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秋山兄弟生誕地研究員県外研修会、山口県周防大島町「戦艦陸奥記念館」 その1

2015年10月07日 | 伊予松山歴史散策
秋山生誕地では、平成17年1月19日開館以来社会奉仕活動として18名の研究員が日頃から互いに研鑽し来館者に対して生誕地を案内している。その為、相互研修会を2ヶ月に一度、県外研修を年1回実施している。一昨年は、今治市小島の芸予要塞跡(203高地陥落に使用した28㎝砲弾跡地)と、今治城・そして今治市大西町山之内にある秋山好古揮毫石碑「衆心和暢化乃成」を見学し研鑽。昨年は、香川県善通寺市陸上自衛隊、第14旅団司令部駐屯地内にある、博物館、愛称は、駐屯地資料館と言われ、その一つに、 西洋建築で初代第11師団長・乃木希典に因み「乃木館資料館」がありここを広報担当自衛官の案内で見学した。
今年は、山口県柳井市周防大島にある「陸奥記念館」「宮本常一記念館」「星野哲郎記念館」を見学しいい研鑚が出来た。予定していた「重要伝統的建造物群」の見学は時間の関係で見学出来なかった。特に周防大島は幕末幕府の命を受けて長州征伐の際伊予松山藩が戦闘した所で、これがもととなり朝敵とされ制裁金15万両を納める羽目になり、伊予松山藩の苦労が始まった。松山の子供達にもそのとばっちりを受け、わが身は自分の努力で身を立てなければならない、所謂、個人の独立が国家の独立につながるという思想から、人任せにしない自律する生き方を求め、勉強し知識を身に着け世に出た。「独立自尊」の精神である。秋山好古・秋山眞之・正岡子規・勝田主計等々と言った人物が輩出された。
画像は、今回の研修模様である。


10月5日(月)午前8時30分秋山兄弟生誕地を研究員18名と関係者8名はマイクロバスで出発し、午前9時40分発の防予フエリーに乗船三津浜港を出発した。天候は、曇天であった。
画像は、三津浜港沖合から見た松山城と西日本最峰、石鎚山1982mで、秋山好古・秋山眞之・正岡子規達が上京の際眺めた風景で手前の建造物を除けば当時と何も変わっていない景色である。そして明治28年夏目漱石が松山中学の英語教師として松山に赴任した時も漱石はこの風景を船上から見た伊予松山の風景である。


画像の島は四十島で、夏目漱石「坊ちゃん」に出てくる「別名ターナー島」で、同小説では「青島」で登場する。島の松ノ木が枯れ、高浜小学校の北岡先生が25年の歳月を掛けて自費で船を調達し松を植栽、毎日のように水を与え育て上げ立派な松になっている。24本あり平成17年国登録記念物に指定。松は根から有機酸を出し岩に食い込み岩から水分や養分を摂取しているから育つそうです。大学の偉い教授がもうこの島には松は育つまいと言われ市や県はあきらめていたが、北岡先生が「なにくそ魂」の精神を発揮し研究を重ね育て上げた。(北岡先生は理科の先生)秋山好古・秋山眞之・正岡子規・夏目漱石も眺めた島である。


午前10時50分定刻に山口県大島郡周防大島町、伊保田港に入港した。
周防大島町の観光マップで、伊保田港は周防大島町の一番右に位置する。


伊保田港の直ぐ近くに今回の研修地、陸奥記念館がある。記念館のプレートと引き上げられた戦艦陸奥の錨その後ろが戦艦陸奥記念館である。


戦艦陸奥記念館にある、引き上げられた錨。


陸奥記念館入口にある記念館表札。


戦艦陸奥の模型で、改装される前の陸奥、改装後は煙突が真っ直ぐになる。


戦艦陸奥の乗組員全員が集合、すごい迫力である。しかし陸奥不明の轟沈により優秀な多くの海軍軍人が亡くなった。


若き日の昭和天皇と戦艦陸奥の将校たち。
昭和2年海軍大演習の時記念写真。摂政宮から昭和天皇に即位され大元帥としての姿。


陸奥記念館内部、引き上げられた多くの遺品が展示してあった。
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