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伊豫松山発展に尽くした最大偉人:佐庭如矢

2012年06月22日 | 伊予松山歴史散策
日本最古の道後温泉本館を造り、伊豫松山城天守を明治新政府に現存に至る直訴をした松山の誇る偉人「佐庭如矢」を讃えなければ今の松山は語れない。

慶長8年(1603)10月伊豫松山藩主加藤嘉明は、新城下を「松山」と命名、慶応3、王政復古の大号令、慶応4年9月明治元年となり、鳥羽伏見の戦いが起こり明治維新、明治2年薩長土肥の四藩による版籍奉還奏請、明治10年2月西南戦争勃発、同年10月西郷隆盛自殺、明治11年大久保利通暗殺、維新は終わる。
現在の観光地松山の基礎を築いたのは、加藤嘉明と佐庭如矢であると言っても過言ではない。

佐庭如矢は、
文政11年9月12日に伊豫国(現愛媛県)に生まれる
明治5年:石鉄県となる機会に県吏員となる
明治6年:松山城を城山公園として残すように大隈重信に直訴し、大久保利通大蔵卿名で存続が許される
明治10年:愛媛県吏員時代、明治9年香川県が愛媛県の管轄になるを機に、高松支庁長になる
明治13年:内務省に入る 
明治14年:愛媛県に戻る 
明治15年:山田香川郡長に就任する
明治16年:愛媛県立高松中学校長を兼任する(現香川県立高松高等学校)
明治17年:郡長を辞任し、校長のみとなるが、その後財政難のため、廃校となる
明治19年:金刀比羅宮の禰宜になる
明治23年2月:道後湯之町の初代町長に就任、道後温泉本館・改築に着手62才
明治25年2月:養生湯落成同8月、道後鉄道に着手
明治27年4月:道後温泉本館落成・・伊豫松山藩城郭建築棟梁により
明治28年8月:道後鉄道開通
明治35年:三期十二年勤めた町長を勇退
明治40年9月4日:脳溢血で没した。享年80才 通称は斧右衛門 号は震庵
佐庭如矢の功績

第1:明治23年2月:100年先の道後地区発展の大計を考え道後温泉本館・地元住民、議会の猛反対を押し切り改築に着手した事

第2:明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとしたことに対して発令した廃城令に対し、明治政府大隈重信大蔵卿に対し伊豫松山城の存続を上申、この事が切っ掛けとなり、19の天守が存続を許された(先の大戦で、広島・福山・岡山・和歌山・名古屋・大垣・松前)の天守は消失し現在12天守が存続している。・・これが現存12天守である。なお松前城天守は不審火で消失。

松山城天守存続の経緯:存続に尽力した伊佐庭如矢と久松定謨


明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。
伊予松山藩は、親藩がゆえに幕末朝敵とされ松山城の売却取り壊しは免れぬ状態であった。
存続を願い伊佐庭如矢は、大蔵卿大隈重信に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと上申した。
維持費は地元で負担する事を条件で、内務卿大久保利通は公園化を条件で認め存続を許す事になった。
政府も各地の城の取り扱いに困っていたので、伊佐庭如矢の公園化計画は一つのヒントになり、その後各地の城は公園化が推進され存続した。

伊佐庭如矢は、道後温泉建設に努力して完成させた功績は良く知られているが、松山城存続に努力した事はあまり知られてない。
大正12年7月久松定謨は、政府から松山城の払い下げを受け、維持費の一部にと寄付金を付けて松山市に寄贈した。
昭和20年7月26日午後11時26分からの松山大空襲で、城山に焼夷弾が投下されたのは本丸の井戸が最初で、事務所、太鼓櫓、乾門、天神櫓等々城郭の建造物が次々に焼失、敵機が去ったのち焼煙が薄らぎ天守が浮かび上がった時、天守三階の西南隅が燃えつつあったのを見た住田監守長は一人でバケツ一個だけ持って走り本壇水槽の水で消し止めた。
後日、田中耕太郎文部大臣から、戦火から国宝松山城天守を命懸けで守った功績に対し住田監守長に感謝状が届いた。

現存天守が残ったのは以上の経緯である。
松山城存続に伊佐庭如矢と久松定謨の尽力と、大隈重信・大久保利通の英断がなければ存続はなかったと私は思う。
そして住田監守長の命懸けの消火活動の努力があったからである。
存続に尽力した伊佐庭如矢の銅像または、顕彰碑を松山城内に建立を望むものである。
註1:住田監守長の命懸けの消火活動については、監守長の業務日誌から引用した。
註2:昭和43年8月3日愛媛新聞夕刊大見出で「松山城・焼土の中に」松久 敬記者の記事あり。
註3:昭和10年5月に天守は国宝に指定されたが、昭和25年5月に文化財保護法の公布にともない、重要文化財に指定変 更された。
また昭和27年3月29日松山城跡は国指定の史跡となった。
主 観:松山市の観光資源は、第一に松山城、第二に道後温泉でどちらが欠けても半減するもので、俳句だけでは松山の観光は成り立たない。
   松山人は、肝心な功労者の顕彰がなってない。


平成7年道後温泉本館建設100周年を記念して建立された「伊佐庭如矢」の石碑・・本館正面を眺めるように建てられた


道後温泉本館で明治27年4月竣工今から118年前の建物、「伊佐庭如矢」の石碑は本館の向こう側に建っている


旧湯築城跡(現道後公園)に建立されている「伊佐庭如矢」を顕彰碑で、揮毫は、安部能成で能成は、昭和21年吉田第一次内閣時の、文部大臣を歴任、(1月~5月)同年10月学習院院員長(没まで)


100年後の道後を見越して建設した道後温泉本館、今や県外はもとより外国からも観光者が来ている観光の目玉


もう一つの伊豫松山の観光の目玉「伊豫松山城天守」存続を果たしたのは伊佐庭如矢、存続経緯の説明板がない


夜の道後温泉本館、平成6年温泉の建築物としては日本で初めて重要文化財に指定された・・本館最上階に赤く見える建造物


本館最上階に赤く見える建造物「振鷺閣」で刻を知らせる太鼓が置かれている


「振鷺閣」刻を知らせる太鼓が置かれている・・朝昼夕3回女性職員が時報に合わせ「刻太鼓」を打つ・・朝6時開館に6、昼12時に12回、夕6時に6回打ち鳴らす・・平成8年に環境庁の日本の音風景百選に指定された


現存12天守(弘前・松本・犬山・丸岡・彦根・姫路・松江・備中松山・丸亀・高知・宇和島・伊豫松山各天守)の一つで、現在日本の天守存続を最初に願い出たに伊佐庭如矢、残念ながら地元松山でもあまり知られてない・・
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