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松山市のロシア兵墓地で慰霊祭 開催

2016年03月25日 | 伊予松山歴史散策


ロシア帝国は、朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部を支配し、南下政策を試みそれを阻止しようとして発生したのが日露戦争である。時は、明治37年2月8日であった。ロシア帝国は、日本海制海権確保するために皇帝ニコライ二世は、明治37年10月15日、ロシア帝国太平洋第2艦隊を、明治38年2月16日、太平洋第3艦隊が、リバウ軍港から出航した。これが俗に言われる「バルチック艦隊」である。艦隊編成は、戦艦8隻、巡洋艦6隻、特務艦船、病院船等総勢38隻の大艦隊であった。日本海制海権を確保されると日本本土から満州への輸送は不可能になる。世界最強のロシア陸・海軍に全滅させられる日本は、ペリー来航以上の国難で日本中が不安になった。敗れると日本は、ロシアの植民地になってしまう。その戦いで捕虜となり松山に収容され亡くなった98人のロシア兵の墓地が松山市御幸町にあり毎年この時期に松山市主催で慰霊祭が行われている。
毎年参列している在大阪ロシア連邦総領事官は、急務で参列出来なく申し訳ありません・・そのおれいの書簡が送られてきて司会者が代読披露した。

特筆として、松山市立勝山中学校生徒会の皆さんが毎月「ロシア兵墓地清掃奉仕活動」を行っており墓地には草一つ生えてない。

ロシア兵墓地は、松山市御幸一丁目531番地2・・松山大学御幸キャンパスの西隣に在る。
慰霊祭の参列者は、ロシア兵墓地保存会会長、京口氏・日露親善協会愛媛県支部、逢坂氏・清水公民館長、倉田氏・松山商工会議所女性会長、守屋氏が参列された。


平成6年10月、ロシアから寄贈されたV・A・ボイスマン大佐の胸像この右に、昭和41年4月20日に松山市がV・A・ボイスマン大佐の記念碑を建立した。
 V・A・ボイスマン大佐は、日露戦争で秋山眞之が作戦参謀として戦った日本海開戦の帝国ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(通称、バルチック艦隊)の戦闘艦艦長で、明治38年9月21日松山の収容所で亡くなった。


本日、3月25日、松山市御幸一丁目531番地2に在る「ロシア兵墓地」で第56回目となる慰霊祭が開催された。
慰霊祭に当たり、松山市長の挨拶を松山市保健福祉部長、矢野一郎さんが「亡くなられた人の心情を思い、事実を後世へと伝えるとともに平和への願いを新たにしたい」と追悼の挨拶を代読した。

 最後に全員で墓地の掃苔をして献花して終わった。



墓地の清掃活動を続けている市立勝山中学校の生徒会長、波多野涼一郎さんが「清掃も31年になりますが今後も続けるよう努力します」戦争の無い世界平和でありますようにと挨拶をした。・・素晴らしい内容の言葉であった。


続いて、V・A・ボイスマン大佐に献花。


続いて松山捕虜収容所で亡くなった98人の墓に花を捧げた。


松山市立勝山中学校生徒会長、波多野涼一郎さんも献花。


 最後に参列者約40名全員で墓地の掃苔をし献花を行い終わった。


98人の墓に花を捧げた。・・画像の様に何時も綺麗に清掃され献花は絶えない。


ロシア兵墓地は毎月松山市立勝山中学校生徒会が清掃しており墓地には草一つ生えてない。
墓石は故郷ロシアを仰ぐ様に向いて立っている。
 
松山には日露戦争が始まった明治37年に全国初の捕虜収容所が設けられ、捕虜が収容された。松山が捕虜収容所となった理由としては諸説あるが、高浜に上陸する瀬戸内海のおだやかな港であり、輸送に便利なこと、気候が温暖であること、港から街まで鉄道があったことなどが挙げられます。
捕虜は公会堂や寺院に収容され、かつて松山市文京町にあった第22連隊城北練兵場(現愛媛大学、松山大学、松山赤十字病院、松山市立東中学校周辺)には26棟の病棟が建てられた。
 110数回に及ぶ捕虜輸送船により松山に収容された捕虜の数は、延べ6,000人に達したと言われ、多い時には4,000名を超える捕虜が松山にいたと言われています。(当時の松山市の人口は約30,000人)
捕虜兵の博愛処遇は県民に徹底されており、外出は自由で道後温泉に入浴、地元民との運動会に参加、ピクニックを兼ねて砥部焼観光等を楽しんだり、ユルイ捕虜生活が出来、その噂はロシア兵の間で広まり、ロシア兵が投降するときには、“マツヤマ”と叫んだとも伝えられている。将校たちは、祖国から妻を呼び寄せ、監視なしで自由に散策したり、温泉に行くこともできた。
 捕虜の中で、負傷し懸命の看護の甲斐なく異国の地で生涯を終えたワシリー・ボイスマン大佐、以下捕虜97名を埋葬しているのがロシア兵墓地である。なお、埋葬者の出身地は、当時の広大なロシア帝国の各地におよび、ロシアやポーランドに限らず、現在のウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国、中央アジア諸国が含まれている。松山市は一時期ロシア人墓地と表記していたが、NHK坂の上の雲放映に当たりロシア兵墓地と改めた。

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