令和6年4月29日午後7時30分からNHK総合TVで 放映された「日本最強の城スペシャル」の一場面。
画像は、TVに放映された画像をデジカメで撮影、縁を切り取った画像。
TVに放映された画像をデジカメで撮影したもの、縁を切り取る前の画像。
令和6年4月11日松山観光コンベンション協会事務局からNHK番組の「あなたも絶対行きたくなる日本最強の城スペシャル」制作スタッフから放映に使用したい画像があります。使用許可をお願いします・・との連絡があった。
その画像は、私が以前「松山観光コンベンション協会」のHPに掲載した画像で、西日本最高峰の石鎚山1982mを背景にした伊予松山城天守であった。
NHKさんは、使用をさせて頂けるのであれば原画が欲しいとの由、原画を送った。放映は4月下旬頃だとはっきりした放映日時の連絡はなかった。
これからの画像は、原画である。
NHKには数種類の画像を送った。
石鎚山は、松山から観るのが一番綺麗に観える。
使用した機材は、カメラ:CANON 7D
レンズ:CANON ZOOM EF100~400m ZOOM
伊予松山城は、松山市のほぼ中心部の標高132mの勝山山頂に位置し天守最上階は160mあり全国にある城(現存天守・復元天守・復興天守・外観復元天守)平山城・平城・山城の中で伊予松山城は、日本三大平山城の一つ(津山城・姫路城・伊予松山城)の内一番高い所に本丸がある。
少しレンズを引いて撮影すると松山の町並みが視えてくる。
松山市の人口は、令和6年5月1日現在 499,930人、中四国で三番目の人口を有し広島市・岡山市に次いでの自治体で、四国では一番の人口を抱える街である。
西日本最高峰の石鎚山1982mを背景に日本三大平山城・日本三大連立式天守を誇る天守を撮影出来る場所は、一箇所しかない、この撮影場所を見つけるのに大変な苦労をした。
撮影に行ってみると先人たちはスタンバイしていた。
撮影の方角から考えると、松山総合公園と誰しも思い行ってみると全然場所違いであった。
道は、柑橘農家さんが使う地元土地改良区が管理する農業用道路のような道で撮影場所も、ちょっとした車を止める広場を借りてである。
その場所から見る松山城はこんな感じで、400m望遠レンズ以上でないと頭に描いた画像は撮れない。
そしてなにより肝心なのは、気象条件である。
大気の水蒸気の少ない季節、石鎚山に冠雪があること、石鎚山がくっきりと見えること。
我が家の玄関から真正面に石鎚山が見えるので石鎚山の状況を見て撮影場所に出かけていた。自宅から撮影場所までバイクで20分程である。
伊予松山15万石の城下町に夜の帳が降りる。
撮影場所は、道後温泉の裏山「瀬戸風峠」から撮影。
街の中心に見える山が松山城本丸のある勝山132mで、その奥に見える海は瀬戸内海「伊予灘」である。
伊予松山城天守は、江戸時代に築城された一番新しい天守・安政元年である。
撮影場所は、松山市畑寺町で四国八十八ヶ所第50番札所「繁多寺」の南側からである。
初代藩主加藤嘉明が築いた天守は、第3代藩主松平定行の時代(寛永19年)三層の天守に改築された。その後天明4年天守を含む本壇建造物は落雷で消失、以後70年間天守を含む本壇には建造物は現存しなかった。
現在の天守は、安政元年に再建された江戸時代では一番新しい天守である。
大政奉還され、幕府は無くなり、天皇を中心とした新政府が施行され、明治6年廃城令発布された。江戸末期193の天守があったが全て廃城命令であった。
いち早く伊予松山から明治新政府、大久保通卿に対して存続の上申が行われ、木戸孝允卿から存続の許可が下された。その許可書は現在愛媛県立図書館に大切に保管されている。
明治新政府は、松山から城の存続願いが上申されたのを切っ掛けに18ケ所から城の存続願いがあり、政府は、18箇所の城の存続を決定した。伊予松山城を含め19城であった。
伊予松山城天守は、再建から14年しか経過しておらず、廃城令でハイ分かりました・・で取り壊すのは忍び難い事で(新築して14年まだ木の香りが残る)
伊予松山藩の財政は厳しい中やりくりして再建した天守是非残してほしかったと思う。(存続の理由は、市民の憩いの場所としてが・・おおきな理由であった。)
明治新制は19城の存続を許可した。先の大戦で消失した5城と不審火で消失した1城が欠落し今は、下記の天守が現存している。
丸岡城・松本城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城・丸亀城・宇和島城・備中松山城・高知城・弘前城・伊予松山城、これが現存12天守である。