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伊豫松山城築城の候補地を探る

2012年09月26日 | 伊予松山歴史散策
慶長6年(1601)加藤嘉明は徳川家康に築城の位置に付いて、天山と御幸寺山と勝山の三ヶ所を候補地として上申したところ、勝山が許可されたとの説話がありこのことは世に広く知られている事柄である。

そして慶長7年(1602)1月15日吉日に勝山城の工を起した。これと前後して城下町の計画も着手し新城下町の構想は、勝山の山麓に三之丸をつくり武家屋敷を設け、城西、城南、城東方面に商家を置き、寺院を城北に建立した。

慶長8年(1603)10月に嘉明は家臣と正木の住民とともに居を新城下に移し、ここに「松山」という名称が公にされた。・・現在の松山市の誕生である。

勝山の城をこれより伊豫松山城といい、築城建設の工事は20余年後の寛永4年(1627)に完成するという長い年月がかかった。この間、築城経費捻出のため年貢の取立てが多く農民は苦労した。

嘉明は、松山城完成一年前に幕府の命で会津藩40万石に転封となり、手掛けた松山城の完成を見ることが出来なかった。
寛永8年(1631)会津藩江戸屋敷で逝去 69歳。

画像は、伊豫松山城築城の候補地を昨日(25日)松山総合公園展望台(141m)から撮った。


松山総合公園展望塔頂上141mから撮影した、伊豫松山城築城の三候補地の位置


松山城天守最上階、160mから撮った、第一候補地の天山


松山城天守最上階、160mから撮った、第二候補地の御幸寺山


松山総合公園展望塔141mから撮った、第三候補地の勝山で現在の松山城


第二候補地の御幸寺山山頂で、小さな神社がある


第一候補地の天山には、天山神社があり、この山は奈良県の天香久山と深い関係がある、昭和52年4月に「古代より由緒と歴史が取り持つ交流が開始その記念が建立されている。奈良県橿原市南浦町と愛媛県松山市天山町との交流


伊豫国・天山 大和国・天香久山、歴史ある両山を記念して石碑


昭和58年に整備着手し平成11年に完成開園した、松山市総合公園、展望広場は、標高126m、展望塔左が141mある・・


松山市総合公園展望塔左の塔の窓から見た松山の城下町


参考までに
奈良県橿原市南浦町の「天香久山」平成22年11月16日撮影
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