EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

子規堂

2012年06月15日 | 伊予松山歴史散策
松山市末広町に正宗寺があり、境内に子規堂がある。
子規堂は、湊町四丁目(中の川)の子規歌碑(旧邸跡に建立)の場所にあった。「くれなゐの梅散るなべに故郷に つくしつみにし春し思ほゆ  子規」この歌は伊藤左千夫が病床の子規を慰めるため紅梅の盆栽を送ったが、これを見、望郷の念にかられて詠んだ歌である。

正岡家が東京に移った後、取壊される旧宅の一部用材を使って正宗寺境内に建てた。その後二度火災にあい、現在のものは旧宅の間取りを模して再建された。内部は子規の遺墨、遺品が多く展示してある。また俳句のメッカといわれるにふさわしく、子規の毛髪塔(下村為山・しもむらいざん筆文化切手の横顔)や同じ為山筆の内藤鳴雪の髪塚、虚子の筆塚、ホトトギス発行600号記念の句碑などがある。
 
笹啼が初音になりし頃のこと  虚子 朝寒やたのもとひびく内玄関 (子規筆)、子規は、この朝この句を残したのが、玄関だったという位置に、寒竹を植え、その傍に可愛い句碑が建っている。一宿は時の住職、仏海師、子規の友人で毛髪塔を建てた。
また、境内には昭和40年11月、伊豫鉄道から寄贈された、坊ちゃん列車の客車一両が展示してある。

註:仏海師は当時の正宗寺の住職

松山市末広町にある「正宗寺」境内に再建されている「子規堂」


子規は明治16年17歳の時東京に旅立つ時の銅像が子規堂玄関に建立されている


子規堂内部で子規幼少時代使っていた部屋の一部を再現


仏海師住職が建立した「子規の毛髪塔」


子規の毛髪塔の左に内藤鳴雪の髪塚と真ん中下に、与謝野晶子の「子規居士と 鳴雪翁の 居たまへる 伊豫の御寺の」の歌碑がある


子規没後100年記念碑「名月や 寺の二階の 瓦頭口」 子規


子規毛髪塔の左前に、高浜虚子筆塚碑がある


松山市花園町にある正岡子規誕生邸跡の記念碑、二歳まで生活した・・後ろに復元された坊ちゃん列車が市内電車軌道を走行している


子規は誕生地から二歳の時、湊町四丁目「この地に移転する」明治16年、17歳で上京まで過ごした
「くれなゐの梅散るなべに故郷に つくしつみにし春し思ほゆ  子規」この歌は伊藤左千夫が病床の子規を慰めるため紅梅の盆栽を送ったが、これを見、望郷の念にかられて詠んだ歌である。子規初めての歌・・この記念碑は、昭和26年子規50年祭の時建立した


子規は明治16年17歳の時、東京大学を目指し旅立った・・親友の秋山眞之は子規が旅立った11ヶ月後に上京


子規は東京根岸で若くして亡くなる・・生前からの希望で静かな田端の大龍寺に眠っている


東京都北区田端の大龍寺に眠る「子規の墓」、明治35年9月19日没 享年34歳


松山市北立花町にある俳誌「ホトトギス」創刊の地の記念碑、ホトトギスは、子規の友人で当時南海新聞(現愛媛新聞)にいた柳原極堂がこの地で明治30年1月創刊した、同年10月東京に移し高浜虚子が引き継いだ・・日本一長寿の俳誌
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愚陀仏庵・「松山市三庵の一つ」

2012年06月14日 | 伊予松山歴史散策
愚陀仏庵は松山市二番町三丁目7番地に現存したが昭和20年7月26日松山空襲で焼失した。昭和57年に松山市一番町三丁目にある萬翠荘の裏に復元された。
平成22年7月12日未明からの大雨で、松山城東雲口登山道斜面が土砂崩れが発生し、城山山麓に建築されていた愚陀仏庵が倒壊した。現在は倒壊した建造物は取り除かれ画像のように更地になっている。
愚陀仏庵(ぐだぶつあん、)は、夏目漱石が愛媛県松山市の松山中学に赴任していた時の下宿先で、名称は夏目漱石の俳号・「愚陀佛」に由来するものである。

正岡子規は、日露戦争時に日本新聞社の従軍記者として戦地に赴き帰りの船で喀血し帰国後療養、元気になり松山に帰った。松山には子規の家は無く、漱石の下宿先に居候となり、漱石と52日間共同生活をした。これが愚陀仏庵で二階に漱石、一階に子規が寝泊りした。子規はよく句会を開き、漱石も時々参加、短詩系文学に興味を覚え、俳句を嗜み明治30年子規の友人、柳原極堂が俳句雑誌「ホトトギス」を創刊、昭和初期までは日本で最も有力な俳句雑誌として認知されていた。この頃小説が盛んになり、高浜虚子や伊藤左千夫らが小説をホトトギスに作品を投稿していた。

明治38年1月高浜虚子の勧めで、漱石は小説を書き「ホトトギス」に載せた。その小説は、「我輩は猫である」で漱石の処女作、これが文豪夏目漱石の誕生、愚陀仏庵で子規と52日間共同生活がなかったら文豪夏目漱石の誕生はなかった。貴重な所である。
現在愚陀仏庵再建が叫ばれていて建設地をめぐって検討されている。候補地は、倒壊した跡地・道後温泉上人町(宝厳寺前)・終戦前にあった二番町の3ヶ所である。


大正11年旧伊豫松山藩、子孫久松定謨が松山別宅として建設された「萬翠荘」・・愛媛県初のフランス風建物・平成23年11月29日に本館と管理人舎の2棟が国の重要文化財に指定された


萬翠荘の裏側でこの奥に愚陀仏庵があった・・崩壊した土砂は萬翠荘の裏側手前で止まり、萬翠荘には被害はなかった


昭和57年9月復原された倒壊前の愚陀仏庵、茶会が開かれていた


倒壊前の愚陀仏庵、句会が開かれていた


平成22年7月12日の豪雨のため松山城南面中腹が土砂崩れで崩壊、愚陀仏庵が倒壊した当時の画像


土砂崩れで崩壊した愚陀仏の建物を取り除き更地に、限定工事を


松山城山東雲側登城口(ロープウエーイ山頂駅舎南側)土砂崩れで崩壊した・・現況は画像の通り整備された・・一番下の土地が愚陀仏庵跡


現在の愚陀仏庵跡


愚陀仏庵跡に置かれている遺物


戦前にあった愚陀仏庵跡で現在は駐車場・・昭和20年7月26日松山大空襲で焼かれ焼失 


愚陀仏庵跡の石碑


現在は駐車場で画像の看板が掲げてある


愚陀仏庵跡の説明板・・場所は三越松山店南側50mにある
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庚申庵・「松山市三庵の一つ」

2012年06月13日 | 伊予松山歴史散策
松山市味酒二丁目6番地7にある「庚申庵史跡庭園」は、愛媛県指定史跡「庚申庵」(昭和24年指定)の公有化に伴い、平成12年から復元にとりかかり、平成15年5月に開園した史跡庭園である。
 庚申庵は、俳人栗田樗堂の家で、樗堂は寛延2年(1749)生まれ酒造家、栗田家に入夫し七代目の主となった人物。

俳人栗田樗堂(1749~1814)が寛政12(1800)年、52歳の時、松山城西方の味酒郷に作った草庵で、もと青面金剛の小祠があり、古老が古申庵と呼んでいた場所に、庚申の年に建てたので庚申庵と名付けられたといわれている。
ここでは講座や講演会など催されているほか、茶室は句会や茶会等に利用出来る。

所在地及び利用時間
松山市味酒町2丁目6-7 庚申庵史跡庭園
  TEL:089-915-2204
午前10時から午後6時まで
(ただし、11月1日~翌年2月末日までは午前10時から午後5時まで)、
入園無料、休園日水曜日(祝日は除く)12月28日~1月4日

庚申庵史跡庭園正面玄関・・駐車所場がないので公共の交通機関で


玄関を潜り


すると外から思いもよらぬ広い芝庭園が目に入ってくる


周囲のビルに囲まれているが、此処は別世界


芝生の奥には小さな和風庭園が


この風景がいいと写真を撮る人多し


6月には花菖蒲が咲きいい風情を醸し出す


茶室の縁側に物思いに耽る女性一人、、句の題材を考慮しているのか??


茶室で、土・日・祝日には茶会が開かれる


毛氈であしらった腰掛、野点傘をセットし野点も行いますし、この腰掛に座り庵の雰囲気を味合うには絶好・・名句も生まれるのでは??


毛氈で仕上げた腰掛と真っ赤な野点傘、野点には欠かされない道具
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第20回「アマチュア無線全国縦断一斉マイクロ波帯大移動運用会」

2012年06月11日 | 伊予松山歴史散策
平成24年6月9日・10日2日間、第20回アマチュア無線マイクロ波帯全国一斉縦断大移動電波伝搬通信実験(日本アマチュア無線連盟名目後援)が開催され、私:JR5EEKも参加した。
この開催は今年で10年目となるが、それ以前は各エリアが異なった月日に思い思いに移動運用していた。
平成14年4月20日マイクロウエーブ北海道支笏湖大会に参加、松山から名古屋港まで車で行き、ここからフエーリー「きたかみ」で船中2泊して苫小牧港に上陸、会場の支笏湖に行った。この大会で日時を決めて全国各エリア一斉に電波伝搬通信実験をしようと提案した。

横浜市の、JH1UGF、マイクロウエーブ北海道クラブ代表、伊藤博之氏・JA8BAVと協議、早速大会に緊急提議、可決され、全国の代表者の同意を得て、第1回アマチュア無線マイクロ波帯全国一斉縦断大移動電波伝搬通信実験が平成14年9月28日・29日に開催され現在に至っている。

マイクロ波帯全国一斉縦断大移動電波伝搬通信実験の主たる目的は、アマチュア無線マイクロ波帯の活性化と後継者の育成並びに災害時の連絡や救助連絡等々の非常無線通信活動に寄与する事で、その時の為に無線機器の点検と緊急無線運用の訓練を兼ねて実施している。

全国にある社団局と地方自治体がタイアップして毎年防災訓練に参加している。例を挙げると松山市が毎年実施している防災訓練には、松山市役所アマチュア無線クラブが参加して無線設備を使った非常無線訓練を行っている。

世界中に約230万局、日本には約56万局が開設されており、世界一で、活発な無線交信が行われている。また無線科学の進歩、国際親善等にも寄与してきており、更に非常災害時には、人命救助等にも活躍するなど社会的にも貢献している。
アマチュア無線マイクロ波帯全国一斉縦断大移動電波伝搬通信実験が開催実行委員事務局は、横浜市のJH1UGF:槇岡 寛幸氏にお願いしている。

参考1:アマチュア無線局は、金銭上の利益のためではなく、 無線技術に対する個人的興味から自己訓練、通信、技術的研究のために開設されるものでこれをアマチュア無線局といい、「ハム」という通称で親しまれている。

参考2:マイクロ波帯とは、一般に周波数が1~10GHzのUHF・SHF・EHFを含む周波数の総称がマイクロ波と呼ばれその中でもSHF「Super High Frequency」の略語で波長は1~10cm未満、3GHz~30GHz以下の周波数を言う。主に衛星通信、衛星放送、市外電話回線、各種レーダーが用途で、勿論アマチュア無線も含まれる貴重なバンドです。全国(縦断)一斉マイクロ波バンド大移動運用会はSHF帯が主である。

JR5EEKの設備:右が5600MHZ帯・10,1GHz帯のパラボラANT68cm
左が1200MHz帯5Eシングル・ループアンテナと2400MHz帯の14Eシングル・ループアンテナANT


送受信機で1200MHz帯ハンデイー無線機で下部のトランスバターで5600MHz・10,1GHzに周波数を変換して送信する


この無線機は、1200MHz帯と2400MHz帯のFM機


無線機のセットは、大形のカメラ撮影用の三脚にセット


松山自動車道上り「伊予灘サービスエリア」の表示板


松山自動車道上り「伊予灘サービスエリア」の展望広場


松山自動車道上り「伊予灘サービスエリア」に「恋人の聖地」が設置、沢山の鍵が掛けてある・・二人の愛の誓いをがっちりと


ここにも子規の句碑が・・俳句の街、何処に行っても子規の句碑がある
石手寺へ まはれば春の 日暮れたり  子規


松山自動車道上り「伊予灘サービスエリア」から瀬戸内海(伊予灘)を望む。
 

松山自動車道上り「伊予灘サービスエリア」からの松山空港で着陸して駐機上に移動中・・このように伊予灘サービスエリアは眺望のいい場所である
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伊豫松山から武蔵・両毛、列車の旅

2012年06月07日 | 伊予松山歴史散策
今回の旅はJRで松山・東京間を旅した。ちょっと時間が掛かるがのんびりとした列車での旅をした。

5月21日(月)松山発09時15分「しおかぜ12号」で岡山駅に12時11分着、岡山始発の12時26分「ひかり470号」に乗車予定が、福山―新倉敷間で事故があり一時間以上の遅れ、列車ダイヤはめちゃくちゃ大幅に遅れた。私が乗車する列車は何時発車するか不明、大幅遅れで岡山に来た「のぞみに乗車した」・・新幹線利用は何時も自由席を利用している。もし今回のように異変があってもどの列車にも乗れるから。

列車は満席で席が空いたのは新大阪であった。東京駅になんとか無事着いた。
ホテルは東京駅直結のなで利便性大、荷物をホテルに預けメトロ東西線で乃木坂に移動、青山霊園の秋山好古墓参、翌日22日(火)日本100名城紀行、23日(水)今回の本命である秋山好古揮毫石碑取材、24日(木)帰松、帰りもJRであった。

註:「両毛」の名称は、上毛野と下毛野の両方に跨がる地域という意味である
栃木県の足利市や佐野市、群馬県の桐生市、太田市、館林市を中心とした一帯を指す。

特急しおかぜには電車とぢーゼル仕様が運行している、画像は電車で本州で運行させれいる特急列車と比べると小さく見える


特急しおかぜの表記


松山駅1番ホームの案内表示板


特急しおかぜに一両の半分だけグリーン席がある、一人掛けと二人掛けがあり何時もグーりん車の一人掛けを利用している


予讃線から瀬戸大橋線に乗り入れて岡山に、ここまではJR四国の管轄、岡山県児島駅からJR西日本管轄で運転手も車掌もJR西日本の乗務員と交代する、児島駅の次は終点岡山駅だからJR四国の乗務員が運転すればよいのに!!


瀬戸大橋を渡る「特急しおかぜ・・時速75km


瀬戸大橋線は陸地から橋梁に続きそしてつり橋を列車は走行する、つり橋だから重量のある列車がつり橋部に乗り入れると下に下がり、レールも下がる、この解消する為に画像のような仕組みを考案してスムースに走行できるようにした・・日本でもこのようなレールの繋ぎ方をしているのは瀬戸大橋線だけだ


瀬戸大橋線走行時特急しおかぜの速度、速度計は75Kmを指している


大手町からメトロ東西線で乃木坂に行き青山霊園の秋山好古の墓参に行った・東京に行った時は必ず墓参している
画像は乃木坂からの六本木ヒルズ


5月22日、両毛にある100名城紀行に出かけた、上越新幹線08時04分下り「MaXたにがわ」二階建て車両で


MaX「たにがわ」二階建て車両の2階


MaX「たにがわ」二階建て車両の1階部分


高崎からJR両毛線で東武伊勢崎線、伊勢崎市駅表示板


伊勢崎市駅から東武線で太田にタクシーで足利市、お出迎えの観光掲示板が


足利市駅構内・改築したのか新しい駅舎


足利市駅から東武伊勢崎線の特急りょうもうで浅草に出た特急りょうもうの車両内部・全席指定席


東武伊勢崎線の特急りょうもう先頭車両


東京駅に発車を待つ東海道新幹線、10時03分発のひかり467号岡山止まりに乗車
列車マニアでないので車両型番は分からない


我が愛媛県出身である、十河信二元国鉄総裁の記念碑があった
東京駅18・19番線一番端(新橋側)に元国鉄総裁であった十河さんの記念碑が建立してあった・・ひかり自由席1号車(先頭車両)に乗るため一番前に行ってので気が付いた
この十河信二元国鉄総裁の記念碑は東京駅新幹線18-19番線ホームの新橋方向にあり、十河信二は第4代国鉄総裁として新幹線計画にGoを出した人物で、新幹線計画は国鉄内部にも反対論が根強かったが、当時の十河総裁の決断により進められることとなった。この人物がいなければ今日の新幹線の姿はなかったことになる。ただし、1964年10月の新幹線開業時、既に国鉄総裁の職を解かれていた十河信二は記念式典には呼ばれなかった
 この記念碑には十河元総裁の筆による「一花開天下春(一花開きて天下春なり)」のレリーフもある
 記念碑の裏側には東海道・山陽新幹線の開業時期が揮毫されている
右上:東京-新大阪 1964.10 552.6km
左上:新大阪-岡山 1972.3 180.3Km
左下:岡山-博多 1975.3 443.6Km
一番下には[鉄道百年 1972年10月14日]と揮毫されていた


10時03分発のひかり467号岡山止まりの車両内部、東京出発時は乗客は多くほぼ満席、途中静岡からはご覧のように1号車はがら空き、皆さん乗るのは先頭まで歩くのは距離があるから、私は何時も1号車に乗る・・空いているから


JR四国「特急しおかぜ15号」指定席車両・・空いていた、岡山14時35分・松山17時24分着約3時間・・この間が長く感じる・・これで今回の旅も無事終えた・・東京・松山8時間30分 飛行機なら松山・羽田・東京駅は約2時間、時間を優先するのなら空路、列車の旅を楽しむのなら列車で・・弁当とを食べながら・・ビールを飲みながら

5月21日から24日に掛けてのはこれで終了・・拙いブログ見て頂きありがとうございました
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