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伊豫松山城・第3位にランクされた⇒城巡り旅人が選ぶ日本の名城に!!

2020年10月10日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

世界最大の旅行・ウエーブサイト「トリップ・アドアイザー」が発表した旅好きが選ぶ!日本人に人気の日本の城ランキング・ 2020版が、令和2年8月13日に公表され、伊予松山城が第3位に選ばれた。松山市にとっては大変名誉で嬉しいことである。

なお
第一位は、国宝・姫路城
第二位は、国宝・松本城である。

トリップ・アドアイザー日本法人は、日本の観光立国の実現に向けて、魅力ある観光地の国際観光の振興とその他の観光に、平成20年10月1日に設置され、日本政府観光局とタイアップして日本国内の観光振興活性化に寄与している。

また
日本城郭協会が財団法人となって40周年を記念する事業として日本100城が平成18年2月に発表され、松山城は第81番に指定された。

100名城選定については、必ず都道府県1城は指定し5城以内とすることとなり、平成19年6月2日から日本100名城選定記念スタンプラリーが開始され、「甦る日本の城」でスタンプ帳を持参して城を旅する城巡り旅行好きが多くなった。

最近では、御朱印帳を持った城好き「歴女」が増えた。
平成29年4月100名城選考から漏れた城郭から続100名城が定められた。

伊予松山城天守は、層塔型三層三階地下一階で豪快さはないが、大天守・筋鉄門・小天守・多聞櫓・南隅櫓・十間櫓・北隅櫓・玄関多聞・玄関・内門・で繋がれ整然と整った真四角の連立式天守が魅力で、江戸時代最後の完全な城郭建築の城である。

そして日本最大の登り石垣(高さ5m、長さ250m)が現存する。

大天守をはじめ21棟の国指定の重要文化財をもつ四国最大の城で、全国でも姫路城についで二番目に多い重要文化財指定の城郭建造物がある。

天守の一階・二階・三階の床面積は、全国の三層天守の中で一番広い床面積を持つ。

画像は、城北方面からの本壇空撮である。

現存12天守の中で、唯一城主である松平家の家紋「徳川家葵の御紋」が天守・各櫓の瓦に付されている。

伊予松山城天守は、度々災難に遭遇しその都度苦難を乗り越えてきた。

天明4年(1784)元旦落雷で天守が焼失、現在の天守は安政元年(1854)復興した我が国最後の天守である。松山城は、70年間天守がない城郭であった。

その後、昭和8年7月9日、放火により火災が発生したが、天守の焼失は避けられた。
昭和20年7月26日には、松山大空襲でB29が飛来し、焼夷弾一発が本壇中庭に投下され飛び火し、天守1階の西南隅が燃えつつあったが、住田看守長が命がけの消火で消し止め焼失を免れた。(焼夷弾は完全爆発しなかった。)

住田看守長には、田中耕太郎文部大臣から感謝状が送られた。
当時、松山城天守は国宝に指定されていた。(現存12天守は全て国宝であった。)昭和25年8月29日重要文化財保護法が制定施行され、現存12天守は4つの国宝と8つの重要文化財に指定替えされ松山城は重要文化財に指定替えされた。

松山城本壇の城郭建造物の復元は、昭和41年から開始され当初の図面設計図に基づき忠実に復元され、同43年5月に完成し焼失前の旧状に蘇った。

画像は、蘇った松山城本壇の城郭で、この時お祝いの式典が行われ、それがもととなり毎年お城まつりとして行事が行われることとなり現在に至っている。

昭和21年9月9日付で、田中耕太郎文部大臣から長い文章の感謝状が住田監守長に送られている、その一部である。

昭和20年7月27日、松山空襲で焼夷弾が中庭に投下され飛び火して天守一部が煙硝、住田監守長が命懸けで消し止めた。

住田監守長の消火が無かったら国宝天守は焼失していた。

松山城本丸警備のため数名の職員が配備されていたが、B29飛来し松山空襲は察知していたので住田看守長は、身の確保のため職員全員下山させ、住田看守長一人が残り警備にあたっていた。

田中耕太郎文部大臣からの感謝状が送られた。

内容を要約すると、国宝松山城天守が昭和20年7月27日の空襲により焼失しようとしていた時、身の危険を省みず命がけの消火活動で天守が残ったのは貴殿のお陰であります。

ここに心を籠めて御礼を申し上げます。

昭和20年9月9日

文部大臣 田中耕太郎

住田 晋 殿

です。

伊予松山城天守他建造物は、明治6年に伊佐庭如矢が、大蔵卿・大隈重信に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと上申し存続が決定し、大正12年7月久松定謨は、政府から松山城の払い下げを受け、維持費の一部にと寄付金を付けて松山市に寄贈した。

昭和20年7月26日松山空襲で城山に焼夷弾が投下され事務所、太鼓櫓、乾門、天神櫓等々城郭の建造物が次々に焼失、敵機が去ったのち焼煙が薄らぎ天守が浮かび上がった時、(27日未明)天守1階の西南隅が燃えつつあったのを住田監守長は一人でバケツ1個だけ持って走り本壇水槽の防火水で消し止めた。

上記3名の苦労があり現存天守は残ったのである。

この事は地元市民もあまり知られてない。

注:久松定謨⇒旧伊予松山藩主である久松家の第16代当主で、陸軍中将、位階勲等は正二位・勲一等・伯爵である。

松山市は、昭和20年7月26日、サイパン・イスレイ飛行場の米軍第73爆撃団所属の空飛ぶ要塞、B-29、350機が大牟田・松山・徳山の三都市を攻撃のため飛び立った。
その内128機が松山を爆撃、編隊は右旋回して松山城を中心に、その周辺から市の中心部に焼夷弾を投下した。午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃は継続、一瞬にして焼け野原となった。

投下した焼夷弾は896トンと米軍の資料にある。
松山の市街地は火の海となりB29は西南方向の海上に飛び去った。
松山城は攻撃から外されていたそうだが誤って焼夷弾が投下されその一つが松山城天守の中庭に落ちた。

伊予松山城は、故・坂東三津五郎さんが絶賛したお城である。

故・坂東三津五郎さんお勧めの松山城

 伊予の松山城について「一番美しいと思うのは」と、歌舞伎俳優の故・坂東三津五郎さんが、自著「三津五郎城めぐり」で明かしている。

「乾門をくぐり、坂を下ったひとつ目の角で振り返って見上げる城の姿です」本丸を守る櫓と石垣の上に天高く小天守が…と書かれている。

平成27年2月15日放映された「城案内人・坂東三津五郎」さんのTVを見られてから、全国のお城愛好者の皆さん方が松山城の見学に来られる観光者が増えました。

坂東三津五郎さんは、TV放映後同年2月21日逝去されました。59歳の若さで非常に残念です。三津五郎さんの趣味は、日本の城巡りで同年2月15日放映された「城案内人・坂東三津五郎」のトップ画像の背景の天守が松山城でした。

三津五郎さんは中学生時代から城巡りされており、自分なりの特徴をノートに書き留めており、TV放映「城案内人・坂東三津五郎」にも使われていたそうです。

全国各地から、三津五郎さんの放映を見て来ました。三津五郎さんお勧めの所を案内してほしいとの事で当時はよくご案内しました。

坂東三津五郎さん一番お気に入りの松山城の風景で

「乾門をくぐり、坂を下ったひとつ目の角で振り返って見上げる城の姿です」本丸を守る櫓と石垣の上に天高く小天守が…と書かれている場所です。

故、坂東三津五郎さん一番オススメの松山城の風景で、ガイドがご案内しないと分かりにくい場所です。

観光に来られた皆さんはこの風景を見ないでお帰りになる方が殆どです。松山城にお越しになった節は是非御覧ください。ガイドまたは係員にお尋ね下さい。

次は

俳優・榎木孝明さんが一番お好きな松山城の風景です。

場所は、本丸大手門跡にある待合番所跡から見た風景で、画像の通路を「隘路」と言います。

隘路からみた風景は、俳優の榎木孝明さんが一番お好きな松山城の風景で、手前の石垣を見て、そして太鼓櫓を配しその奥に天守を眺める風景が一押しの場所で、榎木孝明さんはこんな素晴らしい風景を何時でも見られる松山の人たちは幸せであると表現された。

この場所は本丸に通ずる路なので必ずここを通りますので御覧ください。

殆どの方がここは素晴らしいと言われ写真を撮られます。

俳優・榎木孝明さんが一番お好きな松山城の風景を書かれた絵です。

松山城麓にある某百貨店で「榎木孝明絵画展が開催された」絵画は全て松山城でした。

絵画展で開催されたトークショーで

大手門跡からみた風景は、私(榎木孝明さん)が一番好きな松山城の風景で、手前の石垣を見て、そして太鼓櫓を配しその奥に天守を眺める風景が好きです。
こんな素晴らしい風景を何時でも見られる松山の皆さんは幸せであると表現された。

松山城天守は三層で豪華さはないが、天守を取り巻く櫓や城門建造物が支えている光景が美しい。

画像は、本壇入口を眺める若いお二人。

春には、本丸広場にさくらが咲き誇り多くの花見客が訪れる。
日本のさくら名所100選に選ばれている。

 

 

 

本丸広場からの本壇に建つ大天守と、小天守。

広場には、松山城のマスコットキャラクター「よしあきくん」(初代藩主・加藤嘉明にちなんで命名された)がお出迎えします。

 

 

松山城城郭で唯一造りが異なる櫓があります。

それは、天神櫓です。

本壇鬼門の方角にあたることから、その忌をさける意味で4代藩主松平定直のとき、松平(久松)の遠祖にあたる菅原道真公を祭ったもので、建物正面は全て祭祀のための蔀戸(しとみど)となっており(神社造り)残り三面は他の櫓と同様武装建築となっている。

天神櫓の内部で、松平(久松)の遠祖にあたる菅原道真公を祭った祭壇がある。

これからの画像は空から松山城本壇の姿を見て下さい。

南面からの大天守・小天守配している本壇城郭建造物です。

 

 

 

南東方面からの本壇城郭建造物です。

 

 

 

城東方向からの本壇城郭建造物です。

 

 

 

城南方向から見た本丸城郭で、手前の大きな城門は「筒井門」です。

 

 

 

南東方向上空からの松山城郭。

広がる市街地は松山市の中心部で、令和2年10月1日現在の松山市の人口は、509,753人です。

 

 

三之丸から見た二之丸の石垣と多門櫓と本丸大天守と小天守。

 

 

三之丸からの二之丸の櫓と本丸大天守と小天守。

 

 

三之丸からの二之丸の石垣と多聞櫓、本丸右端に見える櫓は「太鼓櫓」です。

 

 

三之丸から望む本壇の小天守(右)と多門櫓(中)南隅(左)です。

 

 

松山市役所前の外堀から望む松山城で、山麓の建物は愛媛県本庁舎の一部です。

 

松山城の観光案内ガイドは、10月1日から再開しています。

天守に入るには、マスクをして検温をし、手指を消毒液で消毒し、氏名・住所・連絡先を記載して本壇に入ります。

 

手指消毒・検温・必要事項を記載します。

 

 

松山城各所に画像のお願い事項を掲示し、協力をお願いし新型コロナ蔓延対策をしています。

 

 

 

ガイド希望の方々は、画像のガイド申込書に必要事項を記載して頂いた上松山城をご案内しています。

受付場所は、ロープウェー山頂駅舎前です。

愛媛県は新型コロナ蔓延者が少ないので安心して観光に来ましたと言われます。

 

 

明治24年代の松山城天守で、正岡子規が大切に保存していた写真です。

写真の裏面に

松山や 秋より高き 天主閣・・と記載されているそうです。

明治24年の作で、建立地は松山城に向かうロープウェイ・リフトの山頂駅舎降り口に建立されています。
句碑は、めずらしい自然石型銅製で中が空洞になっており、「松山市観光俳句ポスト」になっています。

 

 

松山や 秋より高き 天主閣の句碑で、

句碑は、めずらしい自然石型銅製で中が空洞になっており、「松山市観光俳句ポスト」になっています。

建立地は松山城に向かうロープウェイ・リフトの山頂駅舎降り口に建立されています。
昭和41年に、子規・漱石・極堂生誕百年祭記念行事の一つとして、昭和43年5月に松山市観光俳句ポスト第1番目に設置された俳句ポストです。現在90ヵ所以上の観光俳句ポストが設置されています。

 

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