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久米地区の神社探訪その10・新田神社 久米窪田町

2015年07月11日 | 伊予松山歴史散策
新田神社
所在地:松山市久米窪田町648番地 龍神社内
境内面積:不明
神 紋:丸に一つ引両
祭 神:新田義宗では?( 義貞の3男)
境内社:龍神社境内に鎮座 
礼 祭:9月1日
由来沿革:龍神社の本殿と並べて新田神社がある。龍神社境内にあるが末社としての神社でなく、独立社として格付けした方が適切だと個人的に思う。
古老の記録によると「勧請は、 弘化4年(1846)4月、本宮より当村庄屋松田安右衛門、当村修験宗元乗院泉善の両人が勧請したのが始まりである。」と言う。
ここに本宮より勧請とあるが、本宮とは何処であるか?である。愛媛県下に新田神社と名の付く神社は、29社ある。その一つに、松山市河中町に両新田神社がある。新田義宗(南北朝時代の武将・新田義貞の3男)が各地転戦し、応永10年11月(1403年)当地山麓で卒・脇屋義治は応永10年8月当地にて卒・天文17年(1548年)3月18日河野道直は二廟を建立し、上新田廟・下新田廟社と称えたと言う、その後、二廟を合祀して両新田神社と改めた由緒ある神社である。(愛媛県神社誌より抜粋)この社から勧請したのではないか。
もう一つは、群馬県太田市金山城本丸跡に鎮座する新田義貞を祀る新田氏縁の新田神社からの勧請かもですが、しかしこの新田神社は、創立が明治6年神社創立の許可を得て、同8年社殿を建築し、新田神社の社號を賜る。・・とあるので年代的に合わない。
さて新田神社は元、南窪田村371番地、小野川の南土手下、新田泉の直ぐ東の扇状形の地に祀られていた。古老の語る所によると、神社合祀の趣旨に寄り、明治42年龍神社拝殿の南東に移転した。昭和44年拝殿は老朽化の為取り壊され、本殿は、龍神社の本殿と並べて直ぐ西に祭り現在に至っている。
話は逸れるが、元来久米村には8つの大字()があった。
それは、大字南久米・大字北久米・大字福音寺・大字来住・大字南土居・大字高井・大字窪田・大字鷹子である。昭和30年5月1日温泉郡久米村を廃し松山市と合併、昭和44年5月1日、市内全域の大字を廃し現在の公称町名となっている。
大字南窪田にあった氏神さん(新田神社)が現在は旧北窪田の龍神社に有るが、末社としてではなく一つのの氏神さんとして格付けするのが常道であると私個人的に考えた。
龍神社の入口は南と西にあり、西側が新田神社の入口と私は位置づけた。
此処で言いたい事は、旧久米村時代、大字毎にある小氏神の事でこれを中心にまとまり、大氏神と連結し信仰のもと村落が形成されていた。新田神社は、大字南窪田の氏神さんと思う。
よって探訪神社その10として扱う事にした。
祭礼には、「新田さん」と呼ばれ久米村内はもとより近郷の老若男女達の参拝者と出店が出店、また田舎芝居や青年団の芝居で賑わったが、戦後次第にすたれ現在は盆踊り程度となったそうだ。
註:明治44年、久米村に区長制度が実施された。大字窪田が大字北窪田と大字南窪田に区分された。現在も久米地区の自治会、土地改良区、公民館等々の活動は北窪田と南窪田に区別されている。但し公称町名は久米窪田町である。昭和44年5月1日、大字窪田は、久米窪田町と町名変更された。北窪田と南窪田は、久米地区内の通称自治区域名として存在している。

次回は、久米窪田町と隣接する鷹子町の氏神さん「素鵞神社」を探訪する。


右が龍神社本殿、左が新田神社の本殿。


新田神社の本殿。


右が龍神社本殿、左の小さい社が新田神社の本殿でその前に新田神社の社号碑がある。


新田神社本殿棟に描かれている神紋「丸に一つ引両」。
丸に一つ引両は、新田義貞の紋所である。
参考までに、伊予松山藩を脱藩し新撰組第10番組長となった原田左之助の家紋も「丸に一つ引両」である。


龍神社西口に昭和56年12月、玉垣、灯篭、注連石と相次いで奉納された。 
(新田神社に対してではないか?)


龍神社西口にある注連石で、高さ2,7m 右に「鳥舞」 左側に「魚躍」と三輪田米山の揮毫である。大氏神さんである日尾八幡神社の注連石の文字を少し小さくしたもので昭和56年12月建立。


龍神社の拝殿に掲示されている同神社鳥居修復時の寄付者名簿。この掲示元にも北窪田町内会、南窪田町内会と区分けされている。


参考までに:此れからの画像は、平成24年5月22日伺った新田義貞縁の地、群馬県太田市にある金山城跡を伺った時の画像である。金山城本丸跡には、新田義貞を祀った新田神社がある。参道の大きな石段を上がると立派な鳥居がある。今まで探訪して来た神社の鳥居とは形の違う神明鳥居(靖国神社型鳥居)であった。


鳥居を潜ると拝殿がある。平成24年5月22日は雨天で新田神社は、標高235mに在り画像の様に雨天であったためガスが掛かっていた。拝殿屋根の棟には、新田義貞の家紋「丸に一つ引両」が描かれていた。


拝殿内部。


境内には、新田神社由緒之碑がある。


史跡金山城址の石碑と歴代の城主系図が掲示してあった。
金山城は、群馬県太田市のほぼ中央にそびえる標高235.8メートルの独立峰、金山に築かれた山城である。別名「太田金山城」、「金山城」。
現在は、本丸跡とされている地点に新田神社がある。文明元年(1469) 新田一族であった岩松家純によって築城されるとあるが、新田義貞築城説もあるそうだ。
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