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伊予松山城天守保存・平成の大修理 1

2012年02月24日 | 伊予松山歴史散策
慶長7年(1602)1月15日加藤嘉明は勝山の峰を切りならし山頂地盤を造り標高132mの地に現在の天守を中心とする本丸を築いた。次に南西麓に二ノ丸を、西山麓に三ノ丸を設け平山城を築き上げたが完成1年前に40万石で会津藩に幕府の命により転封。
寛永4年(1627)2月第2代松山藩主には出羽国の上ノ山城主から蒲生忠知が24万石で異封して松山城を完成する。26年の月日を要した。

本丸の天守は5層であったが、第3代松山城主松平定行は寛永13年(1636)3層の天守に改築した。
この天守は、天明4年(1784)1月元旦落雷で消失、以後安政元年(1854)に現在の天守が再建されるまで伊予松山藩には70年間天守は存在しなかった。
その後、幾多の修復をして来た国指定重要文化財「松山城天守」は度重なる地震・台風等々で破損が酷く昭和の戦後三度目になる文化庁の指示に従い平成の大修理はを行った。

その様子を画像で紹介しよう。松山城観光ガイドとして今年で10年になりますがガイドをしながら画像におさめてきました。


日本三大連立式天守の一つ「伊予松山城本丸と本壇に建つ大天守・小天守と各櫓、廊下で結ばれている様が上空からよく分かる貴重な画像」伊予松山藩の石高は初代藩主加藤嘉明:20万石、二代藩主蒲生忠知が24万石、三代藩主松平定行が15万石、以後松平時代で維新を迎える。
初代藩主:加藤 嘉明「カトウ ヨシアキ」・・外様・20万石
二代藩主:蒲生 忠知「ガモウ タダチカ」・・外様・24万石・・滋賀県蒲生・日野に飛び地として4万石
三代藩主:松平 定行「マツダイラ サダユキ」親藩・15万石・以降、大政奉還まで親藩
     久松松平家は、初代松平定行から第15代松平勝成まで・第16代目から旧制久松に帰る(慶応4年7月6日新政府の指令を受け)


文化庁の指示に従い平成の大修理は、平成16年10月から修理開始天守は工事用の用足場を組み防御用ネットを張る。平成18年11月修理完成






大天守の瓦も下ろし新しい瓦に吹き替え



天守の垂木もシロアリで傷んでいる


天守軒桁の中はこんな状態


天守軒桁の漆喰の中もこんな状態、今回の大修理は漆喰壁も剥し新たにやり変え


大天守修理作業


天守の瓦の葵の紋は、松山藩三代目から徳川親藩になります
三代目藩主が、徳川家康の父親違いの弟の長男松平定行が伊勢国、桑名藩から入府しますので葵の紋になっております
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