伊藤左千夫が病床の子規を慰めるため紅梅の盆栽を送ったが、これを見、望郷の念にかられて詠んだ歌である。
正岡家が東京に移った後、取壊される旧宅の一部用材を使って正宗寺境内に建てた。その後二度火災にあい、現在のものは旧宅の間取りを模して再建された。内部は子規の遺墨、遺品が多く展示してある。また俳句のメッカといわれるにふさわしく、子規の毛髪塔(下村為山・しもむらいざん筆文化切手の横顔)や同じ為山筆の内藤鳴雪の髪塚、虚子の筆塚、ホトトギス発行600号記念の句碑などがある。
笹啼が初音になりし頃のこと 虚子 朝寒やたのもとひびく内玄関 (子規筆)、子規は、この朝この句を残したのが、玄関だったという位置に、寒竹を植え、その傍に可愛い句碑が建っている。一宿は時の住職、仏海師、子規の友人で毛髪塔を建てた。
また、境内には昭和40年11月、伊豫鉄道から寄贈された、坊ちゃん列車の客車一両が展示してある。
註:仏海師は当時の正宗寺の住職
松山市末広町にある「正宗寺」境内に再建されている「子規堂」
子規は明治16年17歳の時東京に旅立つ時の銅像が子規堂玄関に建立されている
子規堂内部で子規幼少時代使っていた部屋の一部を再現
仏海師住職が建立した「子規の毛髪塔」
子規の毛髪塔の左に内藤鳴雪の髪塚と真ん中下に、与謝野晶子の「子規居士と 鳴雪翁の 居たまへる 伊豫の御寺の」の歌碑がある
子規没後100年記念碑「名月や 寺の二階の 瓦頭口」 子規
子規毛髪塔の左前に、高浜虚子筆塚碑がある
松山市花園町にある正岡子規誕生邸跡の記念碑、二歳まで生活した・・後ろに復元された坊ちゃん列車が市内電車軌道を走行している
子規は誕生地から二歳の時、湊町四丁目「この地に移転する」明治16年、17歳で上京まで過ごした
「くれなゐの梅散るなべに故郷に つくしつみにし春し思ほゆ 子規」この歌は伊藤左千夫が病床の子規を慰めるため紅梅の盆栽を送ったが、これを見、望郷の念にかられて詠んだ歌である。子規初めての歌・・この記念碑は、昭和26年子規50年祭の時建立した
子規は明治16年17歳の時、東京大学を目指し旅立った・・親友の秋山眞之は子規が旅立った11ヶ月後に上京
子規は東京根岸で若くして亡くなる・・生前からの希望で静かな田端の大龍寺に眠っている
東京都北区田端の大龍寺に眠る「子規の墓」、明治35年9月19日没 享年34歳
松山市北立花町にある俳誌「ホトトギス」創刊の地の記念碑、ホトトギスは、子規の友人で当時南海新聞(現愛媛新聞)にいた柳原極堂がこの地で明治30年1月創刊した、同年10月東京に移し高浜虚子が引き継いだ・・日本一長寿の俳誌