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久米地区の神社探訪その9・龍神社 久米窪田町(旧北窪田)

2015年07月09日 | 伊予松山歴史散策
龍神社
所在地:松山市久米窪田町648番地
境内面積:530坪
神 紋:折敷に縮三文字
祭 神:龍神
境内社:厳島神社 荒神社 天神社 新田神社
礼 祭:10月5日
高井八幡宮を訪ね、隣町にある久米窪田町の氏神さん、龍神社を日を改めて訪れた。
由来沿革:貞観年間(平安初期)伊予国の国司神祇伯正四位源寛王が創立した由緒ある神社で、現在は日尾八幡神社の境外末社となっている。祭神は龍神で、境内前の小野川(中世は、縦淵川と言っていた)に龍神淵があったと言う事である。
当神社は、祈雨の霊験の御利益が際立っていて、藩政時代には伊予松山藩主松平氏の尊崇厚く、郡代官が度々雨乞いの祭典を執行し、その都度龍神社の有難い慈雨を頂いたとの事である。
江戸末期の祭文によると、安政2年(1855)7月、同3年6月、同4年5月、文久元年(1861)5月、明治6年(1873)7月の5回雨乞いの祈願の記録が残っている。
村の歴史を知る年寄によると「米山さんが郡代官を従え、雨下駄を履き雨傘をさして、炎天下の中雨乞い祈祷に来られた。」と言い伝えられていると言われた。
慶応3年(1867)3月吉日に久米郡の有志によって鳥居が建立された。鳥居は三津ヶ浜の和気屋久左衛門が誂え、150日、40両であったと記録にある。鳥居には米山の揮毫で「久米郡中」が深く彫られている。平成13年3月24日発生した、震度5強の芸予地震で鳥居が破損し修復した。・・その記念碑が建立されている。
龍神社の本殿と並べて新田神社がある。境内社としての神社でなく、独立社として格付けした方が適切だと思う。
詳細は次の新田神社で書く。
次回は、龍神社境内に鎮座する、新田神社を探訪する。


龍神社参道から鳥居、社殿を望む。
鳥居は、平成13年3月24日発生した震度5強の芸予地震で破損し修復した。・・その記念碑が建立されている。(平成13年3月24日芸予地震の為修復、平成13年5月吉日 氏子中と書かれた記念碑が鳥居の前に建立されている。)
鳥居は、慶応3年(1867)3月吉日に久米郡の有志によって建立され、米山の揮毫で「久米郡中」が深く彫られている。


拝殿で、拝殿前には、昭和55年6月に建立された社号碑「龍神社」がある。


拝殿正面に掲げてある社号額「龍神社」。


拝殿後ろにある本殿、屋根の棟に神紋「折敷に縮三文字」がある。


拝殿内部で、沢山の絵馬が奉納されている。長い黒い棒は、神輿の担ぎ棒で透明のビニールで汚れないように巻いている。


北窪田、南窪田、共用の大人神輿、神輿に神紋の「折敷に縮三文字」がある。


拝殿に掲示されている、龍神社の由来が書かれている説明板。


拝殿上部にある神紋の「折敷に縮三文字」。


境内社が拝殿東側に2社ある。左が荒神社、右が天神社。


拝殿西側に1社、厳嶋神社。


拝殿左に「「戦捷記念」の石碑が建立されている。裏面は判読難しいが、明治37.8年役とありその他は書かれていない。明治37.8年役とは、明治37年2月8日~明治38年9月5日に掛けて行われた日露戦争の事で、窪田村から戦いに出征し凱旋した軍兵士と地元有志が、建立した石碑であろう。


神社南側入り口の前を流れる「小野川」に掛かる宮前橋からみた社殿。


神社の東側から見た社の景観樹林。


同神社も、松山市景観樹保護地区として、昭和56年12月23日に指定され指定番号は第39号である。
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