秋山兄弟生誕地 旧生家
画像は、戦前の秋山邸で、昭和20年7月26日松山空襲で焼失される以前の建物である。
秋山家第6代平五郎久敬が天保年間(1831年~1843年)に建築した家を大正13年4月に北豫中学校校長としてこの生家に単身赴任し改築、増築した。
画像上は秋山邸の正面玄関で左に蔵がある。この蔵に好古、眞之の遺品があったが殆ど愛媛県に寄贈した。その遺品は愛媛県生涯学習センタ展示館に展示されている。
画像中は、生家裏(北側)にあった庭で好古は、学校から帰ると一人露天食卓で静かに物思いに耽っていた。大好きな酒を嗜んでいたのではないか。
この時代は、ビルは無く伊予松山城天守が見えたそうである。
現在の生家は、表に好古・眞之の銅像建立の為後ろに引いて再建したので庭は狭くなっている。
画像下は、戦前の生家全容で、コンクリートの塀は以前は竹垣であったが、新田長次郎の勧めで作り変えたとある。
現在の生家と形が違っているのは、好古が増改築したためで、再建した生家は平五郎久敬が建築した当初のものとして内部復元・外観復興した。
好古は、この家から大正13年4月から昭和5年3月まで6年間、北豫中学校校長時代を単身で過ごし、この間一日も学校を休むことなく、登校時間も生徒より早く行き校門で一人一人の生徒に朝の挨拶をしていたと言う。道筋の皆さんは好古を見ると時計の針を修整するくらい決まった時間に登校していた。
昭和5年7月故郷松山を最後に上京、途中大阪の親友である新田長次郎宅を訪れ一晩を過ごし東京に旅立ち、再び長次郎と会うことなく10月15日体調が悪化し陸軍病院に入院、11月4日逝去した。これを聞いた新田長次郎は、好古さんは最後の別れに来てくれたのであったか・・もっとお話をしたかったと涙を流し悔やんだそうだ。
奇しくも私の父親が秋山好古北豫中学校校長最後の教え子である。(昭和5年3月卒)
画像は、戦前の秋山邸で、昭和20年7月26日松山空襲で焼失される以前の建物である。
秋山家第6代平五郎久敬が天保年間(1831年~1843年)に建築した家を大正13年4月に北豫中学校校長としてこの生家に単身赴任し改築、増築した。
画像上は秋山邸の正面玄関で左に蔵がある。この蔵に好古、眞之の遺品があったが殆ど愛媛県に寄贈した。その遺品は愛媛県生涯学習センタ展示館に展示されている。
画像中は、生家裏(北側)にあった庭で好古は、学校から帰ると一人露天食卓で静かに物思いに耽っていた。大好きな酒を嗜んでいたのではないか。
この時代は、ビルは無く伊予松山城天守が見えたそうである。
現在の生家は、表に好古・眞之の銅像建立の為後ろに引いて再建したので庭は狭くなっている。
画像下は、戦前の生家全容で、コンクリートの塀は以前は竹垣であったが、新田長次郎の勧めで作り変えたとある。
現在の生家と形が違っているのは、好古が増改築したためで、再建した生家は平五郎久敬が建築した当初のものとして内部復元・外観復興した。
好古は、この家から大正13年4月から昭和5年3月まで6年間、北豫中学校校長時代を単身で過ごし、この間一日も学校を休むことなく、登校時間も生徒より早く行き校門で一人一人の生徒に朝の挨拶をしていたと言う。道筋の皆さんは好古を見ると時計の針を修整するくらい決まった時間に登校していた。
昭和5年7月故郷松山を最後に上京、途中大阪の親友である新田長次郎宅を訪れ一晩を過ごし東京に旅立ち、再び長次郎と会うことなく10月15日体調が悪化し陸軍病院に入院、11月4日逝去した。これを聞いた新田長次郎は、好古さんは最後の別れに来てくれたのであったか・・もっとお話をしたかったと涙を流し悔やんだそうだ。
奇しくも私の父親が秋山好古北豫中学校校長最後の教え子である。(昭和5年3月卒)
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