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久米地区の神社探訪その11・素鵞神社 鷹子町

2015年07月14日 | 伊予松山歴史散策
素鵞神社
社 格:旧村社
所在地:松山市鷹子町天王山古墳 標高77mの高台
境内面積:350坪
神 紋:木瓜(もっこう):花形五瓜か五瓜に唐花どちらか
祭 神:健速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)農耕神とされる。
境内社:荒神(竃神・カマドノカミ)石塚社 橘本神社   
礼 祭:10月5日
由来沿革:南北朝時代長慶天皇(1368)行宮跡との説があるが、しかし天皇の伊予入国の事実はない。だが、地元氏子からは「てんのうさん」として親しまれていて、藩政時代には藩主代理の参詣がある。
明治40年、県告示で村社格を許され久米村長が参向し、神饌幣帛料の供進が行われていた。
現在は、日尾八幡神社の境外末社として鷹子町の氏神さんである。
社伝によると、神護寺として極楽寺を置き、嘉吉時代(1440年頃)伊予守浮左馬頭得能通光の崇敬厚く、家臣に命じて傷んだ社殿を修復したとある。また前記の様に長慶天皇が伊予入国の際この地に行幸された遺跡なので、当地を天王山と呼ぶようになったと言う伝説が残っている。
境内末社には、明治初期政府の合祀令により、荒神(竃神)、石塚社、と新しい橘本神社がある。
橘本神社は、元来果物菓子の神様で、鷹子地区は蜜柑を中心に先駆地として発展した村であったので昭和11年果物の神として和歌山県から勧請して、鷹子果樹組合末広組結成50年を記念して祭祀された神社である。境内には、末広組結成50年の記念碑が建立されている。
また神社近くに農業用水の「大池・上池」がありその拡張に、家財全てを投入して完成させた当地の庄屋、乃万安泱の頌徳碑があり、また三輪田米山揮毫の社号碑、注連石、御手洗石がある。
参考事項:橘本神社(きつもとじんじゃ)は、和歌山県海南市下津町橘本125番地に鎮座し、この神社から勧請した。この社は、田道間守公を祀り、果物とミカンの神様とも言われる。第11代、垂仁天皇のご命令で田道間守(たぢまもり)が不老長寿の霊菓(現在のみかんの原種であるタチバナ)を今の中国から初めて日本に持ち帰ったと古事記・日本書紀に記されている(西暦71年)。

次回は、鷹子町と隣接する南久米町にある久米地区・小野地区・石井地区一部の大氏神さんである、旧県社格の「日尾八幡神社」を探訪する。此れが最後の神社である。


素鵞神社の参道を進むと鳥居とその右側に三輪田米山揮毫の「素鵞神社」の社号碑がある。


素鵞神社の社号碑で、左に、米山の落款がある。
社号碑裏面には、御大典記念・昭和3年秋建立、石工金子長太郎、氏子中と刻印されている。不思議に思う事は、昭和3年三輪田米山は既に没しており、没後20年も経過している。「素鵞神社」と「米山」の書は、何時揮毫したものか不思議である。素鵞神社社号碑を建立するために書置きをしていたのだろうか?である。


注連石で、右側裏面に、昭和3年9月建立。左側裏面に、園芸20周年記念と書かれている。社殿には、176段の長い階段を上る。注連石の揮毫は、三輪田米山と久米郷土誌に記述がある。建立は社号碑同様昭和3年9月、米山没後20年経過の建立、生前の揮毫を流用したのであろう。


今まで探訪して来た神社で一番長い石段である。176段あった。長い石段を上り詰めると社殿が見えて来る。立派な灯篭を前に置き拝殿は鎮座している。


拝殿内部で色んな絵馬が奉納されている。


拝殿正面右に「熊野大権現」左に「牛頭天王(ごずてんのう)」の額が奉納されている。


拝殿内部に、農業用水の「大池・上池」の拡張に、家財全てを投入して完成させた当地の庄屋、乃万安泱の頌徳書碑が奉納掲示されている。
頌徳書碑は明治42年12月建立で、82年経過した碑文は判読困難で、その為平成3年10月、読みやすく頌の功績を意訳し広く功徳を称えるため奉納した。・・と謹書されている。


素鵞神社拝殿裏にある本殿。


本殿棟に当神社の神紋「木瓜(もっこう)」が配されている。(織田信長の家紋と同じでは?)


境内社で、右から荒神(竃神・カマドノカミ)石塚社。左端の社は不明。 


社殿から一段下に、農業用水の「大池・上池」の拡張に、家財全てを投入して完成させた当地の庄屋、乃万安泱の頌徳書碑が明治42年12月建立されている。
碑文は、近藤元粹(南州)謹書は、遠山 道、題額の揮毫者は不明。


乃万安泱の頌徳書碑の左に、鷹子果樹組合末広組結成50年記念碑が建立されている。
碑の題額は、「園藝五十周年記念」揮毫者は不明、碑文は、文学博士 重松信弘撰文、建立者は、久米末広組、昭和33年10月と書いてある。


鷹子果樹組合末広組結成50年を記念碑の左に「橘本神社(きつもとじんじゃ)」が鎮座している。勧請は、昭和11年果物の神として有名な和歌山県海南市下津町の橘本神社からの勧請で、この社は、田道間守公を祀り、果物とミカンの神様とも言われる。第11代、垂仁天皇のご命令で田道間守(たぢまもり)が不老長寿の霊菓(現在のみかんの原種であるタチバナ)を今の中国から初めて日本に持ち帰ったと古事記・日本書紀に記されている(西暦71年)神社。


乃万安泱が、農業用水の「大池・上池」の拡張に、家財全てを投入して完成させた上池で後方の森が素鵞神社(てんのうさん)。この神社は何故か、松山市景観樹保護地区として指定掲示板がない。
鷹子町は、温州みかん栽培で発展した地区で、溜池は柑橘類に欠かせない灌漑用水で現在も使われている。


乃万安泱が、農業用水の「大池・上池」の拡張に、家財全てを投入して完成させた大池。
久米地区には、農業用水の溜池が大字毎にあったが、昭和42年上浮穴郡面河村に、面河ダムが完成した。このダムは、農業用水、工業用水、発電用水として(水道水としては使用出来ない。)の多目的ダムで、ダム完成に伴い、一部の溜池が不要となった。久米地区の溜池も三つの池が取り壊されその跡地に小学校が出来た。最初に出来たのが、北久米小学校、次に窪田小学校、そして南久米に運動公園が完成した。鷹子町の「大池・上池」は現在も活用されている。
この大池は、久米地区にある最大の溜池である。

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